第四章 二十四時間の永遠
約束の日の朝、由美は四時に目を覚ました。目覚ましが鳴る前だった。天井を見つめたまま、行かない理由を数えた。拓也の受験が終わったばかりで、家族で過ごすべきだ。健司に隠し事をしたくない。会えば後悔する。会わなくても後悔する。そのどれも正しく、どれも決定にはならなかった。
隣で眠る健司の顔を見た。二十年前より頬が落ち、眉間の線が深くなっている。家族のために働き、弱音を言わず、感情をうまく言葉にできない人。由美は健司を憎んでいなかった。愛していないと言い切ることもできなかった。だからこそ、今日の選択は単純な恋愛ではなく、自分の中の一部を裏切る行為にも思えた。
五時前にキッチンへ立ち、いつもと同じように朝食を作った。卵を焼き、味噌汁を温め、炊飯器を開ける。今日は弁当はいらない。手が空くと、時間が重くなった。
健司には、同窓会で再会した友人と海を見に行くと伝えていた。複数人だとは言わなかったが、相手が男性だとも言わなかった。嘘を避けるために削った言葉が、結局は大きな嘘の形を作った。
「今日は何時に帰る?」
朝食の席で健司が訊いた。
「九時くらいまでには」
「天気、午後から晴れるらしいぞ。海ならちょうどいいな」
「うん」
由美は味噌汁を飲み込んだ。健司の何気ない親切が喉につかえた。
拓也はまだ寝ていた。部屋の前で声をかけようとして、やめた。扉の向こうから寝返りの音がした。由美は小さく「行ってきます」と言った。返事はなかった。
服は同窓会で着た青いワンピースではなく、白いブラウスと紺色のパンツを選んだ。特別な装いにしたくなかった。それでも鏡の前で髪を整え、銀色のイヤリングをつけた。鞄にはスケッチブックと色鉛筆を入れた。
八時五十分、由美は「ソラノシズク」の前に立っていた。古いビルの一階にある小さなカフェで、木の扉の上に雨粒の形をした青い看板が掛かっている。悠真の姿はまだなかった。
来なければいい、と一瞬思った。そうすれば自分の決断ではなく、運命のせいにできる。だが九時の少し前、角を曲がって悠真が現れた。濃い灰色のコートを着て、由美を見つけると立ち止まった。安堵と痛みが同時に浮かぶ顔だった。
「来たんだな」
「当日の朝までわからないって言ったでしょう」
「今も、帰っていい」
「悠真君も」
二人はしばらく見つめ合い、どちらも帰らなかった。
店内には古いジャズが流れ、焙煎した豆の香りが満ちていた。窓際の二人席へ座る。テーブルを挟むと、ようやく普通の友人の距離になった。
「何飲む?」
「ブレンド」
「高校の時、コーヒー苦手だったよな」
「二十五年あれば、飲めるものも増えるの」
「減ったものも多いけどな」
悠真が腹のあたりを押さえ、由美は笑った。二人とも緊張していた。今日が最後だと意識するほど、何を話せばよいかわからなかった。
コーヒーが運ばれると、悠真はカップを両手で包んだ。
「一つだけ決めたい。今日は、家族の悪口を言わない」
「悪口を言って近づいたわけじゃないよ」
「わかってる。でも、自分たちの寂しさを誰かのせいにしたくない」
由美は頷いた。健司が冷たいから、理沙が自分を見ないから、だから仕方なかった。そんな説明を使えば、今日を正当化できるかもしれない。だが、二人はそれぞれ自分でここへ来た。
「もう一つ」
由美が言った。
「触れない。手も」
「わかった」
「未来の話もしない」
「うん」
「今日が終わったら、連絡先を消す」
悠真は目を伏せた後、「約束する」と答えた。
店員が二杯目の水を置き、空になったカップを下げた。二人は出るきっかけを失ったように座っていた。店内の時計は九時四十分を指している。残された時間を意識すると、一分ごとに値段がついているようだった。
「今日、何を話したい?」
由美が訊いた。
「言えなかったこと全部、と思ってた。でも全部話したら、一日じゃ足りない」
「全部話す必要はないよ。言葉にしたら形が決まりすぎることもある」
「由美は何を話したい?」
由美は窓の外を見た。傘を差した人々が、行き先を持って通り過ぎる。
「悠真君に会ってから変わったこと。絵を描いたこと。仕事で断れたこと。母に言いたいことを言えたこと。でも、それを悠真君のおかげだけにしたくない」
「どうして?」
「今日で会わなくなったら、またできなくなる気がするから。悠真君が私を変えたんじゃなくて、私が変わるきっかけにしたって思いたい」
悠真はゆっくり頷いた。
「それがいい。俺も由美を、自分を救ってくれる人にしたくない」
「もう少し早く気づけばよかったね」
「気づいても、会いたかったと思う」
「私も」
由美は鞄からスケッチブックを取り出した。最後のページを開き、中央に縦線を一本引いた。
「何してる?」
「今日が終わった後、自分ですることを一つずつ書こう」
「宿題みたいだな」
「そう。相手に求める約束じゃなくて、自分との約束」
由美は左側に「週に一枚、何かを描く」と書いた。少し考え、「嫌なことを嫌だと言う」「家族に察してもらうのを待たない」と加えた。
悠真は右側に「小さな家の図面を完成させる」と書いた。「若い社員を定時に帰す」「理沙の話を、結論がなくても聞く」と続けた。
「最後のは、私に見せるものじゃないね」
「由美に見せるから書ける」
「でも守るのは、奥さんのためでしょう」
「自分のためでもある」
二人は互いの文字を見た。未来の約束はしないと言いながら、別々の未来へ向けた言葉を一枚の紙に並べている。由美はページを中央で切り離そうとした。
「半分ずつ持つ?」
悠真が訊いた。
「だめ。相手の約束を持ったら、守ったか確かめたくなる」
由美はページを破らず、そのまま閉じた。
「これは私が持つ。でも悠真君の分は、帰る前に消す。自分でまた書いて」
「厳しいな」
「終わるために来たんでしょう」
悠真は寂しそうに笑った。
会計を済ませる時、悠真が二人分を払おうとした。由美は自分の代金をテーブルへ置いた。
「今日、全部割り勘にしよう」
「最後くらい出させて」
「最後だから。借りを作りたくない」
「コーヒー一杯を借りだと思う?」
「思わない。でも、今日のことをどちらかが与えた一日にしたくない。二人で選んだんだから」
悠真は反論せず、小銭を受け取った。そのやり取りで、由美は少しだけ自分の足で立てた気がした。
店を出る頃、細かな雨が降り始めていた。悠真が折り畳み傘を開き、由美も自分の傘を出した。二本の傘を並べて歩く。肩が触れない距離を保つと、歩道の端へ追いやられ、互いに譲って笑った。
大濠公園まで地下鉄で移動した。土曜の車内には家族連れや部活へ向かう学生がいた。二人は一人分の隙間を空けて座った。窓に映る姿は、どこにでもいる同年代の男女に見えた。
公園の池は雨に細かく波立っていた。ランニングをする人、犬を連れた人、傘の下で写真を撮る恋人たち。二人は水辺の遊歩道をゆっくり歩いた。
「あの頃、何になりたかった?」
悠真が訊いた。
「本の表紙を描く人。名前は知らなかったけど、装丁とか、そういう仕事」
「初めて聞いた」
「誰にも言ってなかった。言ったら、本気で目指さなきゃいけない気がして」
「今から描いたっていいだろ」
「仕事にするってことじゃなく?」
「仕事にしなくても、夢だったものに触れていい。夢は生活費を稼がなきゃ価値がないわけじゃない」
由美は池の水面を見た。自分はいつも、役に立つかどうかで時間を測ってきた。家族の役に立つ、家計の役に立つ、職場の役に立つ。何の役にも立たず、ただ好きだから描くことを、自分へ許していなかった。
「悠真君は?」
「家を設計したかった。住む人が帰りたくなる家」
「今も設計してるじゃない」
「大きい建物ばかりで、住む人の顔は見えない。若い頃は、それでも格好いいと思ってた」
「今から小さな家を作ったっていいでしょう」
「それ、さっき俺が言ったことの仕返し?」
「同じこと」
二人は笑った。選ばなかった人生を嘆くのではなく、まだ残っている可能性として眺めることができた。
雨が強くなり、池のそばの東屋へ入った。屋根を叩く雨音が、周囲の会話を遠ざけた。悠真は濡れたコートの肩を払った。由美の前髪にも水滴がついていたが、互いに手を伸ばさなかった。
「由美に会ってから、家で理沙と話すようになった」
突然、悠真が言った。
「私と比べた?」
「違う。由美に話を聞いてもらって、自分が聞いてほしかったんだって気づいた。それで、理沙にも聞いてみた。最近どうしてるって」
「奥さん、何て?」
「今さらって笑った。それから二時間くらい話した。図書館でやりたい企画があることも、娘が家を出て寂しいのを俺に言えなかったことも、初めて聞いた」
由美の胸に、安堵と嫉妬が同時に湧いた。悠真が家庭へ戻っていくことを望んでいたはずなのに、自分が彼を妻へ返すための通過点になったようで寂しかった。
「よかったね」
「うん。だから今日で終わらせなきゃいけない」
由美は頷いた。雨の向こうで、水鳥が羽を広げた。
「私も、健司に少し言えるようになった。仕事を休みたいとか、夕飯を作れないとか。言ったら全部壊れると思ってたけど、意外と壊れなかった」
「俺たち、互いの家庭から逃げるために会ったのに、戻り方を教え合ったのかもな」
「きれいに言いすぎ」
「そうだな」
雨が弱まると、二人は地下鉄でカフェ近くへ戻り、悠真が車を置いていた駐車場へ向かった。由美はその途中、何度も帰る選択を考えた。ここまででも十分だった。だが、足は悠真の隣を離れなかった。
悠真の車は、古い紺色のワゴンだった。助手席へ乗ると、柑橘系の芳香剤と紙の匂いがした。ダッシュボードには建築資料が積まれ、後部座席に黄色いヘルメットが置いてある。恋人の車ではなく、四十三歳の男が仕事と生活に使う現実的な空間だった。
「音楽、何がいい?」
「何でも」
「一番困る答えだ」
悠真は高校時代に流行った曲をかけた。イントロが始まると、二人同時に曲名を言い、笑った。歌詞を完全には覚えていないのに、サビだけは自然に口から出た。
都市高速を抜けると、景色は次第に低くなった。住宅地の向こうに畑が広がり、雲の切れ間から光が落ちている。悠真は両手でハンドルを握り、由美は流れる景色を見た。狭い車内に二人きりでいることを強く意識しながら、沈黙を守った。
「怖い?」
「少し」
「俺も」
「運転が?」
「今日が終わるのが」
由美は答えなかった。未来の話はしないと決めた。終わりを恐れる言葉も、未来に属している気がした。
糸島へ入る前、悠真は仕事で確認するという小さな現場へ寄った。海沿いに建つ二階建ての店舗で、工事はまだ基礎の段階だった。悠真は車を降り、図面と現場を見比べ、何枚か写真を撮った。由美は助手席からその姿を見た。
仕事をする悠真を見るのは初めてだった。彼は作業員へ丁寧に声をかけ、しゃがんで寸法を確かめた。自分の仕事を空虚だと言いながら、目の前のものには誠実だった。その矛盾も含めて、由美は彼を好きなのだと思った。
戻ってきた悠真が「待たせた」と言った。
「仕事してる顔、初めて見た」
「幻滅した?」
「ちゃんと設計士だった」
「普段はもっと格好いいぞ」
「はいはい」
糸島の海岸線へ出る頃、雨は止んでいた。雲の下から青い帯が広がり、海面が銀色に光った。由美は窓を少し開けた。冷たい潮風が車内へ入り、髪を揺らした。
二人は海沿いの小さな食堂で昼食を取った。由美は鯛茶漬け、悠真は魚の煮付け定食を頼んだ。観光客の笑い声と食器の触れ合う音の中で、二人は高校時代の昼休みのように他愛のない話をした。
「由美、椎茸まだ嫌い?」
「今は食べられる。悠真君こそ、トマト」
「娘に鍛えられた」
「人って変わるね」
「変わらないところもある」
悠真の視線を受け、由美は茶漬けの湯気へ目を落とした。
食堂を出ると、隣に小さな陶器店があった。軒先に白や青の器が並び、雨上がりの光を反射している。由美が足を止めると、悠真も店へ入った。
店内には湯呑み、皿、花器が所狭しと置かれていた。どれも少しずつ形が歪み、釉薬の流れ方が違う。由美は深い青色の小鉢を手に取った。海の底のような色だった。
「似合うな」
「器に似合うってある?」
「由美の家にありそう」
「うちの食器、白か茶色ばっかり」
「じゃあ買えばいい」
悠真が棚から同じ形の小鉢をもう一つ取った。青の濃さがわずかに違う。
「一つずつ持つ?」
その提案は、恋人たちの記念品のように聞こえた。由美は手にした小鉢を棚へ戻した。
「買わない」
「そうだな。ごめん」
悠真も戻した。二人は店内をもう少し見て回ったが、何も買わなかった。記念を物にすれば、食卓で使うたび家族に隠すことになる。今日を美しいものとして残すために、嘘の形を増やしたくなかった。
店の奥では、年配の夫婦が客の包みを作っていた。夫が紙を折り、妻が紐を結ぶ。手順を確かめる言葉はなく、互いの動きに合わせて手が進む。由美は自分と健司の台所を思い出した。二人にも、言葉なしにできることは多い。だが沈黙が通じ合いなのか、諦めなのかを考えずにいた。
「ああいう夫婦になりたかった?」
店を出てから悠真が訊いた。
「見ただけじゃわからないよ。店を閉めたら口もきかないかもしれない」
「夢がないな」
「見えるものだけできれいに決めるの、やめたの」
「俺たちのことも?」
「うん。今日をきれいな一日にしようとしすぎたら、本当の気持ちを見失う」
悠真は立ち止まり、由美を見た。
「本当は、手をつなぎたい」
「私も」
「抱きしめたい」
「私も」
「でも、しない」
「うん」
言葉にしたことで、欲望は消えなかった。むしろ輪郭がはっきりした。それでも二人は歩き出した。正しさとは、望まないことではなく、望みながら選ばないことなのかもしれなかった。
海岸へ続く道の途中、古い郵便ポストがあった。由美は高校時代、悠真からの手紙を待った日々を思い出した。
「最後の手紙、何を書こうとしてた?」
「覚えてない。でもたぶん、夏に帰るって」
「帰ってきた?」
「帰った。由美の家の近くまで行った」
由美は足を止めた。
「来たの?」
「玄関の前までは行ってない。商店街で由美と健司さんを見た。二人で自転車を押してた」
それは健司と付き合い始めた夏だった。二人で祭りへ行き、由美の自転車がパンクした。健司は自分の自転車も降り、家まで一緒に歩いてくれた。
「それで、帰った?」
「うん。返事をしなかった俺に、声をかける資格ないと思った」
「声をかけてたら、何か変わったかな」
「わからない。今となっては、変わらなくてよかったこともある」
拓也と七海の顔が、言葉にしなくても二人の間に浮かんだ。
「知らなかった方がよかった」
由美は言った。
「ごめん」
「違う。嬉しいから困るの。あの頃も私を見つけてくれたって」
悠真は何も言わなかった。触れられない距離で、二人は古いポストの前に立っていた。届かなかった手紙と、声をかけなかった夏。その積み重ねが今日へ続いている。しかし今日の終わりは、偶然や遠慮ではなく、自分たちで選ばなければならなかった。
食後、砂浜を歩いた。雨で湿った砂は足跡をはっきり残した。波が寄せては、二人の足跡の端を崩していく。遠くで子どもが貝殻を拾い、父親が写真を撮っていた。
「拓也が小さい頃、海で迷子になったことがあるの」
由美は話した。ほんの五分見失っただけだったが、世界が終わると思った。見つけた時、拓也は泣かずに砂の山を作っていた。由美の方が泣き、強く抱きしめすぎて嫌がられた。
「その子に嘘をついて、今日ここにいる」
「後悔してる?」
「してる。来たことは、まだわからない」
「俺も同じだ」
二人は正しさを分け合えなかった。片方が赦せば赦される関係ではない。それぞれが自分の罪悪感を持ち帰るしかなかった。
砂浜の端に流木があり、由美は腰を下ろした。悠真は少し離れて立ったまま海を見た。
「スケッチブック、持ってきた?」
「どうしてわかったの」
「鞄がいつもより重そうだった」
由美はスケッチブックを出し、海を描き始めた。水平線、雲の切れ間、波打ち際に立つ悠真の背中。彼を描くつもりはなかったが、気づけば紙の中央にいた。
「動かないで」
「俺を描いてる?」
「景色の一部」
「それでいい」
鉛筆を走らせる時間だけ、今日の意味を考えずに済んだ。風がページをめくろうとし、由美は片手で押さえた。悠真の背中は思ったより少し丸く、海を前にしても格好よく立とうとはしていなかった。その現実らしさを描きたかった。
完成とは言えないところで、由美は鉛筆を置いた。悠真が隣から覗いた。
「線が増えたな」
「何と比べてるの」
「高校の頃。あの時は、迷わず一本で描いてた」
「今は間違えた線を消す時間がもったいないの」
「それも由美の線だ」
悠真の指が紙の端へ伸び、由美の手のすぐそばで止まった。触れないという約束が、数センチの距離を強く意識させた。
午後、桜井二見ヶ浦へ向かった。白い鳥居の向こうに、しめ縄で結ばれた夫婦岩が見える。空はすっかり晴れ、濡れた砂と岩が光っていた。観光客が並び、若い恋人たちが互いの写真を撮っている。
「夫婦岩、か」
悠真が呟いた。
「皮肉だね」
「俺たちは、あれじゃない」
「わかってる」
二つの岩は寄り添って見えるのに、波打ち際からではその隔たりの深さまでは測れない。しめ縄だけが、律儀にその距離を結び続けていた。
悠真が近くの客に頼み、二人の写真を撮ってもらおうとした。由美は首を振った。
「写真は残さない」
「そうだったな」
「今日を証拠にしたくない」
「忘れないためにも?」
「忘れない。写真がなくても」
悠真はスマートフォンをしまった。代わりに由美は、夫婦岩をスケッチした。形を正確に写すのではなく、二つの岩の間にある海を濃く塗った。
近くの店でジェラートを買った。由美は塩ミルク、悠真は甘夏を選んだ。互いの味を一口試すことはしなかった。そんな些細なことにまで境界があるのが可笑しく、切なかった。
「もし高校の時、好きだって言ってたら、どうなってたと思う?」
由美が訊いた。未来の話はしない約束だったが、選ばなかった過去の話なら許される気がした。
「たぶん、半年くらい付き合って、進学で離れて、喧嘩して別れた」
「現実的」
「その方がよかったかもしれない。二十五年もきれいなまま残らずに済んだ」
「私たち、きれいなまま?」
「今日で、そうじゃなくなる」
悠真は笑った。由美も笑った。実際に過ごす一日は、想像の中の完璧な恋より不格好だった。雨に濡れ、食堂で魚の骨を取り、言ってはいけないことを言いかけ、何度も黙った。その不完全さが愛おしかった。
夕方、福岡市内へ戻る車の中で、二人はほとんど話さなかった。西日がフロントガラスから差し、悠真の横顔を照らした。由美は眠らないように窓の外を見続けた。眠れば時間を失う気がした。
信号待ちで、悠真が言った。
「一つだけ、約束を破っていい?」
「何」
「言わないまま別れるのは、嘘になる」
由美は何を言おうとしているかわかった。
「聞いたら、私も言わなきゃいけなくなる」
「言わなくていい」
「ずるいよ」
信号が青に変わり、車が動いた。悠真は前を見たまま言った。
「由美が好きだ。高校の時に好きだったのか、今の由美を好きなのか、もう分けられない。だから今日で終わりにする」
由美は膝の上で手を握った。涙が滲んだが、窓の外を見た。
「私も」
それ以上は言えなかった。悠真は頷いた。二人の間に置かれた短い言葉は、未来を求めるためではなく、未来を閉じるための鍵だった。
最後に向かったのは、シーサイドももちに立つ福岡タワーだった。日が沈みかけ、ガラス張りの外壁が夕焼けを映している。エレベーターへ乗ると、若いカップルと家族連れに挟まれた。
数字が上がり、耳が少し詰まった。悠真は由美のすぐ隣にいたが、互いの腕が触れないようわずかに体を引いた。地上から離れるほど、今日一日の景色が小さくなる。
展望室から、街がオレンジ色に染まって見えた。海、川、道路、無数の建物。やがて車のライトが点き、一つ一つが光の流れになった。あの光の中に、自分たちの家がある。健司がいて、拓也がいる。悠真の家には理沙がいる。
「きれいだね」
「うん」
二人は窓際に並んだ。ガラスには、景色と自分たちの顔が重なって映った。恋人のように肩を寄せることはしなかった。それでも、同じ景色を見るというだけで十分だった。
「今日、一番よかった場所は?」
悠真が訊いた。
「砂浜。絵を描いたところ」
「俺も」
「自分が描かれたから?」
「由美が、自分の顔に戻ってたから」
由美は悠真を見た。
「私の顔って、どんな顔?」
「何かを見つけようとしてる顔。高校の美術室でしてた」
家族は由美の寝顔も、怒った顔も、疲れた顔も知っている。悠真だけが知る顔もある。そのことを、誰かへの裏切りではなく、自分の一部として持ち帰りたいと思った。
空が群青色へ変わるまで、二人は展望室にいた。時間を延ばしても終わりは来る。エレベーターで下降すると、身体がわずかに浮く感覚がした。上昇が夢なら、下降は現実への帰還だった。
タワーを出ると、夜の風が冷たかった。地下鉄の駅まで歩く。道の途中で悠真の手が揺れ、由美の手の甲に一度だけ触れた。偶然だった。二人ともすぐに離した。
触れない約束は守られたのか、破られたのか。由美にはわからなかった。あの一瞬の温度は、抱擁より深く残った。
改札の前で、二人は立ち止まった。悠真の路線と由美の路線は途中まで同じだったが、ここで別れると決めていた。最後の時間を電車の座席で使いたくなかった。
「今日は、ありがとう」
由美が言った。
「俺の方こそ」
「明日から、ちゃんと戻ろう」
「戻るんじゃなくて、進むんだと思う」
「そういう格好いいこと、最後に言うんだ」
「考えてた」
二人は笑った。涙を隠すための笑いだった。
「元気で」
「由美も。絵、やめるなよ」
「悠真君も、小さな家を作って」
「いつか」
「そのうち、は禁止」
「わかった」
握手も、抱擁もなかった。悠真は深く息を吸い、由美を見た。その眼差しの中に、高校生の彼と、四十三歳の彼が同時にいた。
「さようなら」
由美が言った。
「さようなら」
二人は背を向けた。由美は改札を通り、階段を上った。振り返れば、悠真がまだいるかもしれない。けれど振り返らなかった。今日までの二人を、最後の弱さで壊したくなかった。
電車に乗ると、窓に泣いている自分が映った。由美はハンカチで目元を押さえた。周囲の人は誰も気に留めない。街には、誰にも知られない別れがいくつも走っているのだろう。
スマートフォンを開き、悠真とのトーク画面を表示した。最初の『今日はありがとう』から、昨夜の待ち合わせ確認まで、言葉が長い道のように続いていた。由美は一番古いところから読み返さなかった。約束通り、連絡先を削除した。トーク履歴も消した。
画面から悠真の名前がなくなった瞬間、息が止まりそうになった。由美は鞄の中のスケッチブックを抱いた。そこには悠真の背中と、二つの岩の間にある海が残っている。データを消しても、今日まで消えるわけではない。
家の最寄り駅へ着くと、午後九時を少し回っていた。住宅街の窓に灯りが点り、夕飯の匂いが漂っている。由美はゆっくり歩いた。一歩ごとに、特別な一日が遠ざかる。
玄関の鍵を開けると、拓也の笑い声が聞こえた。リビングでは健司と拓也がゲームをしていた。テーブルには宅配ピザの箱があり、二人とも由美を見ると同時に振り返った。
「おかえり」
健司が言った。
「母さん、ピザ残ってる」
拓也が箱を開けた。
「ただいま」
由美は靴を脱いだ。声は震えなかった。
「楽しかった?」
「うん。海がきれいだった」
それは本当だった。今日のすべてを話すことはできないが、嘘だけで終わらせたくなかった。
洗面所で手を洗い、鏡を見た。泣いた目は少し赤かった。冷たい水で顔を押さえ、リビングへ戻る。拓也が皿にピザを二切れ置き、健司が温かいお茶を淹れた。
三人で同じテーブルに座った。テレビでは旅番組が流れ、糸島とは別の海が映っていた。由美はピザを食べながら、今日見た空を胸の奥へ静かにしまった。
夜、布団へ入ると、健司が「今度、三人で海でも行くか」と言った。
「拓也が来るかな」
「受験終わったし、一回くらい付き合うだろ」
「そうだね」
暗闇の中で、由美は涙をこらえた。悠真との一日を塗り替えるためではない。別の海を、家族と見ることもできる。その二つの記憶は、どちらかを消さなければ存在できないものではないと思いたかった。
健司の寝息が聞こえ始めても、由美は眠れなかった。鞄からスケッチブックを出し、薄暗い部屋でページを開いた。悠真の背中は一本の線で海とつながっていた。由美は消しゴムを手にしたが、消さなかった。
ページの端に、今日の日付だけを書いた。名前も、言葉も添えなかった。そして本棚の一番奥ではなく、自分の机の引き出しへしまった。
一日だけの晴れは終わった。だが、由美の身体にはまだ潮風の冷たさが残り、耳には波の音があった。明日の朝も四時半に起きる。それでも今日を知る前と同じ由美には、もう戻れなかった。




