第二章 人混みの中の顔
同窓会当日の午後、由美は約束より一時間早く支度を始めた。青いワンピースを着て、薄く化粧をする。普段より丁寧に眉を描くと、左右の高さが気になり、何度も直した。口紅を塗った自分の顔は見慣れず、鏡の前で笑う練習をすると、かえって表情が硬くなった。
美容院で整えてもらった髪は、肩のあたりで柔らかく内側へ曲がっている。担当の若い美容師は「同窓会、楽しみですね」と言った。由美は曖昧に笑った。楽しみだと言い切れば、何かを期待している自分を認めるようで恥ずかしかった。
家を出る前、拓也がリビングへ下りてきた。由美を見ると、一度通り過ぎ、それから振り返った。
「へえ。いつもと違うじゃん」
「変かな」
「変っていうか、ちゃんとしてる」
「いつもはちゃんとしてないみたいね」
「そういう意味じゃない」
拓也は気まずそうに鼻を擦った。
「まあ、似合ってるんじゃない」
由美が礼を言う前に、彼は冷蔵庫を開けた。その不器用な褒め言葉だけで、口紅を落としてしまいたいほどの気恥ずかしさが少し和らいだ。
健司はソファから目を上げた。
「遅くなるなら連絡して」
「うん。夕飯、二人でお願いね」
「わかってる。久しぶりなんだから、ゆっくりしてこいよ」
由美は健司の顔を見た。もっと早く言ってほしかったと思う一方、その言葉を素直に受け取りたいとも思った。
「ありがとう。行ってきます」
玄関を出ると、秋の風がワンピースの裾を揺らした。曇っていた空は西から明るくなり、濡れた道路に薄い青が映っている。駅までの道は毎週の買い物で何度も通るのに、その日は知らない町を歩いているようだった。
電車の窓から流れる景色を見ながら、由美は同級生の名前を思い出そうとした。仲のよかった恵子、学級委員だった真理、野球部の中村。顔は浮かぶのに名字が出てこない人もいる。悠真の名も自然に浮かんだが、彼が来るかどうかは知らなかった。来たとしても、二十五年ぶりに挨拶をするだけだろう。
天神の駅は土曜の人波で混み合っていた。由美は待ち合わせ場所の花屋の前で恵子を見つけた。赤いジャケットを着た恵子は、遠くから大きく手を振った。
「由美、いいじゃない。青、正解だった」
「恵子こそ、派手」
「今日は地味にしてどうするの」
高校時代と同じ調子で腕を組まれ、由美は笑った。二人でホテルまで歩く間、恵子は職場の上司の物まねをし、由美の緊張をほぐした。
会場はホテルの三階にある宴会場だった。受付の前には、名札を胸につけた男女が集まっている。聞き覚えのある笑い声、記憶より低くなった声、名前を呼び合う声。皆、顔に年月をまといながら、その奥に高校生の頃の面影を残していた。
受付で旧姓を告げると、係の女性が「あ、田中さん」と目を輝かせた。由美は名前を思い出せず焦ったが、名札に「藤井真理」とあるのを見て、ようやく結びついた。
「真理ちゃん。全然わからなかった」
「お互いさま。由美、変わらないね」
変わらないという挨拶が、ここでは合言葉のように交わされていた。実際には、誰もが変わっていた。髪の色、目元、体つきだけではない。笑う前のためらい、名刺を差し出す手つき、自分の近況をどこまで話すか測る沈黙に、それぞれの二十五年があった。
会場へ入ると、丸いテーブルが十卓ほど並んでいた。壁際には卒業アルバムの写真を拡大したパネルが置かれ、校歌のピアノ曲が小さく流れている。由美は自分の席を確かめ、グラスの水を一口飲んだ。空調は効いているのに、手のひらが汗ばんだ。
乾杯が終わると、近況報告が始まった。広告会社で支店長になった者、家業を継いだ者、看護師として働き続けている者。子どもが大学へ入った話、親を看取った話、離婚して再婚した話。華やかな肩書きの陰で、皆が何かを抱えていることが少しずつ見えてきた。
同じテーブルの中村は、地元で工務店を営んでいた。
「田中は絵が上手かったよな。文化祭の龍、まだ覚えとる」
「井上になったの。今は全然描いてないよ」
「もったいない。うちの店の看板、描いてもらえばよかった」
冗談だとわかっていても、由美は「描けない」と急いで否定した。二十五年間使わなかった力を、まだ持っていると思われるのが怖かった。
恵子は隣で「最近また描き始めたんだよ」と勝手に言った。
「鉢植えを一枚だけ」
「一枚描いたら、始めたって言うの」
中村は「じゃあ今度ほんとに頼もうかな」と笑った。由美も笑ったが、胸の中に小さな波が立った。
やがて席を移動する人が増え、会場は賑やかになった。由美は名刺を何枚か受け取り、そのたび自分には渡すものがないことを気にした。スーパーの名札には「井上」としか書かれていない。家庭のことを話せば無難だが、それだけで自分のすべてが説明されてしまうことに抵抗があった。
「今は何してるの」と訊かれると、「スーパーで働いてる」と答えた。以前なら「ただのパート」と付け加えただろう。今日は言わなかった。天ぷらを時間通りに揚げ、売り場を整え、客の食卓へ届ける。雇用形態を理由に、自分で自分の仕事を小さくする必要はないと思った。
会場の熱気に疲れ、由美は壁際へ移った。グラスに烏龍茶を注ぎ、写真パネルを眺める。集合写真の中に十八歳の自分を見つけた時、人混みの向こうで誰かがこちらを見ていることに気づいた。
斎藤悠真だった。
写真で見た高校生の顔に、二十五年分の線が刻まれている。髪は少し短くなり、こめかみに白いものが混じっていた。黒いスーツはきちんとしているが、ネクタイはわずかに緩んでいる。目尻の皺と、相手の言葉を待つような穏やかな眼差しだけは、記憶のままだった。
目が合うと、悠真は驚いたように眉を上げ、ゆっくり近づいてきた。
「由美?」
その声を聞いた瞬間、時間が薄い紙のように折り畳まれた。美術室、放課後の廊下、雨のバス停。忘れていた場面が一度に胸へ戻った。
「悠真君。久しぶり」
「本当に由美だ。入ってきた時、似てる人がいると思ったけど、声かける自信なくて」
「私も、今わかったところ」
「それは嘘だろ。俺の方が変わった」
悠真は自分の髪を指し、由美は笑った。ぎこちなさはあったが、不思議と気まずくはなかった。
「元気だった?」
「元気ってことにしてる。由美は?」
「私も、だいたい元気」
「だいたい、か」
悠真は昔と同じように、言葉の端を拾った。普通なら聞き流される曖昧さを、彼は急かさず見つめる。そのことに由美は早くも心をほどかれそうになり、グラスを持ち直した。
悠真は福岡市内の設計事務所で働いていた。大学卒業後に東京の会社へ入り、三十代半ばで父親の病気を機に福岡へ戻ったという。今は商業施設や集合住宅の設計を担当している。
「夢だった仕事じゃない。自分で選んだんだけどな」
「どういう意味?」
「建物を作りたくて設計を始めたのに、最近は納期と予算の間に線を引いてるだけって感じがする。完成しても、次の日には次の修正が来る」
由美は惣菜部のタイマーを思い出した。作るものは違っても、仕事から手応えが抜け落ちていく感覚は似ていた。
「でも、街に残るでしょう。悠真君が設計した建物」
「名前は残らないよ。それに、残したいのかどうかも最近わからない」
彼は笑ったが、その目には疲れがあった。
「結婚は?」
由美が訊くと、悠真は左手の指輪を少し動かした。
「してる。理沙っていう。同い年。娘が一人、大学一年で北九州にいる」
「もう大学生なんだ」
「家を出た途端、夫婦二人で何を話せばいいかわからなくなった」
冗談めかしていたが、声は乾いていた。由美は健司との食卓を思い浮かべた。
「うちは中学三年の息子。まだ家にいるけど、会話はほとんどないよ」
「男の子はそういう時期があるって言うけど、言われる方はきついよな」
「母親なんだから受け止めて当然みたいに思われるの。夫にも、息子にも。私もそう思ってるところがあるけど」
口にしてから、話しすぎたと思った。二十五年ぶりに会った男性へ、家庭の不満を打ち明けている。由美が謝ろうとすると、悠真は首を振った。
「由美は昔から、最後に自分のせいにするな」
「そうだった?」
「お父さんが入院した時も、進学を変えるって決めたのは自分だから平気だって言ってた。本当は悔しかったくせに」
由美は言葉を失った。家族でさえ忘れている昔の痛みを、悠真が覚えていた。
「よく覚えてるね」
「由美が泣かなかったから、覚えてる」
その一言が、長い時間を越えて胸の奥へ触れた。由美は泣かなかったのではない。泣く場所がなかったのだ。父も母も不安の中にいて、自分まで崩れるわけにはいかないと思っていた。悠真だけが、その強がりに気づいていた。
司会者が抽選会の開始を告げ、会場の視線が壇上へ向いた。悠真と由美は並んで壁際に立った。番号が読み上げられるたび歓声が起きる。二人の番号は呼ばれなかったが、どちらもそれを残念には思わなかった。
「あの文化祭の背景画、覚えてる?」
「龍のやつ?」
「そう。運ぶ時、廊下の角で破った」
「悠真君が慌ててガムテープ貼って、余計目立った」
「あれ、俺だけのせいになってるけど、中村が後ろから押したんだぞ」
二人は声を抑えて笑った。出来事そのものより、それを共に覚えている人がいることが嬉しかった。自分の過去が、記憶違いの夢ではなく、誰かの中にも確かに存在している。
悠真は、由美が描いた文化祭のパンフレットを今も持っていると言った。
「嘘」
「実家の段ボールに入ってた。捨てようと思ったけど、表紙の空がきれいで」
「あれ、青が足りなくなって、最後は紫を混ぜたの」
「だから夕方みたいな空だったんだな」
由美自身も忘れていた色の理由を話すと、悠真は嬉しそうに頷いた。絵を描いていた自分が、彼の記憶の中では途中で消えていなかった。
抽選会が終わり、恵子が二人のところへ来た。
「やっぱり話してた。悠真、由美のこと見つけるの早かったね」
「恵子、余計なこと言わないで」
「高校の時から、二人は話し始めると長かったから」
悠真が困ったように笑い、由美は頬が熱くなるのを感じた。当時、二人が恋人だったことはない。手をつないだことも、好きだと言ったこともない。ただ、放課後のバス停で何度も話し、互いの悩みを知っていた。それだけの関係だったからこそ、記憶の中で傷つかずに残ったのかもしれない。
宴会がお開きになった後も、ロビーには帰りがたい人たちが集まっていた。二次会へ向かう一団が声をかけてきたが、由美は迷った。健司には遅くなると連絡すればよい。それでも、夜の街へ出ることに慣れていない体が家へ戻ろうとしていた。
「由美、私は二次会行くよ。あんたは?」
恵子が訊いた。
「私はそろそろ」
「じゃあ悠真、駅まで送ってあげて」
「恵子」
「方向、一緒でしょ。じゃあね」
恵子は返事を待たず、仲間の輪へ入っていった。
宴会場を出ると、ロビーの冷えた空気が火照った頬に心地よかった。二次会へ向かう人々の声が遠ざかる中、二人は正面玄関へ向かった。
正面玄関を出る前、二人はロビーの片隅にある古い校舎の模型を見つけた。同窓会実行委員が学校から借りてきたものらしい。今は建て替えられた旧校舎が、透明な箱の中に縮小されていた。窓、階段、体育館へ続く渡り廊下。由美は腰をかがめ、美術室の位置を指した。
「ここ。三階の端」
「窓から野球部の練習が見えた」
「悠真君、よく授業を抜けて来てたよね」
「抜けてない。放課後」
「一回、数学の時間に来た」
「あれは先生にプリント運べって言われたんだ」
「そのまま一時間いた」
悠真は観念したように笑った。
「由美がコンクールの絵を破った日だ」
忘れたつもりだった場面が、模型の窓から引き出された。父の手術が決まり、家では母が費用の話ばかりしていた。由美は進学を諦める決心をし、美術室で描いていた絵を自分で破った。応募して賞を取れば、夢を諦めにくくなると思ったからだ。
悠真は床に散った紙を拾い、理由を訊かなかった。ただ、破れた絵を裏からテープでつなぎ、画板へ戻した。
「あの後、先生が勝手に応募したんだよね」
「佳作になった」
「賞まで覚えてるの」
「由美が賞状を一度も見なかったから」
「見たくなかったの。嬉しいと思ったら、お父さんに悪い気がして」
四十三歳になった今なら、父は娘の喜びを奪いたかったわけではないとわかる。けれど十八歳の由美には、家族が苦しい時に夢を持つこと自体がわがままに思えた。
「俺、あの時もっと言えばよかった」
「何を?」
「諦めなくていいって。奨学金だって、働きながらだって、方法を一緒に探せばよかった」
「高校生にそんなことできないよ」
「でも、何もしなかった」
「隣にいてくれた」
由美は模型から目を離さず言った。
「あの日、悠真君が黙ってテープを貼ってくれたから、絵を全部捨てずに済んだ。賞状は見なかったけど、絵は家に持って帰ったの。今も実家のどこかにあるかもしれない」
悠真は何も答えなかった。ガラスに映る彼の顔が、少し歪んで見えた。
「由美のお父さん、いつ亡くなった?」
「九年前。拓也が小学校に入った年」
「そうか」
「最後は穏やかだったよ。私が進学を変えたこと、ずっと気にしてたみたい。病室で謝られた」
「由美は何て?」
「お父さんのせいじゃないって言った。本当にそう思った。でも、あの時の自分が悔しかったことまで、なかったことにしちゃった気がする」
悠真はゆっくり頷いた。
「感謝と悔しさは、両方あっていいんじゃないか」
その言葉に、由美は胸の奥が緩むのを感じた。父を愛していたことと、夢を諦めたことへの悔しさは、どちらか一方を選ばなくてもよい。そんな単純なことを、二十五年かけても自分には言えなかった。
ロビーのソファへ移り、二人はもう少し話した。悠真は東京から福岡へ戻った頃のことを語った。父親の看病を理由にしたが、本当は仕事にも疲れていたという。大きな案件の責任者になり、部下が心を病んで退職した。自分が追い込んだのではないかという思いが消えず、逃げるように会社を辞めた。
「福岡に戻って、父の世話をした。周りには親孝行だって言われた。実際は、自分が東京から逃げる理由に父を使ったんだ」
「お父さんは、悠真君が戻って嬉しかったでしょう」
「たぶんな。でも俺は、自分の都合で誰かのためって顔をするのが上手くなった」
「それ、私も同じかもしれない。家族のためって言えば、自分で選ばなかったことを考えなくて済むから」
二人は、それぞれの善意の裏側を初めて言葉にした。家族のためにしたことは嘘ではない。だが、その中に逃げや諦めが混じっていても、人は簡単には認められない。悠真と話していると、由美は自分を善い妻や可哀想な主婦のどちらかに決めずに済んだ。
「奥さんとは、東京で知り合ったの?」
「大学の図書館。理沙は司書課程を取ってて、俺は建築の資料を探してた。探し物が下手すぎて、見かねて声をかけられた」
悠真の顔に、静かな懐かしさが浮かんだ。
「優しい人なんだね」
「うん。強い人でもある。俺が福岡へ戻りたいと言った時、自分の仕事を辞めて福岡へ来てくれた。今はこっちの図書館で働いてる」
「大事にしないと」
由美が言うと、悠真は少し驚いた後、苦く笑った。
「由美に言われると、ちゃんと聞かなきゃいけない気がする」
「私だって、健司に同じことを言える立場じゃないけど」
「健司さんは、どんな人?」
由美は答えに迷った。不満ならいくつも挙げられる。しかし、その人の輪郭は不満の合計ではない。
「真面目。責任感が強い。弱ってるところを見せるのが苦手。昔はよく笑った。今も、たまに優しいけど、本人は優しくしたって気づいてない」
「由美は、健司さんのことをよく見てるな」
「見てるだけ。話してはいない」
「俺も理沙を見てるつもりで、話してない」
家族について話すほど、目の前の相手へ惹かれていることが矛盾に思えた。二人は不幸な結婚から救いを求めているわけではない。それぞれ大切な人がいるのに、その人には届かない部分を互いに見つけてしまった。
「昔の手紙、覚えてる?」
悠真が訊いた。
「少し。大学の製図が大変って書いてあった」
「由美は短大の近くのパン屋がおいしいって、毎回書いてた」
「食べ物の話ばっかり」
「本当は返事を待ってた。寮の郵便受けを一日に何回も見た」
「私も」
由美は初めて認めた。当時、悠真からの封筒を見つけると、一度自分の部屋へ持っていき、誰にも見られないように読んだ。恋文ではなかった。けれど、ほかの手紙とは違う場所にしまっていた。
「どうして終わったんだろう」
「俺が返さなかった」
「そうだっけ」
「就職活動で余裕がなくて、ちゃんとした返事を書こうと思ってるうちに三か月経った。その後で書くのが恥ずかしくなった」
「私は、悠真君に恋人ができたんだと思ってた」
「由美こそ、健司さんと付き合い始めた頃じゃない?」
「半年くらい後」
二人は顔を見合わせた。運命的な別れではなかった。誰かの裏切りでも、決定的な事件でもない。返事を先延ばしにした三か月と、それを待った側の遠慮が、二十五年の空白を作った。
「もし、あの時返事が来てたら」
由美が言いかけると、悠真は首を振った。
「考えると、今の家族を否定することになる」
「そうだね」
拓也のいない人生も、七海のいない人生も想像できない。選ばなかった道を美しく見せるために、今いる人たちを影にしたくなかった。
ホテルのスタッフが模型の照明を消し始め、二人は立ち上がった。ほんの十五分のつもりが、四十分近く経っていた。ロビーから人影はほとんど消え、宴会場の扉も閉じられている。
「話し始めると長いの、変わってないね」
「由美が聞くから」
「悠真君が話すからでしょう」
自動扉が開き、雨上がりの空気が流れ込んだ。二人はそれぞれの家庭へ帰るべき時間を知りながら、もう少しだけ同じ方向へ歩いた。
「急いで帰らなくて大丈夫?」
悠真が訊いた。
「連絡はした。夕飯も任せてきたから」
「任せるって、案外難しいよな」
「そう。やってもらうより、やらないことに慣れる方が難しい」
悠真は少し考え、「わかる」と答えた。
「娘が家を出るまでは、父親らしいことをしなきゃと思ってた。出たら急に、何をすればいいかわからなくなった。理沙は自分の仕事も友達もあるのに、俺だけ家で所在がなくて」
「奥さんとは話さないの?」
「話すよ。電気代とか、実家のこととか。話すべきことは」
「うちと同じ」
二人は苦笑した。他人の家庭と比べて安心したわけではない。孤独が自分だけの欠陥ではないと知り、少し息がしやすくなった。
駅へ向かう途中、小さな公園の前で立ち止まった。ベンチは雨で濡れていた。街灯の下で、悠真が空を見上げた。
「このままでいいのかって、最近よく思うんだ」
由美は驚いた。美優に夢を訊かれた日から、自分の中で繰り返していた問いと同じだった。
「私も。何かが悪いわけじゃないの。家もあるし、家族も元気だし。でも一日が終わるたび、今日も自分を使わなかったような気がする」
「自分を使わなかった、か」
「変な言い方だけど」
「いや、わかる。俺も図面は引いてるのに、自分の線じゃない気がする時がある」
人通りの多い道から少し外れただけで、周囲の音が遠くなった。二人の間に沈黙が落ちたが、埋める必要はなかった。由美は、家族と黙っている時とは違う静けさだと思った。家の沈黙は、何を言っても届かない諦めから生まれる。悠真との沈黙には、まだ言葉になる前のものが満ちていた。
「由美、絵はまだ描いてる?」
「さっき中村にも訊かれた。ずっと描いてなかった。最近、鉢植えを一枚だけ」
「見たいな」
「見せられるようなものじゃないよ」
「昔もそう言って、完成するまで誰にも見せなかった」
「完成しても見せたくない時はあるの」
「じゃあ、見せたくなったら」
悠真は強く求めなかった。その余白が心地よかった。
駅の入口に着いた。別れる時が来ると、急に現実の輪郭が戻った。悠真は胸ポケットからスマートフォンを出した。
「連絡先、交換してもいい? 文化祭のパンフレット、今度見つけたら写真送る」
由美は一瞬ためらった。既婚者同士が連絡先を交換すること自体は、何もおかしくない。同級生の連絡先を何人も登録したばかりだ。それでも悠真の名前が自分の毎日に入ってくることには、別の意味があるように感じた。
「うん」
二人は画面を操作した。表示された「斎藤悠真」という四文字が、記憶の中の人物から現在の人へ変わる。
「今日は話せてよかった」
「私も。悠真君が私のこと覚えてて、ちょっと安心した」
「忘れるわけないだろ」
悠真は言ってから、少し照れたように視線を逸らした。
「じゃあ、また」
「また」
由美は改札を通り、振り返った。悠真はまだ入口に立っていた。目が合うと、互いに小さく手を上げた。電車へ乗り込んで席に座るまで、由美の胸は落ち着かなかった。
車内の窓に、青いワンピース姿の自分が映った。来る時より頬が赤く、目が明るかった。罪を犯したわけではない。ただ昔の友人と話しただけだ。それなのに、胸の奥には、家へ持ち帰ってはいけない火種のようなものが灯っていた。
健司から「何時頃?」とメッセージが届いた。由美は「十一時前には着く」と返した。続けて拓也から、カップ麺の写真と「父さん焦がした」という文字が送られてきた。由美は思わず笑い、「帰ったら片づける」と打ちかけ、削除した。「明日、二人で片づけて」と送り直した。
帰宅すると、リビングにはソースの匂いが残っていた。健司は焼きそばを作ろうとして麺を焦がし、結局カップ麺を食べたらしい。流しにはフライパンと二人分の器が置かれていた。
「楽しかった?」
健司が訊いた。
「うん。懐かしかった」
「誰か変わってなかった?」
「みんな変わってたよ。私も含めて」
由美は悠真の名を出さなかった。嘘をついたわけではないのに、言わないという選択が小さな影を落とした。
風呂から上がり、化粧を落とすと、鏡の中にいつもの顔が戻った。ワンピースをハンガーへ掛け、イヤリングを外す。特別な夜は終わり、明日の朝にはまた弁当を作る。
ベッドへ入る直前、スマートフォンが震えた。画面に悠真の名前が表示される。
『今日はありがとう。話せてよかった。無事に帰れた?』
短い文だった。由美はすぐに返さず、暗い部屋で画面を見つめた。隣では健司がもう眠っている。返事をしない理由はない。けれど返せば、今日が終わった後にも二人の時間が続く。
由美は十分ほど迷い、文字を打った。
『こちらこそありがとう。今、家に着きました。悠真君も気をつけて』
送信すると、既読がすぐについた。
『よかった。おやすみ』
『おやすみなさい』
それだけで会話は終わった。由美はスマートフォンを伏せ、目を閉じた。ホテルの照明、悠真の目尻の皺、雨上がりの街灯、忘れるわけないと言った声が、暗闇の中に次々浮かんだ。
翌朝、由美はいつもの時刻にキッチンへ立った。卵焼き器へ油を引き、冷蔵庫から卵を出す。世界は昨日までと同じ形をしていた。それでも、窓から差す朝の光は少し鮮やかに見えた。
スマートフォンは食卓の端に伏せて置いた。何も届いていないとわかっているのに、由美の意識は何度もそこへ向かった。期待している自分を認めたくなくて、弁当箱へ詰めるブロッコリーの向きを必要以上に整えた。
健司が起きてきて、昨日の同窓会の話をもう一度訊いた。由美は恵子の赤いジャケットや、中村が工務店を継いだこと、真理に顔がわからなかったと言われたことを話した。悠真のことは、やはり言えなかった。話せば普通の同級生として存在できるはずなのに、名前を口にした瞬間、自分の声に何かが滲む気がした。
「また集まるのか」
「どうだろう。連絡先は交換したけど」
「たまには行けばいい。家のことは何とかなるから」
昨夜の焦げたフライパンが流しに残っていた。由美は笑いそうになった。
「じゃあ、あれは自分で洗ってね」
「あとでやる」
健司は少し面倒そうに答えたが、由美は手を出さなかった。フライパンは昼まで残り、夕方にはなくなっていた。その小さな事実を、由美は覚えておこうと思った。
昼過ぎ、洗濯物を畳んでいるとスマートフォンが震えた。悠真から、古びたパンフレットの写真が届いた。紫の混じった空の下に校舎が描かれ、右下に小さく「Y・T」と署名がある。紙の端は黄ばんでいたが、色は思ったより鮮やかに残っていた。
『本当に持ってたんだ』
『疑ってたのか。二十五年分、少し色あせたけど』
『捨てないでくれて、ありがとう』
送った後、由美は目頭が熱くなるのを感じた。悠真が紙を残していたことだけではない。自分がかつて何かを作り、それが誰かの手元で時間を越えたことが嬉しかった。
『由美が忘れても、描いたものは残るんだな』
その言葉を読み、由美は本棚の色鉛筆を見た。青い一本が箱から少し飛び出している。自分の中で眠っていたものが、遠いところから名前を呼ばれたようだった。
由美はパンフレットの写真を保存した。削除する理由はなかった。それでも、家族写真とは別の、目立たないフォルダへ移した。その動作が何を意味するのか、考えないようにした。
窓の外では、昨日の雨を吸った街路樹が陽に光っていた。人混みの中で見つけた一つの顔が、由美の日常の景色を変え始めていた。まだ誰も傷つけていない。何も始まっていない。そう言い聞かせながら、由美は悠真から届いた写真を、もう一度開いた。




