第十三章 歴史を変えるための一歩
秋が深まっても、正成の机から訴状が消えることはなかった。朝廷の裁定を待つ武士たちの窮状を読み終えるたび、正成は次の書状を開いた。美月は、正成が読み終えた書状を片づけながら、自分に任せてもらえる仕事を考えていた。
***
ある朝、美月は正成のもとを訪ねた。正成は書状を広げ、何やら考え込んでいたが、美月の姿を見ると顔を上げた。
「どうした、美月。何か用か」
「正成様、少しお話ししたいことがあります」
その真剣な表情を見て、正成は書状を脇へ置いた。
「申してみよ」
美月は一度息を整えてから口を開いた。
「以前、寺で戦いに苦しむ人たちを見ました。あの人たちのために、何かできないかと考えていたんです」
「うむ。覚えておる」
「戦で家族を失った人や、けがをした人たちが、安心して暮らせる場所を作れないでしょうか」
正成は黙って美月の言葉を聞いていた。
「寺の方々と協力して、食べ物を届けたり、傷の手当てをしたり、子どもたちの世話をしたり……。大きなことはできないかもしれません。でも、何もしないよりは、きっと誰かの助けになると思うんです」
美月は少し不安になりながらも、正成の顔を見つめた。やがて正成は、静かに微笑んだ。
「よい考えじゃ」
「本当ですか」
「戦で傷つくのは、刀を持つ者だけではない。家を失い、家族を失い、明日の食にも困る者がおる。その者たちを助けることも、世を治める者の務めじゃ」
正成はしばらく考えた後、続けた。
「寺の住職に話をしてみよう。わしからも米や布を用意できるよう手配する。じゃが、美月、一つ覚えておくがよい」
「何でしょうか」
「人を助けるには、心だけでなく、続けるための力がいる。一度食べ物を配れば終わりというものではない。無理を重ねて、途中で立ち行かなくなってはならぬ」
美月は深くうなずいた。
「はい。私も、できることを一つずつ考えます」
***
それから数日後、美月は正成の家臣たちとともに、都の外れにある寺を訪れた。住職は美月の申し出を聞くと、驚いたように目を見開いたが、すぐに深く頭を下げた。
「姫様が、そのようなことをお考えくださるとは……。ありがたいことでございます」
「私一人では何もできません。どうか、皆さんの力を貸してください」
住職はうなずき、寺の一角を使って傷病者や身寄りのない人々を受け入れることを約束した。美月は、千早城で負傷兵の手当てをしていた頃のことを思い出していた。現代から持ってきた包帯や消毒薬は、すでに残り少なくなっていたが、傷を清潔に保つことや、手当ての前に手を洗うことの大切さは、当時の人々にも伝えることができた。
「傷に触れる前には、できるだけ手をきれいにしてください。それから、汚れた布をそのまま使わないようにしましょう」
美月がそう説明すると、寺で手当てをしていた年配の女性は、不思議そうな顔をした。
「水で洗うだけでも違うのでございますか」
「はい。目には見えなくても、傷を悪くする原因があるんです」
現代の医学をすべて説明することは難しかったが、美月は自分が知っている範囲で、少しずつ伝えていった。その日から、寺には小さな救護の場が生まれた。
***
ある日の午後、美月が寺で傷病者の手当てを手伝っていると、一人の若い武士が運び込まれてきた。男は腕に深い傷を負い、顔色も悪かった。聞けば、所領をめぐる争いに巻き込まれ、刃傷沙汰になったという。
「お願いです。この人を助けてください」付き添ってきた女性が涙ながらに訴えた。美月はすぐに傷の様子を確かめた。出血は続いていたが、男の意識はあった。
「きれいな布を持ってきてください。それから、沸かして冷ました水をお願いします」
寺の者たちが慌ただしく動き始めた。美月は傷口を清潔な布で押さえながら、男に声をかけた。
「大丈夫です。今、手当てをしますから」
しかし、男の顔色は次第に青ざめていった。美月は胸の奥に冷たいものを感じた。現代なら、病院へ運び、適切な処置を受けることができるかもしれない。だが、この時代には、それができない。自分の知識だけでは、救えない命がある。その現実が、美月の胸に重くのしかかった。やがて寺に呼ばれた医師が到着し、男の傷を診た。美月はその処置を手伝いながら、ただ男が助かることを願い続けた。幸い、男はその夜を越え、数日後には少しずつ食事を取れるようになった。
付き添っていた女性が何度も頭を下げる姿を見て、美月は安堵したが、同時に、自分の力の小ささを痛感していた。
***
その夜、屋敷へ戻った美月は、正成に寺での出来事を話した。正成は最後まで黙って聞いていた。
「助かって、よかったな」
「はい。でも、もしもっと傷が深かったら、私にはどうすることもできなかったと思います」
美月は膝の上で手を握りしめた。
「私、未来のことを知っているのに、目の前の人を助けることさえ、こんなに難しいんですね」
正成は、その言葉を聞いて静かにうなずいた。
「美月、人の命を救うことは、誰にとっても容易なことではない。わしとて、戦場で多くの者を失ってきた」
正成の声には、深い悔いがにじんでいた。
「じゃが、救えぬ命があるからといって、救おうとすることをやめてはならぬ。そなたが今日、あの若者のそばにおったことにも意味がある」
美月は顔を上げた。
「正成様……」
「そなたは、わしが知らぬ世から来た。わしには分からぬことを、そなたは知っておる。されど、そなたにも分からぬことがある。それでよいのじゃ」
正成は穏やかに微笑んだ。
「互いに足りぬものを補い合えばよい。わしも、そなたから学ぶことがある」
***
数日後、正成は美月を呼び、机の上に広げた書状を見せた。
「美月、そなたに聞きたいことがある」
「何でしょうか」
「赤松円心殿から、また書状が届いた。恩賞のことだけではなく、朝廷の政に対する不満が、播磨の武士たちの間で強まっておるという」
美月は書状へ目を落とした。赤松円心が、やがて足利尊氏に味方することを、彼女は知っていた。
「正成様……円心様は、今はまだ朝廷に従っておられるのですよね」
「無論じゃ。じゃが、心の内までは分からぬ」
美月はしばらく考えた。そして、思い切って口を開いた。
「正成様。円心様に、直接お会いすることはできないでしょうか」
正成は驚いたように顔を上げた。
「円心殿にか」
「はい。書状だけでは伝わらないこともあると思うんです。円心様が何に困っておられるのか、どうして不満を持っておられるのか、直接お話を聞いてみたいんです」
正成は美月を見つめた。
「そなたは、円心殿の心を変えようというのか」
美月はすぐには答えられなかった。本当のことを言えば、そうだった。赤松円心が足利尊氏の側につけば、やがて正成と敵対することになる。もし、その前に何かを変えることができれば、歴史の流れも少しは違ってくるかもしれない。だが、未来を知っているからといって、相手の人生を自分の思いどおりに変えてよいのだろうか。美月は、その迷いを抱えたまま答えた。
「心を変えることができるかどうかは分かりません。でも、何も知らないまま敵同士になるより、今のうちに話をしておきたいんです」
正成はしばらく沈黙していた。やがて、ゆっくりとうなずいた。
「分かった。円心殿に会う機会を設けられるか、考えてみよう」
美月は思わず身を乗り出した。
「本当ですか」
「ただし、美月。人の心は、理屈だけでは動かぬ。そなたがどれほど正しいことを言おうとも、相手には相手の守るべきものがある。それを忘れてはならぬ」
「はい」
美月は深く頭を下げた。
***
その夜、空には雲が広がり、月の姿は見えなかった。美月は屋敷の縁側に座り、暗い庭を見つめていた。これまで彼女は、歴史が決められた道を進んでいくことを恐れていた。しかし、寺で傷ついた人々を助け、正成と話し合い、赤松円心に会おうと決めたことで、初めて自分から未来へ働きかけようとしていた。
たとえ、歴史を大きく変えることができなくても、目の前の一人を救うことはできるかもしれない。そして、その小さな行動が、いつか大きな変化につながるかもしれない。美月は静かに目を閉じた。正成を守るために、まずは人の心を知ることから始めよう。やがて雲の切れ間から、細い月の光が庭へ差し込んだ。その淡い光を見つめながら、美月は自分が歩み始めた道の先に、どのような運命が待っているのかを考えていた。それは、歴史の流れに抗おうとする、一人の娘の小さな一歩だった。




