第五章 記憶の形見
翌朝、由美はいつもと同じ時刻に目を覚ました。窓の外はまだ暗く、健司の寝息も変わらない。昨夜の一日が夢だったように思えたが、立ち上がるとふくらはぎに砂浜を歩いた疲れが残っていた。
キッチンで卵を割り、味噌汁の出汁を取る。包丁がまな板へ当たる音、湯気、炊飯器を開けた時の米の匂い。毎朝繰り返してきたものが、今朝は一つずつ由美を現実へつなぎ止めた。
スマートフォンを確認しても、悠真からの連絡はない。連絡先は消したのだから、来ないのが当然だった。由美は安堵し、落胆した。相反する感情をどちらも否定せず、食卓の端へ端末を置いた。
健司が起きてきた。
「昨日、疲れた?」
「少し歩きすぎた」
「今日はゆっくりしろよ」
「洗濯があるから」
「午後から雨だって。今から俺が干す」
由美は驚いて健司を見た。
「珍しい」
「昨日、ピザしか食べさせてないからな」
「拓也は喜んでたよ」
健司は照れたように新聞へ目を落とした。由美は、悠真ならこの会話をどう受け取るだろうと考えかけ、やめた。これからは自分で受け取るのだ。健司の言葉が不器用な気遣いなら、そのまま受け取ればいい。
午前中、由美はスケッチブックを開いた。悠真の背中を描いたページを破り捨てようとは思わなかった。かといって、何度も眺めれば記憶へ戻り続ける。透明な封筒へ入れ、机の奥へしまった。隠すためではなく、毎日開かないためだった。
空いたページに、洗濯物を干す健司を描いた。慣れない手つきでシャツの肩をハンガーへ合わせ、靴下を左右ばらばらに留めている。格好よくも、美しくもない姿だった。由美は少し笑いながら線を引いた。
「何描いてるんだ」
ベランダから戻った健司が覗いた。
「洗濯物」
「俺じゃないのか」
「景色の一部」
昨日、悠真へ言ったのと同じ言葉が口から出た。胸が痛んだが、健司は気づかず、「俺、そんなに猫背か」と言った。
「もっとひどいかも」
「直して描いてくれ」
「見たまま描くの」
二人の間に小さな笑いが生まれた。長く一緒に暮らしているのに、健司の姿を描いたのは初めてだった。由美は、彼を見ていなかったのは自分も同じだと知った。
悠真を忘れることはできなかった。仕事中、夕焼けを見た時、面白い言葉を思いついた時、スマートフォンへ手が伸びた。連絡先がないことに気づくたび、胸の奥が空いた。喪失は大きな波ではなく、生活の隙間へ繰り返し入り込む細い水だった。
由美は、そのたびスケッチブックを開いた。言葉にしたかったことを、線や色へ変えた。惣菜売り場の照明、休憩室で笑う美優、雨の日に傘をたたむ客。上手く描こうとせず、見たものを自分の中へ通す。その時間が少しずつ、悠真だけに頼っていた呼吸を自分へ戻した。
一週間後、恵子から電話があった。
「元気?」
「元気だよ」
「悠真とは?」
由美はしばらく黙った。誰にも話さないつもりだったが、全部を一人で美しい思い出にしてしまうのも危険に思えた。
「一日だけ会った。それで終わりにした」
電話の向こうで、恵子が息を吐いた。
「二人で?」
「うん」
「何かあった?」
「何も。手もつながなかった。でも、何もなかったとは言えない」
「由美は、後悔してる?」
「わからない。家族に言えないことをした。それは後悔してる。でも、あの日の自分まで否定したくない」
恵子はすぐに答えなかった。
「私には、よかったとも悪かったとも言えない。ただ、終わりにしたって言葉を、何度でも自分で守って」
「うん」
「悠真を思い出にするのはいい。でも、悠真がいなきゃ生きられない由美には戻らないで」
恵子の言葉は厳しかったが、由美を現実へ立たせてくれた。秘密を共有してもらうことと、秘密を肯定してもらうことは違う。由美は叱られたことに安堵した。
春が近づき、拓也の進学先が決まった。入学用品を買い、制服の採寸へ行き、提出書類を揃えた。由美は忙しさの中で、悠真を思い出さない時間が増えていくことに気づいた。忘れたいわけではないのに、忘れる瞬間があることを寂しく感じた。
拓也の入学式の日、桜はほとんど散っていた。健司も休みを取り、三人で校門の前に立った。拓也は写真を嫌がったが、由美が頼むと一枚だけ真ん中に立った。
「母さん、泣くなよ」
「泣いてない」
「目、赤い」
「花粉」
由美は笑った。息子が新しい制服を着て、自分の知らない場所へ歩いていく。胸に広がった感情を、誰かへ説明しなくてもよかった。自分の中で十分に感じることができた。
帰り道、健司が言った。
「俺たちも歳取ったな」
「私はずっと前から気づいてた」
「俺は今日気づいた」
「遅い」
二人は並んで歩いた。手をつなぐことはなかったが、以前より距離は近かった。
パート先では、美優が大阪へ引っ越す日が決まった。最終出勤日、惣菜部の皆で小さな花束を渡した。美優は泣きながら由美へ抱きついた。
「井上さん、あの時、やってみたらいいって言ってくれたから決められました」
「私は何もしてないよ」
「言葉って、言った人が思うより残るんです」
由美は悠真のことを思った。彼の言葉も残っている。だが、自分の言葉も誰かに残ることがある。受け取るだけの人生ではなかった。
美優が辞めた後、人手不足を理由に石田は由美へ週五日の勤務を頼んだ。以前なら家計を考え、断れずに受けただろう。由美は条件を訊いた。勤務時間、時給、社会保険、担当業務。曖昧なまま善意だけを差し出さないようにした。
「惣菜の発注も任せたい」と石田は言った。
「責任が増えるなら、時給と役割を書面で確認させてください」
声は震えたが、目を逸らさなかった。石田は驚き、店長と相談すると答えた。数日後、由美にはリーダー手当を含む契約が提示された。
帰宅後、由美が健司へ相談すると、彼は書類を丁寧に読んだ。
「由美はどうしたい?」
以前の健司なら、家計や夕飯への影響を先に訊いただろう。その問いだけで、由美はしばらく答えられなかった。
「やってみたい。でも、週に二回は遅くなる」
「その日は俺が何か作る」
「焦げた焼きそば?」
「あれから練習した」
拓也が横から「まだ焦げるけど食える」と言った。
由美は契約を受けた。仕事量は増えたが、任される範囲が明確になると、以前のような徒労感は少なかった。売り場の季節商品を考える会議にも参加し、パッケージの手書き札を任された。
春の弁当フェアの札に、由美は桜の枝を描いた。店長が「これ、印刷じゃないの」と驚き、売り場の目立つ場所へ置いた。客が札の前で足を止めるのを見ると、文化祭の背景画を完成させた時と同じ、小さな充足が胸に戻った。
中村からも連絡が来た。同窓会で冗談にしていた工務店の看板ではなく、顧客へ渡す季節の葉書に絵を使いたいという。
『本当に鉢植えしか描けないよ』
『家と鉢植えでちょうどいい。住む人の生活が見える絵が欲しい』
由美は迷った末、引き受けた。謝礼を受け取るほどの出来ではないと言うと、中村に「仕事にするなら、そこを曖昧にするな」と叱られた。
夜、家族が寝た後に机へ向かった。小さな家の窓辺に鉢植えがあり、カーテンの向こうに人影が見える絵を描いた。何度も描き直し、色を重ねた。完成まで二週間かかった。
中村から届いた葉書の見本には、由美の絵と小さく「Yumi Inoue」の文字が印刷されていた。自分の名前が、妻でも母でもパートでもない形で紙に載っている。由美は指先で何度も文字をなぞった。
悠真へ見せたいと思った。彼が見たら、きっと「言った通りだ」と笑う。スマートフォンの連絡先を探しかけ、手を止めた。この喜びを彼へ届けなくても、価値は減らない。由美は葉書を食卓へ置いた。
「これ、母さんが描いたの?」
拓也が一番に気づいた。
「うん。知り合いの工務店から頼まれた」
「ちゃんと仕事じゃん」
「一回だけだけどね」
「一回やったら、仕事したって言うんだろ」
同窓会前の恵子と同じことを言われ、由美は笑った。
健司は葉書を長く眺めた。
「俺、由美がこういう絵を描くって知らなかった」
「昔は描いてたよ」
「聞いたことあったかな」
「話してなかったかも」
二人は、どちらが悪いとも言わなかった。知らなかった年月を責めるより、今から知る方がよいと思えた。
梅雨に入り、雨の日が続いた。由美は雨を見るたび、糸島の砂浜と悠真の背中を思い出した。記憶はまだ鮮やかだったが、最初の頃のように胸を切り裂くことはなくなった。大切なものは、常に触れていなくても失われないとわかり始めた。
ある日、スーパーの売り場で悠真によく似た後ろ姿を見た。紺色のシャツ、少し丸い肩。由美の足は止まり、心臓が速く打った。男が振り返る前に、由美は作業場へ戻った。本人だったのか、別人だったのかはわからない。
確かめたい気持ちはあった。もし悠真なら、元気かどうか一言だけ訊きたかった。けれど、一言で終わらないことを知っていた。終わりを守るとは、気持ちが消えることではなく、気持ちがあるまま選び続けることだった。
その夜、由美は悠真の背中を描いたページを久しぶりに開いた。線は何も変わっていない。だが、それを見る自分が変わっていた。
「ありがとう」
誰にも聞こえない声で言った。悠真へだけではない。あの日の自分へ、怖がりながらも一日を選んだ自分へ。そして翌日から家族の中で生き直すことを選んだ自分へ。
由美はページを閉じた。今度は奥へしまわず、ほかのスケッチと同じ棚へ戻した。特別な記憶を、人生から切り離された祭壇に置くのをやめた。
夏の初め、健司が珍しく有給を取り、由美を昼食へ誘った。拓也は友人と出かけ、二人だけの休日だった。
「どこか行きたいところある?」
「急に言われても」
「昔は地図を見て、すぐ決めてただろ」
「昔の話」
「じゃあ、今から決めればいい」
その言葉が悠真のものと重なり、由美は一瞬黙った。健司は不思議そうに見た。
「大濠公園の近くに、新しい美術館の展示が来てる」
「絵か。俺、わからないぞ」
「わからなくてもいいよ」
二人は電車で出かけた。展示室で健司は説明文を一つずつ読み、由美は絵の前に長く立った。感想はほとんど一致しなかった。それでも、違うものを見た二人が、帰りの喫茶店で違うまま話すことができた。
「由美は、あの暗い海の絵が好きなんだな」
「暗いんじゃなくて、光が少ないから見える色があるの」
「俺には真っ黒に見えた」
「それでもいい」
健司はコーヒーを飲み、「また何かあったら教えて」と言った。大きな愛の言葉ではない。けれど由美には、閉じていた扉の隙間から差す光のように聞こえた。
夫婦の関係が劇的に変わったわけではなかった。健司は相変わらず連絡を忘れ、由美は相変わらず先回りして苛立った。言い争いもした。冷たい沈黙が二日続くこともあった。ただ、以前と違い、由美は沈黙を永遠にしなかった。
「私は今、怒ってる」と言った。「何に?」と訊かれれば、できるだけ具体的に答えた。健司も時々、「仕事のことで余裕がない」と言うようになった。互いを完全に理解するのではなく、わからないことをそのままにしない練習を続けた。
拓也も高校生活の中で変わった。部活で帰りが遅くなり、夕飯を自分で温めるようになった。弁当箱を流しへ出すことすら忘れていた息子が、日曜には卵焼きを作ってみたいと言った。
「彼女でもできた?」
「違うし。母さん、すぐそういうこと言うのやめて」
拓也の卵焼きは形が崩れ、味が濃かった。それでも由美は「おいしい」と言った。
「嘘つけ」
「最初はみんなこんなもの」
「母さんはいつから作ってるの」
「あなたが幼稚園の頃かな」
「じゃあ、十二年分の差か」
拓也はもう一度挑戦した。由美は手を出さず、横で見た。卵焼き器を持つ息子の手は、自分より大きかった。
秋、同窓会から一年を迎える頃、恵子からまた集まろうと連絡が来た。グループの参加者一覧に悠真の名もあった。由美は画面を見つめた。会いたい気持ちは消えていない。一年を経た自分を見てほしい。絵の仕事をしたことを話したい。彼が小さな家を設計したか知りたい。
由美は欠席を選んだ。逃げるためではなく、約束を守るためだった。
『今回は家の予定があるから。また誘って』
そう送ると、恵子から『了解』とだけ返った。理由を知っている友人の短い返事がありがたかった。
その日は本当に家の予定を作った。健司と拓也を誘い、三人で糸島とは反対側の海へ出かけた。拓也は面倒そうにしながらもついてきた。砂浜で三人の写真を撮り、食堂で魚を食べた。
海の色も、風の匂いも、悠真と見た日とは違った。比べないつもりでも記憶は重なった。由美はどちらも自分の人生だと思った。一つは誰にも言えない晴れの日。もう一つは、言葉にして分け合える曇りの日。晴れだけが幸福ではなかった。
「母さん、描かないの」
拓也が訊いた。
「今日は目で見る」
「いつも描いてるじゃん」
「描かない日もあるの」
健司がスマートフォンで海を撮り、「じゃあ俺が残しとく」と言った。写真は少し傾いていたが、由美は直させなかった。
帰宅後、三人で撮った写真を印刷し、リビングの棚へ置いた。悠真との写真は一枚もない。だからといって、あの日が薄くなるわけではない。目に見える記録と、見えない記憶は、それぞれ別の役割を持っていた。
冬が来る前、中村から二度目の依頼があった。今度は工務店の小冊子の表紙だった。由美は週末ごとに案を描き、窓の明かりが雨上がりの道へ映る絵を完成させた。
表紙の下には、正式に「イラスト 井上由美」と入った。冊子を受け取った夜、由美は一人でコーヒーを淹れ、食卓に座った。健司と拓也はそれぞれ自分の部屋にいた。誰かへ報告しなくても、静かな喜びが胸の中に満ちた。
その小冊子を見た昌子が、市民センターの絵画教室を教えてくれた。月に二回、平日の夜に開かれているという。
「井上さん、行ってみたら。先生が上手い人ばっかり褒めるような教室じゃないから」
「平日の夜は、夕飯が」
言いかけて、由美は止まった。家族はもう、由美が一晩いなければ食事に困る年齢ではない。それでも、自分の予定を入れる前に家族の都合を理由にする癖が残っていた。
「何曜日?」
「第二と第四の木曜。見学だけでも」
由美は申込用紙を持ち帰った。食卓へ置き、健司と拓也に話した。
「月二回なら、いいんじゃないか」
健司はあっさり言った。
「その日は夕飯、どうする?」
「俺と拓也で交代する」
「俺も入ってんの?」
拓也が顔を上げた。
「卵焼き作れるんだから、何かできるだろ」
「あれしか作れない」
「じゃあ毎回、卵焼き定食」
「嫌だよ」
二人が言い合うのを見ながら、由美は笑った。以前なら、自分がいない日の献立を作り置きし、温め方を書き、出かける前から疲れていただろう。今回は任せると決めた。
初めての教室の日、由美は仕事から直接市民センターへ向かった。美術室には十人ほどが集まっていた。最年少は三十代、最年長は八十歳を超えている。会社員、介護職、専業主婦、退職した教師。皆、描いている間だけ肩書きを置き、紙に向かっていた。
講師の小野は、由美のスケッチを一枚ずつ見た。
「線を消さないんですね」
「面倒なだけです」
「迷った跡が残るのは悪くありません。絵を見る人は、完成した形だけじゃなく、そこへ行くまでの時間も見ます」
悠真に言われた「それも由美の線だ」という言葉が重なった。胸が痛んだが、同時に、自分の線を見つける人が悠真だけではないことに救われた。
その日の課題は、自分の手を描くことだった。由美は左手を机へ置き、節の太くなった指、火傷の薄い跡、爪の形を見つめた。毎日見ているはずなのに、描こうとすると知らない風景のようだった。
この手で弁当を作り、拓也を抱き、父の病室で手を握った。健司のシャツへアイロンをかけ、惣菜を揚げ、悠真へのメッセージを打ち、連絡先を消した。自分の人生は、抽象的な年月ではなく、この手に積み重なっていた。
帰宅すると、台所に野菜炒めの匂いが漂っていた。健司が作り、拓也が味噌汁を温めたらしい。野菜は大きさがばらばらで、味噌汁は少し煮詰まっていた。
「どうだった?」
健司が訊いた。
「手を描いた」
「二時間かけて?」
「二時間見ても、描ききれなかった」
「絵って大変だな」
由美は、自分の皿が用意されている食卓へ座った。誰かが作った夕飯を、直さず、評価せず食べた。「おいしい」と言うと、拓也が「味付けは俺」と得意そうにした。
教室へ通い始めて三か月後、小さな作品展が開かれた。由美は「雨の窓辺」と題した絵を出した。窓ガラスを流れる雨の向こうに、ぼんやりと家々の明かりが見える。描き始めた時は糸島の晴れを思い浮かべていたが、完成した絵には雨しかなかった。
展示初日、健司と拓也が見に来た。拓也は絵の前で腕を組み、しばらく黙っていた。
「母さんの絵、暗いな」
「お父さんも前に同じこと言った」
「でも、嫌いじゃない。窓の向こうが暖かそう」
由美は息子の横顔を見た。自分が描いたものから、自分の意図とは違うものを受け取る人がいる。絵は完成した瞬間から、描いた人だけのものではなくなる。そのことが嬉しかった。
健司は来場者名簿へ、丁寧な字で名前を書いた。
「家に飾らないのか」
「展示が終わったら」
「リビングの時計の下、空いてるぞ」
そこには以前、家族の予定を書いた大きなカレンダーが掛かっていた。今は各自がスマートフォンで予定を管理するようになり、壁だけが白く残っている。
「暗い絵だよ」
「窓の向こうは明るいんだろ」
健司は拓也の言葉を借りた。由美は笑い、「じゃあ、そこにしよう」と答えた。
同じ頃、健司の会社で部署の統合が決まった。二十年以上いた部署がなくなり、健司は慣れない営業企画へ異動した。帰宅が遅くなり、食卓でほとんど話さない日が増えた。
以前の由美なら、機嫌を損ねないよう黙って夕飯を出し、何も訊かなかっただろう。悠真へ健司への不満を送っていたかもしれない。今は、皿を片づけた後で言った。
「仕事、つらい?」
「別に」
「別に、って顔じゃない」
「話しても仕方ない」
「仕方なくても、聞くよ。結論がなくても」
健司は由美を見た。その言い方が誰かから受け取ったものだとは知らない。由美自身も、もう悠真だけの言葉とは思わなかった。自分の中で咀嚼し、選び直した言葉だった。
健司は少しずつ話した。年下の上司に経験を否定されたように感じること。パソコンの新しい仕組みについていけず、部下へ訊くのが恥ずかしいこと。家族を支えるはずの自分が、会社では不要になりかけている気がすること。
「俺、会社辞めたら何もないな」
「私も前は、妻と母を取ったら何もないと思ってた」
「今は?」
「取らなくていいってわかった。妻でも母でも、絵を描く私でもある。健司も、会社員を取って空っぽになるわけじゃない」
「じゃあ何が残る?」
「私にはわからない。自分で探して」
由美が言うと、健司は苦笑した。
「優しいのか冷たいのかわからないな」
「全部やってあげるのは、優しさじゃないって覚えたの」
健司は異動先で、若い社員に操作を教えてもらうようになった。代わりに、長年の顧客との交渉の仕方を伝えた。数か月後、「役に立たないわけじゃなかった」と、照れくさそうに由美へ報告した。
夫の立ち直りを自分の手柄だとは思わなかった。話を聞いたから救えたわけでもない。健司が自分で助けを求め、仕事の仕方を変えたのだ。由美と悠真の関係も、本当は同じだったのだろう。悠真が由美を救ったのではない。由美が、受け取った言葉を使って自分を助けた。
翌春、母が検査入院することになった。大きな病気ではなかったが、一週間の入院と、その後しばらくの通院が必要だった。由美は仕事のシフト、病院、実家の片づけを一人で抱えそうになった。
「私が佐賀へ行くよ」と言う恵子に、「大丈夫」と答えかけ、言い直した。
「土曜日だけ、お願いしてもいい?」
「最初からそう言えばいいの」
健司も一日休みを取り、母の病院へ付き添った。拓也は実家の庭の草取りをした。近所の人にも、買い物を頼んだ。由美が全員の穴を埋めるのではなく、複数の手で母の生活を支えた。
退院の日、母は刺繍の赤い花を完成させていた。半分から先は、昔と少し色が違う。新しい糸の方が明るく、境目ははっきり見えた。
「同じ赤がなかったけん、変になった」
「同じじゃない方がいいよ。続きをいつ作ったかわかるから」
由美は額に入れることを勧めた。母は「下手やけん」と嫌がったが、最後には頷いた。
「由美の絵の横にでも飾って」
「これはお母さんの家に飾るの。自分で見て」
実家の居間に、赤い花の刺繍が掛かった。四十年以上の空白は消えない。古い糸と新しい糸の境も隠せない。それでも、途中だったものを完成させることはできた。
母の家から帰る電車で、由美は窓に流れる雨を見た。悠真と出会わなければ、こうした変化はなかったのかもしれない。けれど、悠真と連絡を取り続けていたら、別の何かを失っていたかもしれない。人生は、選ばなかった結果を確かめることができない。
由美は「もし」を数える代わりに、今あるものを見た。膝には母からもらった刺繍糸の箱がある。スマートフォンには、健司から「駅まで迎えに行く」と届いている。鞄には次の作品のためのスケッチブックが入っている。
最寄り駅へ着くと、健司が改札の外で待っていた。傘を二本持っている。
「一つでいいのに」
「二人で入ると濡れるだろ」
「昔は相合い傘したのに」
「昔より二人とも幅が増えた」
由美は笑った。二本の傘を並べ、雨の道を歩いた。肩は触れない。それでも、同じ家へ向かう足音がそろっていた。
帰宅すると、リビングの時計の下に由美の絵が掛かっていた。作品展から戻ったまま床に立てかけてあったものを、拓也が取りつけたらしい。少し右に傾いている。
「水平器、使った?」
「そんなの家にないだろ」
「お父さんの工具箱にあるよ」
「先に言ってよ」
拓也は椅子へ上がり、健司が下から角度を指示した。右、行きすぎ、少し左。二人の声を聞きながら、由美は台所で湯を沸かした。自分が直した方が早い。それでも手を出さず、三人分のコーヒーと、拓也にはココアを用意した。
絵がようやくまっすぐになると、拓也が椅子を降りた。
「これ、雨なのに、見てると落ち着く」
「自分の家で見ると、また違うね」
由美は答えた。展示室では作品として見ていた絵が、今は家族の生活の一部になっている。時計の針が進み、テレビの音が重なり、夕飯の匂いが染みついていく。絵は完成しても、置かれた場所で新しい時間を重ねるのだろう。
健司がマグカップを持ち、絵の前へ立った。
「次は晴れた絵を描くのか」
「まだ決めてない」
「海とか」
由美の手が一瞬止まった。健司は何も知らず、窓の明かりを見ている。
「海も、いつか描くかもしれない。でも次は、この部屋がいい」
「散らかってるぞ」
「散らかってるところも描く」
「片づけてからにして」
拓也が笑った。由美も健司も笑った。笑い声の中で、胸の奥の海は静かなままだった。忘れたのではない。隠して息を止めるのでもない。ただ、今の生活と同じ身体の中に置いておけるようになった。
由美は新しいスケッチブックを開き、時計の下の絵と、その前に立つ二人の後ろ姿を描き始めた。一本目の線は少し曲がった。消さずに、その隣へ次の線を重ねた。
数日後の夕方、窓の外で雨が降り始めた。街灯に照らされた雨粒が、斜めの線となって落ちている。かつての由美にとって、雨は繰り返される日々の重さだった。晴れは、そこから逃れられる特別な一日だった。
今も日々は軽くない。朝は早く、仕事で理不尽なこともある。健司と話が通じず、拓也の態度に腹を立てる。母の通院にも付き添うようになり、自由な時間は思ったほど増えなかった。
それでも由美は、雨の中に色があることを知っていた。濡れた道路に映る赤い信号、傘の縁から落ちる透明な粒、曇った窓を指でなぞった線。晴れを待たなければ描けないわけではない。
由美はスケッチブックを持って窓辺へ座った。雨の向こうに、糸島で悠真と見上げた青空が浮かんだ。あの日は、自分の人生を救った奇跡ではない。悠真がいなければ何も変えられなかったわけでもない。ただ、自分の輪郭を思い出すきっかけをくれた一日だった。
悠真は今、どこで何をしているだろう。理沙と話しているかもしれない。図面へ線を引いているかもしれない。いつか小さな家を設計しているかもしれない。由美は知らない。知らないままでいることを選んだ。
紙の上に、雨の線を引いた。一本、二本、何本も。灰色だけではなく、青、紫、薄い緑を重ねた。窓の向こうの景色が、紙の中で少しずつ形になる。
背後で玄関の開く音がした。
「ただいま」
健司の声だった。
「おかえり」
由美は振り返って答えた。自然に出たその声を、自分で聞いた。
「雨、ひどかった?」
「駅から走った。何描いてる?」
「雨」
「晴れた絵より難しそうだな」
「うん。でも、悪くないよ」
健司は濡れた鞄を拭き、由美の後ろから絵を覗いた。二人の間に、まだ言葉にならない時間が流れた。昔のような情熱ではない。失われた年月が戻るわけでもない。それでも、今ここから話せることはある。
由美は再び窓へ向いた。雨は絶え間なく降っている。その向こう側にある晴れ間を、彼女は確かに知っていた。けれど、もう晴れだけを心の支えにしなくてもよかった。
一日だけの晴れ。その記憶は、誰にも渡さない形見として胸にある。そして一生分に思えた雨の日々もまた、由美自身の時間だった。
彼女は色鉛筆を持ち替え、雨の間に小さな光を描き足した。誰のためでもない、自分が見つけた光だった。




