保険の解約手続き
「——ですので、内定を辞退させていただきたく、ご連絡いたしました」
翌日の午前十時。俺は自室で、保険会社……ではなく、内定先の中堅メーカー・東和精機の人事部に電話をかけていた。
電話口の人事担当・野村さんは、三秒黙った。
『……九条くん、理由を聞いてもいいかな。他社さんに決めた?』
「いえ、就職自体をやめました」
『……ん? 大学院に進むってこと?』
「いえ、進学もしません」
『…………家業を継ぐとか?』
「いえ、実家は普通のサラリーマン家庭です」
『じゃあ君、卒業したらどうするの!?』
もっともな叫びだった。俺は少し考えて、嘘にならない範囲で答えた。
「手に職がありまして。個人事業主として、その、……資産運用系の仕事を」
『投資!? 九条くん、それ一番危ないやつだよ! いいかい、大学出たての若者が投資で食べていけるほど世の中甘くない! 相場ってのはね、プロが鎬を削る世界で——』
野村さんの説教は十五分続いた。いい人なのだ、この人は。面接のときから、俺のスプーン曲げの話を唯一「継続力は財産だよ」と評価してくれた人でもある。
だから俺は最後まで聞いて、深く頭を下げた。電話越しに頭を下げても意味はないのだが、まあ、気持ちの問題だ。
「ご忠告、ありがとうございます。それでも、辞退します」
『……はぁ。分かった。若いんだから、ダメだったらやり直せばいい。……あ、そうだ、九条くん。同期になるはずだった子たちには、私から伝えておくけど』
「お願いします」
内定者懇親会で名刺代わりの連絡先を交換した数人の顔が浮かんだ。特に、懇親会の帰りに「九条くんの特技、手品じゃなくて本物だったら面白いのにね」と笑った、妙に勘のいい女子が一人いたが——まあ、もう会うこともないだろう。
電話を切って、俺はベッドに倒れ込んだ。
「……よし。保険、解約完了」
浮き輪は捨てた。ここからは泳ぐしかない。ということで、現状の戦力を確認する。
俺は通帳アプリを開いた。
残高、十七万四千二百二十円。
内訳は、バイト代の残りとお年玉貯金の成れの果てだ。家賃四万五千円のボロアパート、卒業まで約十ヶ月。生活費を月八万に切り詰めても、二ヶ月ちょっとで枯渇する。
しかも忘れてはならない。昨日、スクラッチに四千六百円を献上したばかりだ。神の能力者の初陣、堂々の赤字である。
「……戦略を立てよう」
俺はノートを開いた。十三年間、練習記録をつけ続けたノートの最新巻。その新しいページに、でかでかと書く。
目標:卒業までに種銭一千万円
一千万あれば、海外に出られる。カジノの、それもハイレートのテーブルに座れる。俺の能力は、賭け金が大きいほど輝く。逆に言えば、種銭がないうちは、神の力もしょぼい額しか生まない。昨日のスクラッチで痛感した真理だ。
では、十七万円を一千万円にする、最初の一手は何か。
条件を書き出す。
一、初期費用が小さいこと。
二、胴元から盗れること。個人からは盗らない。
三、現在進行形の物理現象が絡むこと。印刷済みのくじのような「確定した過去」は、俺には動かせない。
ペン先が、ぴたりと止まった。
物理現象。銀色の玉が、盤面を、釘に弾かれながら落ちていく——。
「……パチンコか」
玉の軌道は、今まさに転がっている物理だ。空間ごと掴めば、誘導できる。しかも相手は店、つまり胴元。ルール適合。
俺はノートを閉じ、立ち上がった。財布に軍資金一万円を入れる。
「行くか。人生初パチンコ」
二十二年間、ゲームセンターのコイン落としすらやったことのない男の、換金人生が始まる。
……この時の俺は、まだ知らなかった。
パチンコという娯楽の中に、俺の空間掌握が絶対に手出しできない領域があることを。




