単位も空間も把握してる
誤解のないように言っておくが、俺は大学四年生である。つまり、卒業という実績が未解除のまま残っている。
木曜三限、社会経済学のゼミ。俺は最後列の席で、堂々と眠っていた。
いや、正確に言おう。眠っている俺を、誰も認識できない状態で眠っていた。認識阻害を薄くかけると、人は俺を「視界には入っているが、意識に上らない存在」として処理する。教授が出席を取るときだけ阻害を解いて返事をし、また消える。出席率、百パーセント。授業を聞いた記憶、ゼロパーセント。
「九条ぉ、おまえ毎回いるのに、毎回いた記憶がないんだよなあ……」
ゼミ仲間の田辺が首をかしげていたが、人間の記憶なんてそんなものだ。気にするな。
卒論はどうしているかというと、これが我ながら傑作だった。
テーマは『公営競技と宝くじにおける控除率の比較研究——プレイヤー側の期待値の実証的考察』。
……ん? と思った読者は鋭い。そう、全部実体験である。スクラッチ七百枚の透視データ、パチンコ十四日間の実測回転数、競馬場でのオッズ観察。俺の稼ぎの副産物を、そのまま学術っぽく整形しただけだ。指導教授の反応はこうだった。
「九条くん、この一次データの量は何なんだ……院に来ないか?」
来ません。学問はコスパが悪い。
金曜の午後は、俺の定例行事だ。四時限目をサボり——もとい、認識阻害で出席処理だけ済ませ——大学の屋上から離陸する。
高度千二百メートル。雲の切れ間。眼下に関東平野が広がり、前方には富士。時速百キロの巡航で、俺は今日も日帰り温泉へ向かう。行き先は箱根だったり草津だったり、気分次第だ。交通費、ゼロ円。所要時間、三十分。世の社会人が金曜の夜に高速の渋滞へ吸い込まれていく、その頭上を、俺はタオル一枚持って追い越していく。
露天風呂に浸かりながら、俺はしみじみと思う。
平日昼の温泉は、空いている。湯がいい。飯がうまい。そして周囲の客は、リタイアした悠々自適の老人ばかりだ。
「兄ちゃん、若いのに平日から温泉かい。いい身分だねえ」
「はい。いい身分なんです」
謙遜はしない。事実だからだ。爺さんは豪快に笑って、俺に瓶の炭酸ジュースを奢ってくれた。個人からは盗らないが、善意は遠慮なく受け取る。それが俺だ。
湯上がり、休憩所の畳に転がってニュースを眺める。就活情報のコーナーで、リクルートスーツの学生たちが「面接で緊張しないコツ」を語っていた。
二ヶ月前まで、俺もあっち側にいた。お祈りメールに一喜一憂し、「御社が第一志望です」を七社に言った。
今の俺は、湯上がりの畳で、風に吹かれている。
「……人生って、舐めていいものだったんだな」
二十二年間、真顔で努力しかしてこなかった男の、これが率直な感想である。もちろん、この舐めた人生は十三年分の前払いで買ったものだ。だから俺は堂々と舐める。利子までしっかり回収する。
ただし、金の管理だけは舐めない。帰宅後、俺はノートに今月の収支を記帳した。
収入:パチンコ収益 五十一万円
支出:家賃・生活費 十二万円、温泉・飯・書籍 八万円
残高:九十四万円
もうすぐ百万。だが目標は一千万。パチンコの月収ペースでは、卒業に間に合うか微妙なライン——つまりそろそろ、マカオ渡航の具体的な計画に入る時期だ。
俺はパスポート申請書をダウンロードしながら、ふと気づいた。
証明写真、五年ぶりに撮るな。前回は高校の生徒手帳用。あの頃の俺はまだ、消しゴムを三センチ動かすのがやっとの、無名の修行僧だった。
「見てろよ、あの頃の俺。おまえの一万四千時間、今から利確するからな」
翌日、俺は区役所への道すがら、ファミレスで優雅に昼飯を食っていた。
そこで、声をかけられたのだ。
「——九条くん、だよね?」
顔を上げると、見覚えのある女が立っていた。
東和精機の内定者懇親会で会った、あの、妙に勘のいい女子だった。




