第十二章 揺らぐ武士の心
元弘三年の秋。鴨川の木々が色づく頃、武士たちの不満は屋敷の内から都の通りへとあふれ始めた。美月もまた、正成のそばで暮らすうちに、都の人々の表情が以前とは変わってきたことを感じていた。ある日の午後、美月は正成に頼まれた書状を届けるため、供の者とともに都の通りを歩いていた。すると、道端に集まっていた数人の武士たちの声が耳に入った。
「我らは命を懸けて戦ったのだ。それなのに、恩賞はいつまで待たされるのだ」
「朝廷に願い出ても、書状を出せと言われるばかりじゃ。土地の争いも片づかぬ」
「これでは、幕府の頃と何が違うのか分からぬではないか」
武士たちは周囲を気にする様子もなく、不満を口にしていた。その言葉を聞きながら、美月は足を緩めた。彼らは決して、戦いを望んでいるわけではない。ただ、自分たちが命を懸けて戦ったことを認めてもらい、家族と安心して暮らせる日々を求めているのだろう。美月には、その気持ちが痛いほど伝わってきた。
その日の夕刻、正成の屋敷には一人の武将が訪れていた。新田義貞だった。鎌倉を攻め落とし、北条氏を滅亡へと追い込んだ義貞は、今や新しい時代を代表する武将の一人となっていた。しかし、その表情には、戦場で勝利を収めた者とは思えぬほど深い疲れが浮かんでいた。
「正成殿、久しいな」
「義貞殿。ようお越しくだされた」
二人は互いに礼を交わし、座敷へと進んだ。美月は茶を運ぶために部屋へ入ったが、義貞の鋭い眼差しに思わず背筋を伸ばした。
「こちらの姫君は?」
義貞が尋ねると、正成は穏やかに答えた。
「訳あって、わしが預かっておる楠木一族の姫にござる。名を美月と申します」
「楠木美月と申します。お目にかかれて光栄です」
美月が丁寧に頭を下げると、義貞はわずかに表情を和らげた。
「楠木殿の一族ならば、さぞ気丈な姫君であろう」
美月は返す言葉に迷いながらも、小さく微笑んだ。茶を置いて下がろうとしたとき、義貞が正成に向かって口を開いた。
「正成殿。近頃、武士たちの間に不穏な声が広がっておることは、ご存じであろう」
正成は静かにうなずいた。
「恩賞のことにござろう」
「それだけではない。所領をめぐる争いも絶えぬ。幕府を倒した者同士が、今度は互いの土地を奪い合うようなことになれば、何のために戦ったのか分からなくなる」
義貞の言葉には、怒りよりも苦悩がにじんでいた。正成はしばらく考えてから答えた。
「帝も、すべての者に報いようとお考えのはず。されど、長年積み重なった争いを、一朝一夕に収めることは難しい」
「分かっておる。だが、武士たちは待つことに慣れておらぬ。戦場では、命を懸ければ勝敗が決まる。ところが今は、どれほど功を立てても、いつ報われるのかさえ分からぬのだ」
美月は二人の会話を聞きながら、歴史の教科書では数行で説明されていた建武の新政の混乱が、実際には一人ひとりの暮らしに深く関わっていたのだと実感していた。
義貞が帰った後、美月は正成に尋ねた。
「正成様、新田様は、帝に不満を持っておられるのでしょうか」
正成は首を横に振った。
「義貞殿は、帝に忠義を尽くそうとしておられる。じゃが、忠義を尽くすことと、すべてに納得することは同じではない」
「それでは、これからどうなるのですか」
正成はすぐには答えなかった。庭先に目を向け、しばらく風に揺れる木々を見つめていた。
「人の心が離れれば、どれほど立派な政も続かぬ。大切なのは、不満が怒りに変わる前に、その声を聞くことじゃ」
美月は、その言葉に深くうなずいた。だが、彼女の胸には、別の不安が広がっていた。足利尊氏と新田義貞。今は同じ朝廷に仕える武将でありながら、やがて二人は対立し、正成もまた、その争いに巻き込まれていく。美月は、未来を知っている自分に何ができるのかを考え続けていた。
一方、足利尊氏の屋敷では、佐々木道誉が訪れていた。
「尊氏殿、近頃は武士たちがますます騒がしくなっておりますな」
道誉は杯を手にしながら、軽く笑った。
「騒がしいのは、皆が新しい世に期待しておったからであろう」
尊氏は静かに答えた。
「期待が大きければ、失望もまた大きくなるものです」
道誉は杯を置き、尊氏の顔を見つめた。
「朝廷は武士たちをまとめることができるのでしょうか」
尊氏は答えなかった。その沈黙を見て、道誉はさらに言葉を続けた。
「今、武士たちが誰を頼りにしているか、ご存じでしょう」
「……わしに何を言わせたい」
「何も。ただ、世の流れというものは、人の望みとは別に動くことがあると申し上げたいだけです」
尊氏は道誉から目をそらし、庭の向こうに広がる空を見つめた。彼はまだ、後醍醐天皇に背こうとは考えていなかった。しかし、武士たちの不満が自分のもとへ集まり始めていることは、誰よりもよく理解していた。
数日後、美月は正成とともに、都の外れにある寺を訪れた。そこには、戦いで家族を失った者や、暮らしに困った人々が身を寄せていた。正成は以前から、こうした人々のために米や衣を届けるよう手配していたのである。寺の境内では、幼い子どもたちが母親のそばに寄り添い、年老いた男が傷んだ草履を直していた。美月は持参した包みを開き、寺の者とともに食べ物を配る手伝いを始めた。
「ありがとうございます、姫様」
一人の母親が深く頭を下げた。その腕には、まだ幼い赤子が抱かれていた。
「この子の父親は、戦で亡くなりました。新しい世になれば、少しは暮らしがよくなると聞いておりましたが……」
母親はそこで言葉を詰まらせた。美月は何も答えられなかった。歴史の教科書には、鎌倉幕府の滅亡も、建武の新政も、足利尊氏の挙兵も記されている。しかし、戦いで夫を失った母親が、その後どのように子どもを育てたのかまでは書かれていない。美月は、赤子の小さな手を見つめた。この子にとって大切なのは、誰が天下を治めるかではない。明日も母親とともに生きていけることなのだ。そのとき、美月の中で、これまでとは違う思いが芽生えた。正成の命を守りたい。
それは変わらない。けれども、もし歴史を変えることができるのなら、戦いによって苦しむ人々の未来も、少しは変えられるのではないだろうか。美月は立ち上がり、寺の境内を歩いていた正成のもとへ向かった。
「正成様、お願いがあります」
「どうした、美月」
「私にも、何かお手伝いをさせてください。戦いで傷ついた人や、家族を失った人たちのために、できることがあると思うんです」
正成は驚いたように美月を見つめたが、やがて静かに微笑んだ。
「そなたは千早城でも、負傷した者たちを助けてくれたな」
「はい。でも、あのときは目の前の人を助けることで精いっぱいでした。今は、もっと多くの人の力になりたいんです」
正成は美月の言葉を聞き、深くうなずいた。
「ならば、わしとともに考えてみよう。戦に勝つことだけが、武将の務めではないからな」
その言葉を聞いた美月の胸に、小さな希望が灯った。
寺の鐘が鳴り、市場の商人たちが店を畳み始めた。美月は夕餉の支度へ戻る母親を見送り、寺へ届ける薬の残りを確かめた。ある夕暮れ、正成の屋敷に一通の書状が届けられた。差出人は、播磨の赤松円心だった。正成は書状を開き、静かに目を通した。読み進めるにつれて、その表情がわずかに険しくなった。
「正成様、何かあったのですか」
美月が尋ねると、正成は書状を畳み、しばらく考えてから答えた。
「円心殿もまた、朝廷の恩賞に思うところがあるようじゃ。播磨では、武士たちの間に不満が広がっておるという」
美月は息をのんだ。赤松円心。六波羅探題を攻める戦いで大きな役割を果たした武将であり、やがて足利尊氏を支える側に立つ人物だった。正成は書状を手にしたまま、庭の向こうを見つめていた。
「戦が終わっても、人の心の争いは終わらぬものじゃな」
美月は、その横顔を見つめながら、これから起こる出来事の重さを感じていた。




