ドレスの刺繍(後編)
グリーデの刺繍の様子は、流れるようで美しい。突っかかったり間違えることが少ないので見ていて安心できるし、レースに模様が刻まれる瞬間はやはり魅力的なのだ。
レース布と針の色も関係あるだろう。私の少し黒ずんだ骨の太い針ではなく、精巧に細工された銀色の細い針と白いレース布は、銀の雪景色を連想させるような色合いだ。
「エウイル、手を洗ってきていいかしら?」
「急にどうして?」
グリーデが針を置いて立ち上がった。何のことか分からない私にグリーデは答えをくれる。
「指の汚れをレースが吸って黄ばんだりするの。こまめに洗わなきゃいけないから水桶も要るのだけれど……そうだ、私が指を洗っている間に小さいのでいいから水桶を取ってきてくれないかしら? 側にあるとそれ以上動かないで済んで楽なの」
「私は見学しているだけで、雑用じゃないんだけど」
「あら、じゃあエウイルは自分の作業に戻ってもらおうかしら」
それはまずい、縫い終わりの瞬間まで私は見届けなければならないのだ。私は、グリーデの雑用係になることに決めた。副工房長に、レース刺繍の人が汚れを落とすための水を汲む場所、桶の在りかを聞きに行く。
「レースの刺繍って大変なのね……」
水を汲んでいると、そう私の口から自然に零れた。今までしていた縫い方や布の気遣い方とは全く違う。少しでも以前の癖が出てしまえば、レース布が無駄になってしまうかもしれない。本当に私はレースの刺繍が出来るようになるのだろうか。
そう不安になって頭を振っているのを見たのは、きっと同じ理由で、けれどしっかり自分で水を汲みに来たドルテだった。
ドルテもまたグリーデのように、工房員ではない見習いだけれどレースの刺繍を任されているのだろう。
「どうしたのエウイル、喉でも乾いた?」
「レース刺繍をしているグリーデが『水桶が近くにあったら便利だから持ってきて』って言うから、私が代わりに汲みにきたの。私は雑用係じゃないけれど、レースの刺繍の様子を見るためなら……」
私はグッと胸の前でこぶしを握ってドルテの目を見る。
「何でもする、してみせる。でしょ?」
私の声とドルテの声とが重なった。お決まりの言葉はしっかり認知されているようである。ドルテも私の刺繍愛を知っているし、グリーデよりずっと大人しいのでドルテの刺繍を見させてもらった方が良かったかも知れない。そんなことを考えながら、私はまたグリーデの持ち場に戻った。
「ありがとうね、エウイル。それじゃあ刺繍を再開するけれど――」
「皆さん、お仕事中良いですか?」
工房長室から出てきた工房長のカルダが何度か手を鳴らしながら、ここにいる皆に話しかけた。カルダが工房長室から出てくることはほとんど無いのだが、何のことだろう。
「実は今回の刺繍の注文をしたのは私なのです。見習いの皆さんにも無理強いをしてしまったことを謝ります。ですから、今日はその償いも兼ねて少し皆で間食を取りませんか? 私の自費でお菓子を買ってきたのです」
カルダの言葉が終わった瞬間、工房員たちのいる場所ではなく、基礎の練習をしていた、まだ一桁くらいの年齢の小さい見習いたちのいるところから歓声が聞こえた。それから、グリーデからも。お菓子なんていつでも食べられるものではない。それを全員に配ることが出来る財力を、私には今まで想像できたためしが無かった。
一年に一度針屋に並ぶかどうかの鋼の針を奮発して買えるグリーデなら、数日に一度くらいはお菓子を食べているかもしれない。
「では、大テーブルに集まっていただけますか?」
カルダの言葉を皮切りに、刺繍をしていた人たちが途中で切り上げ、大テーブルへ向かいだす。私はグリーデの手元を見たが、特にレースの刺繍も中断するときの方法は変わらないようで、裏へ糸を通した後に針から糸を抜いた。
「エウイル、早く食べに行こう。工房長の用意するお菓子なら、きっと年に一度くらいの高級品に決まっているもの!」
普通は年に一度もお菓子なんて食べられないよ。そう、喉まで出かかった言葉は心のうちに留めておいた。
少し欠けた月のような形の大テーブルに、工房員と見習いが集まる。たまにこうして全員で集まることがあるけれど、私が初めにこうして集まったときよりずっと人数が減っている。
「お菓子は、ナッツとベリージャムのサンドクッキーです。秋によく採れたものを使ったそうですよ。一人、一つずつですからね? 個人に言っているわけではありません。全員に当てはまることですから……」
カルダはそう言いながらも特にグリーデの目を見ながら、大テーブルに座る人たちにクッキーを配り始めた。ここからでも分かる、黄土色のクッキー生地と挟まれた赤いベリーのジャム。甘いベリーは沢山は取れないので高級品だし、酸味の強いものを代用していたとしても、砂糖をふんだんに使っているのは間違いない。
「エウイル、クッキーですって? 私、クッキーは最近食べていなかったから丁度良いわ。もうすぐ成人のペッティナに感謝しかないわね」
「そこは工房長に感謝しなさいよ!」
グリーデの少しずれた感謝の方向を正しながら、私はカルダからお菓子を受け取る。渡された人からクッキーを齧っているのを確認して、私も一口頬張った。
ザク、と音がしてクッキーが欠ける。それからすぐに、少し粘度のあるベリーのジャムが流れ込んできた。ナッツの香ばしさとジャムの少し控え目な甘さが相まって、私の家でもたまに食べられるクッキーとは同じと思えないような錯覚が起きる。いや、錯覚ではないのだろう。
「うわぁ、これは美味しいわね。ベリーではなくて砂糖の甘みだから、これもかなりの大金がかかっているのに……ナッツの食感も良いし、あとで工房長にどこで作ってもらったかを聞いて私も注文しようかしら」
ベリーの甘みと砂糖の甘み? 私も注文? グリーデの言葉は気になるところが多い、多すぎるのだが、今日はもう無理に言葉を挟まなくていいだろうか。私は目を閉じて、久しぶりの甘味に思う存分浸っていた。
ドレスの刺繍、後編です。
前後編に分ける事にはしたのですが、更新頻度は二日に一回程度に収まりそうです。
今回はほとんどお菓子の話です。食事の描写は苦手なのですが、スムーズに読んでいただけそうでしょうか。
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