実家という最終面接
日本は、静かだった。
成田から都心へ向かう電車の、この整然とした無音。マカオの雑踏に慣れた耳には、ほとんど不気味ですらある。吊り広告は転職サイト、車内アナウンスは英語付き、乗客は全員スマホ。ああ、帰ってきたな、と思った。
帰国して三日目、俺は避けられない案件と向き合った。
実家である。
夏の終わりの日曜、二駅先の実家に顔を出すと、母親は開口一番こう言った。
「蓮、あんた、就職やめたって本当なの!?」
情報が早い。ソースは十中八九、東和精機の野村さん経由の、内定者の親向け連絡網だろう。おのれ社会、網の目が細かい。
「本当。個人で、投資と海洋関連の事業をやる」
「投資ぃ!? あんた、お母さんは言ったからね、投資だけはダメって! 隣の佐藤さんの息子さんもFXで大変なことに——で、いくら溶かしたの? 正直に言いなさい。いくら残ってるの」
「……七千万ちょっと」
「あらやだ、七千円!?」
「七千万」
母親は、味噌汁をよそう手を止めて、俺を三秒見て、それから、父親を呼んだ。「お父さん! 蓮が変なこと言ってる!」。新聞から顔を上げた父親に、俺はもう一度、通帳アプリの画面ごと説明した。両親は画面を見て、俺を見て、また画面を見た。
「……蓮。お前、悪いことしてないか」
「してない。あー……大部分は、海外のカジノで勝った。合法だし、税金もこれから払う。二千万くらい」
「カジノ!?」「税金二千万!?」
二人の悲鳴が重なった。それから母親は、意外なことを言った。
「……あんた、スプーンのあれ、まだ続けてたの」
「え」
「小学生の頃から、毎日毎日、部屋で三時間。お母さん、正直、ずーっと心配してたのよ。この子は何か一つのことしかできない子なんだって。……それが、あんた、その顔」
母親は、味噌汁をよそいながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「何か一つを、やり切った人の顔してるわ。カジノは二度と行くな。税金はちゃんと払え。ご飯は食べていきなさい」
親というのは、監視カメラより解像度が高い。俺は黙って、実家の味噌汁を飲んだ。マカオの雲呑麺より、しょっぱくて、うまかった。
週明け。今度は楓の番だった。彼女は俺の(まだ存在しない)事務所——つまり俺のボロアパート——から、東和精機の野村さんに辞退の電話を入れた。スピーカーにしろとは言っていないのに、スピーカーだった。共有される俺の身にもなってほしい。
『に、二宮さんまで!? 嘘だろう!? 今年の内定者、質が良いって役員会で自慢したのに! り、理由は? まさか君も投資——』
「あ、いえ。投資してる人の、経理です」
『経理!? ……ちょっと待て。二宮さん、君、まさかとは思うが、その投資してる人というのは——九条くんじゃないだろうね!?』
楓が、俺を見た。俺は首を横に振った。全力で振った。楓は、にっこり笑って、言った。
「はい、九条くんです」
おい。
『く、九条ぉぉぉ!! やっぱりか! 君はうちの内定者を何だと思って——いや待て、落ち着け私。……九条くん、聞こえてるんだろう。一つだけ言わせてくれ。二宮さんに、ちゃんと給料を払えるのか。社会保険は。雇用契約書は。彼女の人生を預かる覚悟が、君にあるのか』
説教の矛先が、辞退の引き止めから、いつの間にか労務管理の指導に変わっていた。この人は、本当に、いい人なのだ。
「野村さん。月四十万と決算賞与、社保完備、契約書は行政書士に依頼済みです。……それと、うちの会社が大きくなったら、空調とか設備とか、御社から買います。東和精機、精密機器だけじゃなくて産業設備もやってるでしょう」
『……っ、く、口のうまい奴め……! 分かった、もう何も言わん! 二宮さんを頼んだぞ! あと見積もりの話は本気にするからな!』
電話が切れたあと、楓はしばらく笑っていた。
「いい会社だったんだけどね、東和精機。……ま、こっちのほうが面白いから」
「その台詞、五年後にも言わせてやるよ。——さて」
俺はノートを開いた。新しいページに、でかでかと書く。
次の目標:法人設立。事業は三本柱——投資、サルベージ、そして「視える」ことを金に変える何か。
カジノ編は終わった。ここからは、盤面が世界になる。




