第九章 鎌倉幕府の終焉
元弘三年五月、六波羅探題陥落の報せが届いてから、千早城を囲む幕府軍の動きは目に見えて変わった。夜明け前には山麓の篝火が一つ、また一つと消え、昨日まで兵が詰めていた陣所からも人影が減っていった。城兵たちは容易に喜ぼうとしなかった。長く苦しめられた相手が退くと見せかけ、再び攻め寄せることも考えられたからである。しかし、引き揚げる軍勢の列が山道に続くにつれ、戦の終わりが近づいていることを誰もが感じ始めていた。千早城の見張り台では、正成が山麓に広がる敵陣を見つめていた。隣には美月が立っていたが、彼女の目にも、敵の動きが以前とは違って見えた。
「正成様、あの兵たちは引き揚げるのでしょうか」
「まだ分からぬ。じゃが、京が落ちたとなれば、幕府の兵も己の行く末を考えねばならぬ。これまでのように、ただ命令に従っておればよいというわけにはいくまい」
正成は見張りを解かず、退いていく軍勢の行き先まで確かめるよう命じた。美月はその光景を見つめながら、歴史の教科書に記された一つの出来事が、今まさに目の前で現実になろうとしていることを感じていた。千早城の戦いが終わろうとしている。だが、それは決して、すべての戦いが終わることを意味してはいなかった。
数日後、正成のもとへ、京都から新たな知らせが届けられた。
「殿、六波羅を落とした足利高氏の軍勢は、京の支配を固めつつあるとのこと。また、伯耆の後醍醐天皇のもとにも、各地の武士が集まり続けております」
報告を聞いた正成は、静かにうなずいた。
「帝が再び天下を治められる日も、遠くはあるまい」
その場にいた家臣たちの表情には、長い戦いを耐え抜いた者だけが知る安堵が浮かんでいた。しかし、美月は素直に喜ぶことができなかった。後醍醐天皇が京都へ戻り、建武の新政が始まることを彼女は知っていた。そして、その新しい政治が長く続かず、足利高氏と後醍醐天皇の対立へとつながっていくことも。正成は美月の沈んだ表情に気づいた。
「美月、何を案じておる」
「いえ……戦いが終わっても、また別の戦いが始まるのではないかと思って」
正成はしばらく美月を見つめていたが、やがて穏やかに答えた。
「人の世から争いがなくなることは、容易ではあるまい。じゃが、だからこそ、わしらは今できることをせねばならぬ」
その言葉を聞いた美月は、正成がただ勇敢な武将なのではなく、戦の先にある人々の暮らしを見つめている人物なのだと改めて感じていた。
その頃、上野国では新田義貞が挙兵していた。新田氏は源氏の流れをくむ武家であり、義貞もまた、幕府の支配のもとで長く生きてきた武将だった。しかし、各地で反幕府の勢力が立ち上がり、京都の六波羅探題が陥落したことで、天下の情勢は一変していた。義貞は、集まった武士たちを前にして告げた。
「我らはこれより鎌倉へ向かう」
その声には、迷いがなかった。
「北条の世を終わらせる。今こそ、我らが立つときじゃ」
武士たちは一斉に声を上げた。義貞の軍勢は鎌倉を目指して進み始めた。道中では幕府に不満を抱いていた武士たちが次々と加わり、その勢いは急速に増していった。小手指原、久米川、分倍河原と、幕府軍との激しい戦いが続き、義貞はついに鎌倉へ迫った。鎌倉は三方を山に囲まれ、南には海が広がる天然の要害だった。幕府はその地形を利用して守りを固めていたが、義貞の軍勢は各方面から攻撃を仕掛け、ついに防衛線を突破した。鎌倉の町では激しい戦いが繰り広げられた。
北条氏の一族や家臣たちは必死に抵抗したものの、もはや戦況を覆すことはできなかった。追い詰められた北条高時らは東勝寺に集まり、最後を迎えることになる。元弘三年五月二十二日。長く続いた鎌倉幕府は、ついに滅亡したのである。
一方、近江国では佐々木道誉が、幕府の崩壊によって変わりゆく情勢を見つめていた。道誉は佐々木氏の一族に生まれ、幕府の有力な御家人として活動してきた人物だった。後醍醐天皇が隠岐へ流された際には、その護送にも関わっていた。しかし、時代の流れが変わる中で幕府から離れ、足利高氏と歩調を合わせる道を選んだのである。道誉は、京都から届けられた知らせを聞きながら、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「北条の世も、終わりが見えたか」
そばに控えていた武士が尋ねた。
「これより、いかがなさいますか」
「世が変われば、人の立つ場所も変わる。じゃが、ただ流れに身を任せておるだけでは、己の道は開けぬ」
道誉はそう答えると、遠く京都の方角へ目を向けた。その目には、これから始まる新しい時代を見据えるような鋭い光が宿っていた。
播磨国では、赤松円心が反幕府の兵を率い、長く戦い続けていた。円心は、後醍醐天皇の倒幕の呼びかけに応じて挙兵し、播磨から摂津へと軍を進め、京都の幕府勢力を脅かしていた。六波羅探題が陥落するまでの戦いにおいても、その働きは大きな意味を持っていたのである。円心のもとへ、鎌倉で北条氏が滅びたという知らせが届いた。
「ついに鎌倉が落ちたか」
円心は静かに言った。
「長い戦いであったな」
家臣の一人が頭を下げた。
「これで天下は、帝のもとへ戻るのでございましょうか」
円心はすぐには答えなかった。
「そう願いたいものじゃ。じゃが、武士たちが何を望み、朝廷がそれにどう応えるかによって、世の行方は変わる」
その言葉には、戦いを重ねてきた武将の現実を見つめる目と、切実な思いがあった。
千早城にも、鎌倉幕府滅亡の知らせが届いた。
「殿!鎌倉が落ちました!」
武士の声が城内に響いた。
「新田義貞の軍勢が鎌倉へ攻め入り、北条高時をはじめ、一族は滅びたとのことにございます!」
その瞬間、城内にいた武士たちから歓声が上がった。長く続いた戦いが、ついに大きな結末を迎えたのである。正成は報告を聞き、しばらく目を閉じていた。
「そうか……ついに幕府が滅びたか」
その声には、勝利の喜びだけではない、深い感慨が込められていた。美月も、胸がいっぱいになっていた。歴史の授業で何度も耳にした鎌倉幕府の滅亡。しかし、その出来事の裏には、千早城で命を落とした兵たちがいて、遠く鎌倉で戦った武士たちがいて、時代の変化を待ち続けた人々がいたのだ。正成は周囲の武士たちを見渡した。
「皆、よく耐えてくれた。そなたたちがこの城を守り抜いたことは、決して無駄ではなかった」
家臣たちは深く頭を下げた。正成は続けた。
「じゃが、これからが肝心じゃ。帝のもとで新しい世が始まる。その世を支えるためにも、わしらにはまだ果たすべき務めがある」
美月は、その言葉を聞きながら、正成の未来を思い浮かべていた。建武の新政。足利高氏との対立。そして、湊川の戦い。正成は、まだその運命を知らない。
数日後、正成は美月を呼び寄せた。
「美月、そなたに話しておきたいことがある」
「何でしょうか、正成様」
「これより、わしは帝のもとへ参ることになろう。そなたも、できることなら連れてゆきたい」
美月は驚いて正成を見つめた。
「私も、ですか」
「うむ。そなたはこの城で多くの者を助けてくれた。わしにとっても、もはや他人とは思えぬ」
正成は穏やかに微笑んだ。
「じゃが、京へ出れば、そなたの素性を尋ねる者もおろう。未来から来たなどと申しても、誰も信じまい」
美月は小さくうなずいた。
「そうですね……」
正成は少し考えてから言った。
「そなたは楠木の血を引く者じゃ。それならば、わしの一族の娘として扱うことにしよう」
「一族の娘……」
「訳あって、わしが預かっている姫ということにすればよい。これからは、人前では楠木家の姫として振る舞うがよい」
美月は目を見開いた。
「私が……姫ですか」
「そうじゃ。楠木美月という名も、そのままでよい。そなたは、まぎれもなく楠木の血を引いておるのだからな」
正成の言葉を聞いた瞬間、美月の胸に熱いものが込み上げて来た。自分がこの時代に存在するはずのない人間であることは、誰よりもよく分かっている。それでも、遠い祖先である正成が、自分を一族の者として受け入れてくれた。そのことが、美月には何より嬉しかった。
「ありがとうございます、正成様」
美月が深く頭を下げると、正成は優しく言った。
「礼などいらぬ。これからは、わしのそばで天下の行く末を見届けるがよい」
その言葉に、美月は静かにうなずいた。正成のそばにいれば、歴史が動く瞬間を間近で見ることができるだろう。しかし同時に、それは正成が命を落とす未来へ、少しずつ近づいていくことでもあった。美月は胸の奥に生まれた不安を押し隠し、正成の顔を見つめた。この人を、死なせたくない。その思いは、千早城へ来たときよりも、はるかに強くなっていた。やがて、後醍醐天皇のもとへ向かう日が訪れる。楠木正成と、その一族の姫として迎えられた楠木美月。二人は、鎌倉幕府が滅びた後の新しい時代へと、歩みを進めようとしていた。
だが、その先に待ち受けるものが、希望だけではないことを、美月だけは知っていたのである。




