第十一章 新政に忍び寄る亀裂
元弘三年の夏。京の宮中には、恩賞を求める武士たちの姿が絶えなかった。幕府を倒した者同士であっても、与えられる役職や土地をめぐって、その表情は険しくなり始めていた。楠木正成もまた、朝廷から与えられた務めを果たすため、京での日々を送っていた。千早城で幕府の大軍を相手に戦い抜いた功績は高く評価され、正成の名は多くの人々に知られるようになっていたが、本人はその名声を誇ることなく、これまでと変わらぬ落ち着いた態度で政務に向き合っていた。
美月は、正成の預かる楠木一族の姫として、そのそばで暮らしていた。千早城にいた頃とは異なり、都での生活には細かな決まりごとが多かった。衣の着方から人への挨拶、身分に応じた言葉遣いまで、現代の大学生である美月にとっては戸惑うことばかりだったが、正成は彼女が失敗しても決して厳しく叱ることはなかった。
「慣れぬことばかりであろう。焦らず覚えてゆけばよい」
そう言って笑う正成に、美月は何度も救われていた。しかし、都で暮らし始めてしばらくすると、美月は人々の会話の中に、ある変化が生まれていることに気づいた。それは、新しい政治に対する不満だった。
ある日、正成のもとへ、戦いで功績を挙げたという数人の武士が訪ねてきた。彼らは皆、幕府を倒すために命を懸けて戦った者たちだったが、その表情には喜びよりも困惑が浮かんでいた。
「正成殿、我らは帝のために戦いました。されど、恩賞の沙汰はなかなか定まらず、所領についても争いが起きております」
一人の武士がそう訴えると、別の者も続けた。
「幕府の世が終われば、我らの暮らしも少しはよくなると思っておりました。ところが、戦いが終わっても先行きは見えませぬ」
正成は彼らの言葉を遮ることなく聞いていた。
「そなたたちの働きが軽んじられてよいはずはない。わしからも、しかるべきところへ申し伝えよう」
「ありがたきお言葉にございます」
武士たちは深く頭を下げたが、その顔から不安が消えることはなかった。彼らが帰った後、美月は正成に尋ねた。
「正成様、あの人たちは、どうしてあんなに困っているのですか」
「戦に勝ったからといって、皆の暮らしがすぐによくなるわけではないのじゃ。土地にはそれぞれ持ち主がおり、長く続いた争いもある。誰かに与えれば、別の誰かが失うこともある」
正成はそう言って、机の上に置かれた書状へ目を向けた。
「帝は新しい世を築こうとしておられる。じゃが、多くの者の望みを一度にかなえることは難しい」
美月は静かにうなずいた。美月は訴えの書状を重ね直した。教室では新政の失敗と一言で呼んでいたものが、ここでは裁定を待つ人々の顔になっていた。誰もが新しい世に希望を抱いている。けれども、その希望の形は、人によって異なっていたのである。
同じ頃、足利高氏のもとにも、多くの武士たちが集まっていた。六波羅探題を攻め落とし、幕府滅亡に大きく貢献した高氏は、武士たちの間で強い影響力を持つようになっていた。朝廷からは後醍醐天皇の名の一字を賜り、尊氏と名乗ることになるが、その名が広く知られるにつれて、彼を頼る者も増えていった。ある日の夕刻、高氏の屋敷には佐々木道誉が訪れていた。
「高氏殿、いや、今は尊氏殿とお呼びすべきでしょうな」
道誉が笑みを浮かべると、尊氏も穏やかに応じた。
「名が変わったところで、わし自身が変わるわけではない」
「されど、名は人の立場を変えるもの。帝より一字を賜ったとなれば、周囲の見る目も変わりましょう」
道誉はそう言って杯を置いた。
「それにしても、武士たちの不満は日に日に増しておりますな」
尊氏は黙っていた。
「戦いで功を立てた者が報われねば、人の心は離れてゆきます。新しい世を築くには、武士の力が必要であることを、朝廷も忘れてはなりますまい」
尊氏はしばらく考えてから答えた。
「帝が目指される世にも、道理はある。じゃが、武士たちの暮らしを守ることもまた、大切なことじゃ」
道誉はその言葉を聞き、静かにうなずいた。
「その両方をかなえることができれば、争いは起こりますまい。しかし、世とはなかなか思うようには動かぬものです」
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。都の空には、夕暮れの雲が広がっていた。
数日後、美月は正成に伴われ、朝廷へ向かうことになった。道中、都の通りには多くの人々が行き交い、商人たちの声が響いていた。幕府が滅びたことで戦いが終わったと喜ぶ者もいれば、土地の争いや税の負担に苦しむ者もいた。美月は、そうした人々の姿を見つめながら、新しい政治が本当に誰のためのものなのかを考えていた。
「正成様、帝は、皆が幸せになる世を作ろうとしておられるのですよね」
「無論じゃ」
「でも、戦いで苦しんだ人たちが、今も困っているのを見ると……」
正成は歩みを緩めた。
「美月、よい世とは、一人の力だけで築けるものではない。帝がどれほど強い志をお持ちでも、それを支える者たちが己の利益ばかりを求めれば、世は乱れる」
美月はその言葉を聞き、正成を見上げた。
「正成様は、どうすればよいと思われますか」
「まず、人の声を聞くことじゃろうな。武士にも、公家にも、田畑を耕す者にも、それぞれの暮らしがある。誰か一人の望みだけをかなえても、平穏な世にはならぬ」
正成の言葉には、千早城で負傷兵たちを気遣っていたときと同じ温かさがあった。美月は、その横顔を見つめながら、正成が歴史の中で忠臣として語られる理由を、少しずつ理解し始めていた。
朝廷では、後醍醐天皇が新しい政治の方針について、公家や武将たちの意見を聞いていた。正成もまた、呼び出しを受けた一人だった。美月は控えの場所で待つことになったが、宮中を行き交う人々の表情から、朝廷の内部にも緊張が広がっていることを感じ取っていた。やがて正成が戻ってくると、その顔には疲れが浮かんでいた。
「正成様、お疲れですか」
「少しな」
正成は穏やかに笑ったが、美月には、その笑みの奥に何かを考え込んでいるような気配が感じられた。
「何かあったのですか」
「帝は新しい世を築くため、懸命に政を進めておられる。じゃが、朝廷の中にも意見の違いがあり、武士たちの望みも一つではない」
正成はしばらく黙ってから続けた。
「戦で敵と向き合うときは、何を守るべきかがはっきりしておる。されど、政の場では、誰もが己の考える正しさを持っておる。難しいものじゃ」
美月は、その言葉を胸に刻んだ。正成は戦場では誰よりも冷静で、知恵を働かせる武将だった。しかし、政治の世界では、その知恵だけでは解決できない問題が次々と現れていたのである。
その夜、美月は屋敷の庭に出て、静かに月を見上げていた。千早城で初めて正成と出会ったとき、彼女はただ、歴史の中に迷い込んでしまったことへの驚きと不安でいっぱいだった。しかし今は、正成のそばで人々の暮らしを見つめ、政治の難しさを知り、これから起こる争いの兆しを感じ取っていた。建武の新政は、まだ始まったばかりだった。けれども、その内側には、すでに小さな亀裂が生まれ始めている。美月は、大学で学んだ歴史の記憶をたどった。足利尊氏。新田義貞。楠木正成。後醍醐天皇。
今は同じ新しい世を支えようとしている人々が、やがて異なる道を歩むことになる。そして、その対立が南朝と北朝に分かれる長い争いへとつながっていく。美月は、胸の奥に不安を抱えながらも、一つの思いを強くしていた。歴史がどのように動こうとも、正成のそばにいて、その命を守りたい。だが、その願いをかなえるためには、ただ未来を知っているだけでは足りないのかもしれなかった。月の光が、庭の木々を静かに照らしていた。都の夜は更けていった。




