↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一日だけの晴れ、一生分の雨  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/5

第三章 禁じられた周波数

悠真とのやり取りは、初めのうちは数日に一度だった。同窓会で撮った写真が共有され、昔の同級生の名前を確かめ合い、文化祭の思い出を話した。どのメッセージも、家族に見られて困る内容ではない。由美はそう確かめてから返事をした。

『中村、看板の件、本気らしい』

『無理だよ。二十五年描いてないんだから』

『二十五年残る表紙を描いた人が言っても説得力ない』

悠真の言葉は、由美が自分へ貼りつけてきた「もう遅い」という札を、少しずつ剥がした。彼に勧められ、由美は小さなスケッチブックを買った。家族には見せず、パートへ行く鞄に入れた。休憩中に屋上の給水塔や、向かいのビルの窓を描いた。

初めてスケッチの写真を送った夜、既読がつくまでの数秒が長かった。

『線が由美だ』

『線に名前なんてないよ』

『ある。迷ってるように見えて、最後はちゃんと形を決める線』

由美は画面を見つめた。上手いとも下手とも言わず、自分の線だと認めてくれたことが嬉しかった。誰かに見つけてもらう感覚を、長い間忘れていた。

やがて、やり取りは毎日になった。朝、悠真から『今日は冷えるな』と届く。由美が『揚げ場は暑いから半袖になりたいくらい』と返す。昼には由美が屋上から見た雲を送り、夕方には悠真が建設中の建物の向こうに沈む夕日を送った。

二人は同じ街の空を、それぞれ違う場所から見ていた。会わなくても、一日の端を共有できる。由美にとって、それは息苦しい部屋に小さな窓ができたようなことだった。

悠真は仕事の愚痴も書いた。若い設計士が徹夜を続けていること、顧客の一言で何週間分もの図面が無駄になったこと、所長が責任を取らず部下へ押しつけること。由美は解決策を出さず、『それは疲れるね』『今日は早く帰れるといいね』と返した。

『由美に言うと、何でこんなに楽になるんだろう』

その一文に、由美の心臓は大きく打った。嬉しいと感じる一方で、足元に薄い亀裂が走った気がした。

『昔から愚痴を聞かされる係だったから』

冗談にして返すと、悠真からすぐに届いた。

『聞いてもらってるだけじゃない。由美の話も聞きたい』

家では、由美の話は結論を求められた。「つまり、どうしてほしいの」「それで、何が問題なの」。悠真は途中で急かさなかった。話の意味がはっきりしなくても、その日に感じたことを受け取ってくれた。

パート先で石田に、急なシフト変更を当然のように頼まれた日、由美は断れなかった。拓也の三者面談と重なり、担任へ日程変更をお願いした。帰宅後、健司へ話すと、「パートなら代わってもらえばよかったのに」と言われた。

「パートでも、簡単には休めないの」

「でも拓也のことの方が大事だろ」

「私だってそう思ってる。でも、職場にも都合があるし」

「だから、うまくやればいいじゃないか」

健司は悪意なく言った。だが、その「うまく」の中身を引き受けるのはいつも由美だった。言い返す気力を失い、風呂へ入った後、悠真へ短く送った。

『今日は何をしても私の段取りが悪いみたい』

すぐに電話の着信があった。由美は驚き、脱衣所で画面を見つめた。出ることはできず、切れるのを待った。

『ごめん。文字より声の方がいいかと思った。急にかけて悪かった』

由美は家族が寝た後、ベランダへ出た。夜風の中で悠真へ電話をかけ直した。

「もしもし」

耳元で聞く声は、メッセージより近かった。

「寒くないか」

「大丈夫。少しだけなら」

由美はその日のことを話した。石田の頼み、面談の変更、健司の言葉。悠真は途中で一度も遮らなかった。

「由美の段取りが悪いんじゃない。みんなが由美なら何とかすると思ってるんだよ」

「私がそうさせたのかも」

「また自分のせいにする」

同窓会で言われた言葉を繰り返され、由美は笑った。笑うと、目の奥が熱くなった。

「泣いてる?」

「泣いてない」

「高校の時もそう言ってた」

由美は声を立てないように泣いた。悲しいからではなかった。自分でも見過ごしていた痛みに、名前をつけてもらったからだった。

電話を切るまで二十分ほどだった。寝室へ戻ると、健司は眠っていた。由美は隣に横たわり、さっきまで耳元にあった悠真の声を思い出した。幸福と罪悪感が、同じ温度で胸を締めつけた。

翌朝、健司は由美の目が腫れていることに気づかなかった。拓也もスマートフォンを見ながら朝食を食べた。誰にも気づかれないことに安堵し、同時に傷ついた。気づかれたくない秘密を持ちながら、気づいてほしいと願っている自分が矛盾していた。

悠真とは、電話を頻繁にしないと決めた。言葉にしたわけではないが、互いに境界を感じていた。それでもメッセージは続いた。何時に送れば相手が返しやすいか、生活のリズムまで少しずつわかるようになった。

十月の半ば、佐賀の母が畑で転び、足首を捻挫した。近所の人から連絡を受けた由美は、仕事を早退して実家へ向かった。幸い骨折はしていなかったが、医師から二週間は安静にするよう言われた。

「大げさにせんでよかよ。湿布しとけば治る」

母は病院の待合室でも笑った。由美は腹が立った。

「一人で歩けないのに、何が大げさなの。畑もしばらく駄目」

「野菜が悪くなる」

「野菜よりお母さんの足でしょう」

強い口調になり、母は黙った。車で実家へ戻る途中、由美は自分が拓也に心配を押しつける時と同じ顔をしていることに気づいた。大切だからこそ、相手の選択を奪ってしまう。

実家に泊まり、夕飯を作り、布団を敷いた。母は何度も「健司さんたちは大丈夫ね」と訊いた。由美が「大人だから一晩くらい何とかする」と答えると、不満そうに眉を寄せた。

「あんたがちゃんとせんと、家が回らんでしょう」

母に悪意はない。自分もそうやって生きてきたから、娘にも同じ強さを求める。しかし由美は、その言葉を励ましとして受け取れなかった。

「私がいなくても、回るよ。回るようにしないと駄目なの」

母は驚いた顔をした。

「何かあったと?」

「何もない。ただ、私は家を回すためだけにいるんじゃない」

言ってから、悠真とのやり取りが頭をよぎった。母へ告白したわけでもないのに、秘密を見透かされる気がした。

夜、父が使っていた部屋で布団に入り、悠真へ事情を送った。すぐに『お母さん、大丈夫?』と返ってきた。

『捻挫だけ。私の方が怒りすぎた』

『心配すると、怒るよな。俺も父にそうだった』

『優しくしたいのに、言うことを聞かせたくなる』

『明日、由美が帰った後のことを一緒に決めたらいい。お母さんにも選んでもらって』

悠真の助言で、由美は翌朝、母と向かい合った。毎日電話をすること、近所の人に買い物を頼むこと、週末は由美が来ること。母が自分でできることまで奪わず、助けが必要な部分だけを相談した。

「あんた、前と違うね」

母が言った。

「どこが?」

「前は何でも自分でして、後で疲れた顔しとった。今は、できんことをできんって言う」

由美は返事に困った。変化のきっかけが悠真だとは言えない。それでも、変わったのは自分だった。

帰り際、母が納戸から作りかけの刺繍を出した。半分だけ咲いた赤い花に、新しい緑の糸が数針加わっていた。

「足が治るまで暇やけん、続きしてみようかと思って」

「四十年ぶり?」

「数えんでよか」

由美は笑った。母も、母である前の自分を完全に忘れてはいなかった。

帰りの電車から、由美は刺繍の写真を悠真へ送った。

『半分だった花、続きを始めるって』

『由美の絵と同じだな』

『悠真君は、何を再開するの』

返事はしばらく来なかった。夕方になり、鉛筆で描かれた小さな家の図面が届いた。四角い窓、深い軒、庭へ続く縁側。仕事の図面よりずっと粗いが、住む人の気配があった。

『学生の頃に考えた家。描き直してみた』

『帰りたくなる家だね』

『いつか本当に作りたい』

二人は互いの人生を変える約束をしたわけではない。ただ、止めていた手を動かす姿を見せ合った。その関係が由美には尊く思え、手放しがたくなった。

数日後、今度は悠真から深夜にメッセージが届いた。

『七海と喧嘩した。大学を辞めたいらしい』

由美は健司が眠ったことを確かめ、リビングへ移った。七海は栄養学が自分に合わず、映像制作を学びたいと言っているという。悠真は、せっかく入った大学を辞めるなと怒鳴ってしまった。

『悠真君は、小さな家を今から作ってもいいって私に言ったでしょう』

『言った』

『七海ちゃんにも、選び直す時間があっていいんじゃない』

『学費も、将来もある。簡単じゃない』

『簡単じゃないから、一緒に考えるんじゃないの』

送った後、由美は自分が拓也へ同じことをできるだろうかと思った。親は他人の子どもには寛容な答えを出せる。自分の子どものことになると、失敗させない責任に縛られる。

翌日、悠真から『もう一度話した』と来た。七海は退学ではなく、半年休学して映像の学校へ通う案を考えていた。理沙も交え、費用や復学の期限を調べることになったという。

『由美に言われなかったら、娘の話を潰してた』

『決めたのは悠真君たちだよ』

『それでも、ありがとう』

由美は嬉しかった。自分の言葉が悠真の家庭へ影響したことに、誇らしさすら感じた。すぐ後で、強い罪悪感が来た。理沙の知らないところで、夫と娘の会話に別の女が関わっている。善意だから許されるわけではない。

その晩、由美は健司へ拓也の進路について訊いた。

「もし拓也が、受験やめて別のことしたいって言ったら、どうする?」

「急に何だよ」

「本人の希望、ちゃんと聞けてるかなと思って」

健司はしばらく考えた。

「やめる理由による。でも、俺たちが決めることじゃないな」

「私、失敗しない道を選ばせることばかり考えてた」

「親なんて、みんなそうだろ。俺も」

二人はその夜、拓也がいない食卓で初めて、息子の成績ではなく、息子がどんな暮らしを望んでいるのかを話した。悠真から受け取った問いを、そのまま秘密にするのではなく、自分の家庭へ返していく。由美はそうすることで、関係を正しいものに変えられる気がした。

しかし、良い影響があることと、境界を越えていないことは同じではなかった。由美は悠真から『おやすみ』と届くだけで安心し、届かない夜には不安になった。互いの家族を思いやる言葉さえ、二人を強く結びつけた。

母の足が治ったと報告した夜、悠真は電話で「由美がいてよかった」と言った。

「お母さんにとって?」

「俺にとって」

由美は答えられなかった。スマートフォンを持つ手が熱くなった。その一言を忘れたくないと思った時、自分たちはもう、ただの懐かしい友人ではないと認めざるを得なかった。

悠真の妻、理沙は図書館司書として働いていた。休日は読書会や友人との登山へ出かけることが多いという。娘の七海は大学で栄養学を学んでいる。悠真が家族の話を隠さないことに、由美は安心した。自分たちは家庭を捨てようとしているのではない。そう思うために、理沙と七海の存在は必要だった。

由美も健司や拓也の話をした。健司が健康診断で血圧を注意されたこと。拓也が模試の判定を隠していたこと。三人で鍋を囲んだ夜、拓也が久しぶりに学校の友人の話をしたこと。幸せな出来事も悠真に送った。

『今日は家族で笑えた』

『よかったな』

悠真の返事に嫉妬はなかった。由美も、彼が理沙と映画へ行ったと聞けば『楽しんできて』と送った。それで安全な場所にいられる気がした。

しかし、心は言葉より正直だった。日曜の午後、悠真からの返事が何時間も来ないと、由美は何度も画面を確認した。理沙と過ごしているのだろうと思うと、胸に小さな棘が刺さった。そんな権利はないと自分を叱り、通知を切った。十分後にはまた設定を戻した。

ある夜、健司が由美のスマートフォンを手に取った。充電器を借りようとしただけだったが、由美は反射的に画面を伏せた。

「何だよ」

「別に。落とすかと思って」

「そんな持ち方してないだろ」

健司は怪訝な顔をした。悠真からの通知は来ていなかった。見られて困る文章も、その時はなかった。それでも由美の動きは、すでに秘密を守る人のものだった。

その夜、由美は過去のやり取りを最初から読み返した。露骨な愛の言葉は一つもない。ただ、互いの疲れを気遣い、空の写真を送り、眠れない夜を支えている。文章だけを誰かが読めば、親しい友人同士に見えるだろう。だが、返事を待つ時間や、名前が表示された時の鼓動までは隠せない。

『少し連絡を減らした方がいいかもしれない』

由美は打ち、送らずに消した。悠真を失うことを想像すると、乾いた日常へ一人で戻されるような恐怖があった。彼がいなければ、以前と同じ毎日に戻るだけだ。それなのに、以前の自分がどんなふうに息をしていたのか、もう思い出せなかった。

十一月の終わり、スーパーで年末商戦の準備が始まった。惣菜部は予約商品の試作と通常業務が重なり、休憩も取れない日が続いた。石田は売上目標を繰り返し、誰かが遅れるたび作業場の空気を尖らせた。

由美は熱い油で手の甲を火傷した。大した傷ではなかったが、赤く腫れた。石田は「人手が足りないから、冷やしたら戻って」と言った。由美は水道水を当てながら、痛みよりも自分が交換可能な部品のように扱われたことに傷ついた。

帰宅すると、夕飯を作る気力がなかった。ソファに座ったまま動けずにいると、拓也が台所を覗いた。

「今日、飯は?」

「ごめん。何か買ってきて」

「え、今から?」

その声に責められた気がして、由美は顔を伏せた。拓也は火傷に気づき、「それ、どうした」と訊いた。

「仕事で。大丈夫」

拓也はしばらく黙り、財布を持って外へ出た。二十分後、コンビニの弁当を三つとプリンを一つ買って戻った。

「プリン、母さんの。火傷した時は甘いもの食えば治るって、誰かが言ってた」

「誰が?」

「知らん。今考えた」

由美は笑い、少し泣いた。息子の優しさに触れた日は、悠真へ報告したくなった。だが、スマートフォンを手に取ってやめた。この瞬間まで悠真と共有すれば、家族の中だけにあるものが減ってしまう気がした。

健司は帰宅後、由美の手に薬を塗った。無言で軟膏を広げる指は、思っていたより丁寧だった。

「仕事、辞めてもいいんじゃないか」

「簡単に言わないで。家計もあるし」

「無理しろって意味じゃない」

「わかってる」

由美は素直になれなかった。悠真なら何と言うだろう、と考えた自分に気づき、胸が冷えた。目の前で手当てをしてくれている夫と、ここにいない悠真を比べている。

その晩、悠真から『今日は大丈夫だった?』と届いた。朝、忙しいと送っていたからだ。由美は『火傷したけど、家族が助けてくれた』とだけ返した。

『ひどくない? 病院は?』

『大丈夫。健司が薬を塗ってくれた』

夫の名をあえて書いた。自分が帰る場所を、悠真にも自分にも示すためだった。

『それならよかった。ちゃんと休めよ』

悠真はそれ以上踏み込まなかった。その節度が、かえって愛おしかった。

十二月に入ると、街はイルミネーションで明るくなった。由美は仕事帰り、駅前の光を撮って悠真へ送った。彼からは、残業中の窓に映る同じ光が返ってきた。

『同じものを見てるのに、場所が違うと全然違うな』

『私の方は買い物袋が重い』

『俺の方は所長の機嫌が重い』

くだらない言葉で笑えることが、由美には救いだった。

その週末、同窓会の仲間数人で昼食をする話が持ち上がった。恵子が作ったグループに悠真も入っていた。由美は行きたいと思ったが、悠真に会うためだと自分で認めるのが怖かった。

当日、健司には「同窓会の友達とランチ」と伝えた。嘘ではない。悠真と二人きりでもない。店には恵子、中村、真理、悠真を含め七人が集まった。由美は悠真の向かいを避け、斜め離れた席へ座った。

皆が話している間、二人はほとんど直接言葉を交わさなかった。それでも誰かの冗談に笑うタイミングが重なり、料理を取る手が同時に伸び、何度も目が合った。メッセージで知った日常がある分、同窓会の時より距離が近く感じられた。

会計を終え、店の前で別れる時、悠真が小さく言った。

「会えてよかった」

「みんなに?」

「そういうことにしとく」

由美は笑えなかった。嬉しさが顔に出るのが怖く、先に恵子の腕を取った。

帰り道、恵子が訊いた。

「悠真と連絡取ってる?」

「たまに。昔のパンフレット送ってもらったり」

「そう」

恵子はそれ以上追及しなかった。しばらく歩いてから、信号待ちで言った。

「由美が元気になるのは嬉しい。でも、元気をくれる人に、自分の人生まで預けたら駄目だよ」

「そんなことしてない」

「ならいい」

恵子の声に非難はなかった。それが余計に痛かった。

帰宅後、由美は悠真へ『今日はありがとう』と送るのをやめた。代わりにスケッチブックを開き、昼食の店に飾られていた花瓶を記憶だけで描いた。線に集中している間は、悠真の返事を待たずにいられた。

夜十時を過ぎ、彼から届いた。

『今日は話せなかったな』

由美は三十分置いてから返した。

『みんなで会ったんだから、いいでしょう』

『そうだな。でも由美に会いに行った』

その言葉を読んだ瞬間、由美の中で何かが境界を越えた。悠真が自分を特別に思っている。すでにわかっていたことを、文字として突きつけられた。

『そういうこと言わないで』

『ごめん』

数分後に続いた。

『でも、嘘はつけない』

由美は返信できなかった。スマートフォンを閉じ、胸に押し当てた。拒みたいのではない。むしろ同じ言葉を待っていた。その事実こそが怖かった。

翌日、悠真から連絡はなかった。由美も送らなかった。仕事中も、夕飯を作る間も、沈黙が耳鳴りのようにつきまとった。家族の話が頭へ入らず、拓也に同じことを二度訊いて怒られた。

三日目の夜、由美は耐えられず『元気?』と送った。すぐに既読がついた。

『元気じゃない。でも連絡しない方がいいと思ってた』

『私も、そう思ってた』

『じゃあ、ここでやめる?』

画面の問いを見つめ、由美は涙が出た。やめるべきだと頭ではわかる。しかし、はいと打てば、自分を見つけてくれた唯一の人を失うように感じた。

『まだ、できない』

送信した後、悠真から電話がかかってきた。由美は家族が寝静まったことを確かめ、リビングの隅で出た。

「俺もできない」

悠真の低い声が耳に届いた。

「でも、これ以上は駄目だと思う」

「わかってる」

「由美の家族を壊したくない。俺の家族も」

「わかってるよ」

同じ言葉しか言えなかった。わかっていながら続けていることを、二人とも知っていた。

「好きだと言ったら、終わるかな」

悠真が呟いた。

「言わないで」

「うん」

「私も言わない」

告白をしないという会話が、何より明確な告白になった。

その夜から、二人の言葉は慎重になった。甘い表現を避け、会いたいと言わず、家族がいる時間には送らない。だが、禁止事項が増えるほど、関係の輪郭は濃くなった。普通の友人なら必要のない規則だった。

年が明け、拓也の受験が近づいた。家の中には緊張が漂い、由美は弁当の献立や塾の送迎に気を配った。健司も休日には過去問を買いに行き、拓也と進路について話した。三人が同じ方向を向く時間が増えた。

そんな時でさえ、由美は悠真へ心の一部を向けていた。拓也の模試の結果が上がれば真っ先に知らせたくなり、健司と意見がぶつかれば慰めを求めたくなった。悠真は生活の外側にいるのではなく、由美の感情を解釈する内側の声になり始めていた。

拓也の私立高校の合格通知が届いた夜、家族でささやかな祝いをした。健司がケーキを買い、拓也は照れながら写真に収まった。由美は心から嬉しかった。悠真へ送るためではなく、三人だけの写真を何枚も撮った。

夜、悠真から『どうだった?』と届いた。試験日を覚えていたのだ。

『合格したよ。今日は家族でお祝いした』

『おめでとう。由美もお疲れさま』

その「由美も」に涙が出そうになった。だが返事は『ありがとう』だけにした。

二月のある夜、健司が寝室で仕事のメールを返し、由美はリビングで悠真と電話をしていた。悠真の事務所で若い社員が倒れ、彼が責任を感じているという話だった。

「悠真君のせいじゃないよ」

「もっと早く帰らせればよかった。俺も所長に逆らえなかった」

「一人で全部背負わないで」

「由美に言われると、説得力ないな」

二人が小さく笑った時、階段が軋んだ。拓也が下りてくる気配がした。由美は反射的に電話を切り、スマートフォンをクッションの下へ入れた。

拓也は眠そうな顔で水を飲み、由美を見た。

「誰かと電話してた?」

「恵子さん」

嘘は考える前に口から出た。

「こんな時間に?」

「ちょっと相談」

「ふうん」

拓也は疑った様子もなく二階へ戻った。由美はクッションの下からスマートフォンを取り出した。画面には悠真から『大丈夫?』と表示されている。その三文字が、急に危険なものに見えた。

息子へ嘘をついた。悠真と話したことより、その事実が由美を打ちのめした。守ろうとしている家族に対し、すでに小さな裏切りを重ねている。

『もう、やめよう』

由美は送った。

既読はすぐについたが、返事は来なかった。十分、三十分、一時間。由美は画面を伏せ、洗い終えた食器をもう一度拭いた。深夜を過ぎてようやく通知が震えた。

『わかった。それがいいと思う』

正しい返事だった。由美が望んだ返事でもあった。それなのに、胸の中心から何かを引き抜かれたように痛んだ。

『ごめんなさい』

『謝らなくていい。俺も同じ責任がある』

そこで会話は終わった。由美は悠真とのトーク画面を閉じ、通知をオフにした。削除はできなかった。

翌朝も午前四時半に目が覚めた。卵焼き器へ卵を流す。タイマーを止める。弁当箱へ詰める。何も変わらない動作なのに、身体の内側だけが空洞になっていた。

一週間、連絡はなかった。由美は何度もスマートフォンを手に取り、送る理由を探した。空がきれいだった。仕事で嫌なことがあった。拓也が第一志望に合格した。どれも以前なら悠真へ知らせた。今は、自分の中で言葉が行き場を失った。

代わりに、由美はスケッチブックへ描いた。拓也の机に置かれた合格通知、健司が脱いだ眼鏡、雨上がりのベランダ。誰かに見せるためではなく、感じたものを自分の中へ留めるために描いた。悠真が開けた窓から入った光を、彼がいなくても消さないようにした。

十日目の夜、着信があった。悠真だった。由美は出なかった。切れた後、留守番電話の通知が残った。再生するか迷い、イヤホンをつけた。

「約束を破ってごめん。返事はいらない。ただ、最後に頼みたいことがある」

悠真の声はそこで一度途切れた。

「一日だけ、会えないか。続けるためじゃない。終わらせるために。曖昧なまま消えたら、俺はたぶん、いつまでも由美を待ってしまう」

由美は再生を止めた。終わらせるために会うという言葉が、矛盾していることはわかった。会えば、もっと離れがたくなるかもしれない。それでも心のどこかで、同じ願いを持っていた。

翌日、悠真へ電話をかけた。

「一日って、どういう意味?」

「朝に会って、夜に別れる。それだけ。触れない。未来の約束もしない。今日まで言えなかったことを話して、二度と二人では会わない」

「そんなにうまくできると思う?」

「思わない。でも、何もしないで終わるより、自分たちで終わりを決めたい」

由美は窓の外を見た。細い雨が降っていた。

「家族には何て言うの」

「俺は仕事で糸島の現場を見ると言う。本当に確認する場所もある。由美は、嘘をつかなくていい理由を選んで」

嘘をつかなくていい理由などない。誰と行くかを言わない時点で、隠している。しかし由美は、その矛盾を責める資格が自分にもないと知っていた。

「思い出を作って、それを理由に明日から生きるなんて、勝手だよ」

「うん。勝手だ」

「きれいな話じゃない」

「きれいにしたいわけじゃない。壊さずに終わりたいだけだ」

長い沈黙の後、由美は答えた。

「一日だけ」

口にした瞬間、胸に喜びが広がった。その喜びを、由美は自分の醜さとして受け止めた。

「ありがとう」

「ありがとうって言わないで。まだ、行くかどうかわからない」

「当日の朝まで待つ。来なかったら、それで終わりにする」

待ち合わせは三月最初の土曜日、午前九時。天神の路地裏にあるカフェ「ソラノシズク」。その日を最後に、連絡先を消す。二人はそう決めた。

電話を切った後、由美はカレンダーを見た。約束の日まで十二日あった。その一日が近づくほど、日常のすべてが鮮明になった。健司の咳、拓也が階段を上がる音、味噌汁の湯気、洗濯物に残る日差し。失いたくないものが、こんなにも近くにある。

それでも、由美は約束の日を待った。未来を求めない代わりに、過去へ持っていく一日を欲しがった。それは、誰にも祝福されない、最も静かで切実な約束だった。

その約束が正しいとは思わなかった。ただ、逃げずに終わりを選ぶための時間にしたかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。