第十章 新しき帝の世
元弘三年六月、京の都には初夏の風が吹いていた。幕府の滅亡を知った人々は、長く続いた戦いの終わりを語り合っていた。しかし、都の人々の表情には喜びばかりではなく、これからどのような世が始まるのかという不安も浮かんでいた。隠岐から脱出した後醍醐天皇は、伯耆の船上山を経て京へ戻り、再び自ら政治を行おうとしていた。長年、幕府に奪われてきた朝廷の権威を取り戻し、天皇を中心とした新しい政治を築く。その強い決意のもと、都には各地から多くの武将が集まり始めていたのである。楠木正成もまた、千早城での戦いを終え、京へ向かう準備を進めていた。
美月は、旅立ちを前に城内を歩いていた。負傷兵たちの多くは少しずつ回復し、道玄のもとで手当てを受けていた。現代から持ち込んだ包帯や医療用品も残り少なくなっていたが、彼らの命を救うために使えたことを、美月は心からよかったと思っていた。
「娘御、京へ行かれるそうじゃな」
背後から声をかけられ、振り返ると道玄が立っていた。
「はい。正成様と一緒に行くことになりました」
「そうか。そなたが来てから、ここでは不思議なことがいくつも起こった。じゃが、わしが一番驚いたのは、そなたが誰の命も粗末にせなんだことじゃ」
美月は少し照れくさそうに笑った。
「私は、道玄様に教えていただいたことも多いです。ありがとうございました」
道玄は穏やかにうなずいた。
「これから先、どのような世になろうとも、人を助けたいという心だけは忘れるでないぞ」
その言葉を胸に、美月は深く頭を下げた。
京へ向かう道中、正成は美月を自分の近くに置き、家臣たちには楠木一族の姫として紹介した。
「この娘は楠木美月と申す。縁あって、わしが預かることとなった一族の姫じゃ。これよりは、わしとともに行動する」
家臣たちは驚きながらも、正成の言葉に従い、丁重に頭を下げた。美月は慣れない扱いに戸惑いながら、正成の隣で静かに礼をした。
「楠木美月と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
その姿を見た正成は、わずかに微笑んだ。
「そう堅くなることはない。そなたは、そなたのままでよい」
美月は小さくうなずいた。道中、正成は各地から集まる武士たちと会い、これからの政治について意見を交わしていた。幕府が滅びたことで、武士たちの間には新しい世への期待が広がっていたが、一方では、自分たちがどのような恩賞を受けられるのかという関心も強まっていた。美月は、そうした話を聞くたびに、大学で学んだ建武の新政のことを思い出していた。後醍醐天皇は天皇親政を理想として政治を進めるが、武士たちの期待と朝廷の考えには次第に隔たりが生まれていく。戦いで功績を挙げた者たちが十分な恩賞を得られず、不満を募らせていくことになるのである。そして、その不満の中心に、やがて足利高氏が立つことになる。
美月は、正成の横顔を見つめながら、胸の奥に小さな不安を感じていた。
京へ到着した正成たちは、朝廷からの呼び出しを受けた。都の通りには、戦いの傷跡がまだ残っていた。焼けた建物や壊れた塀も見られたが、人々は新しい世への期待を胸に、少しずつ日常を取り戻そうとしていた。正成は朝廷へ参内するため、装束を整えた。美月もまた、楠木一族の姫としてふさわしい衣を用意され、初めて見る華やかな装束に戸惑っていた。
「こんな立派なものを、私が着てもいいのでしょうか」
「そなたは楠木の姫じゃ。堂々としておればよい」
正成はそう言って笑った。美月は衣の袖を見つめながら、現代の大学生だった自分が、まさか十四世紀の朝廷へ足を踏み入れることになるとは思いもしなかった。やがて正成に伴われ、美月は御所へ向かった。宮中には公家や武将たちが集まり、後醍醐天皇の帰京を祝うとともに、新しい政治の始まりを迎えようとしていた。正成が案内された先には、後醍醐天皇が座していた。
美月は、目の前にいる人物が歴史の教科書で何度も目にした後醍醐天皇なのだと思うと、緊張で胸がいっぱいになった。しかも、隣にいるのは自分の遠い祖先である正成だった。幾世代も隔てた血のつながりが、今は同じ御所の床に並ぶ二人を結んでいる。その不思議さを思うと、胸の鼓動がいっそう速くなった。正成は深く頭を下げた。
「楠木正成、ただいま参上いたしました」
後醍醐天皇は正成を見つめ、静かに口を開いた。
「正成、よくぞ千早城を守り抜いた。そなたの働き、朕は忘れぬ」
「ありがたきお言葉にございます」
「そなたが幕府の大軍を引きつけておったからこそ、各地の武士たちが立ち上がる時を得た。まことに見事であった」
正成は再び深く頭を下げた。そのとき、後醍醐天皇の視線が美月へ向けられた。
「正成、その娘は何者じゃ」
正成は落ち着いた声で答えた。
「楠木一族の娘、美月にございます。訳あって、私が預かっております。千早城では負傷した者たちの手当てにも尽くしてくれました」
後醍醐天皇は興味深そうに美月を見つめた。
「ほう。若い身でありながら、戦場でけが人を助けたと申すか」
美月は緊張しながら頭を下げた。
「はい。私にできることは、ほんのわずかでしたが……」
「その心が大切なのじゃ。戦で功を立てる者は多くとも、傷ついた者を救おうとする心もまた、尊い」
美月は、後醍醐天皇の言葉を聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ありがたきお言葉にございます」
後醍醐天皇はうなずき、再び正成へ目を向けた。
「正成、これより新しき世を築く。そなたの力を、朕に貸してほしい」
正成は迷うことなく答えた。
「この命、帝のために尽くす所存にございます」
その言葉を聞いた瞬間、美月の胸に、冷たいものが走った。正成は今、心から後醍醐天皇に忠誠を誓っている。しかし、この忠義がやがて彼を湊川の戦いへと導くことを、美月は知っていたのである。
宮中を退出した後、正成と美月は都の通りを歩いていた。
「緊張したか」
正成が尋ねると、美月は大きく息をついた。
「はい。まさか本当に後醍醐天皇にお会いすることになるなんて、夢のようです」
正成は穏やかに笑った。
「帝も、そなたの心を認めてくださった。胸を張るがよい」
美月はうなずいたが、その表情にはどこか陰りがあった。
「正成様……これから、本当に平和な世になるのでしょうか」
正成は歩みを緩め、しばらく考えてから答えた。
「平和な世を築くことは、戦に勝つことよりも難しいのかもしれぬ。じゃが、帝は新しい世を望んでおられる。わしは、その願いを支えたい」
美月は正成の言葉を聞きながら、胸の奥に複雑な思いを抱いていた。彼の忠義は本物だった。だからこそ、その未来を知っている自分には、何かできることがあるのではないかと思わずにはいられなかった。
その頃、京では足利高氏もまた、新しい時代の中で大きな存在となり始めていた。六波羅探題を落とした功績は大きく、多くの武士たちが高氏のもとへ集まっていた。幕府を倒すためにともに戦った者たちの間にも、朝廷の新しい政治に対する期待と不安が入り混じっていた。高氏は、集まった武士たちの声に耳を傾けていた。
「我らは命を懸けて戦いました。これから、その働きはどのように報われるのでしょうか」
一人の武士がそう尋ねると、高氏は静かに答えた。
「新しい世が始まったばかりじゃ。急いで結論を求めるものではない」
しかし、その言葉とは裏腹に、高氏自身もまた、朝廷が武士たちをどのように扱うのかを注意深く見つめていた。そこへ佐々木道誉が姿を現した。
「高氏殿。天下は変わりましたな」
「道誉殿か」
道誉は周囲を見渡し、わずかに笑った。
「幕府が滅びたからといって、武士たちの心まで一つになったわけではありませぬ。これからが、難しいところでしょう」
高氏はその言葉に、すぐには答えなかった。道誉は続けた。
「新しい世を築くには、朝廷の理想だけでなく、武士たちの望みにも応えねばなりますまい」
高氏は静かにうなずいた。
「そのとおりじゃ」
二人の会話は短いものだったが、そこには、後に大きな争いへとつながっていく時代の不安が、すでに芽生えていたのである。
その夜、美月は正成から与えられた部屋で、一人静かに月を見上げていた。千早城で見た月と、京の都で見る月は、何も変わらないように思えた。しかし、彼女の周囲では、わずか数か月の間に、信じられないほど多くのことが変わっていた。鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇が京へ戻り、新しい政治が始まろうとしている。そして、自分は楠木正成の一族の姫として、この時代を生きることになった。美月は、袖の中でそっと手を握りしめた。現代へ帰る方法は、まだ失われていない。満月の夜、水面に映る月へ強く願えば、再び時を越えられるかもしれない。
けれども、今の美月には、すぐに帰ろうという気持ちはなかった。正成のそばにいたい。そして、できることなら、歴史に記された悲しい結末を変えたい。その思いは、日に日に強くなっていた。
「正成様……私は、あなたを死なせたくありません」
誰にも聞こえないほど小さな声で、美月はつぶやいた。月の光は、静かに部屋へ差し込んでいた。歴史は、すでに新しい時代へと歩み始めている。しかし、その先に待ち受ける争いを知る美月にとって、今夜の月は、希望と不安の両方を映し出しているように見えた。




