出国審査
マカオ滞在、最終週。俺の総資産は七千二百万円になっていた。
VIPでの最後の数週は、意識して勝ちを緩めた。沙と手打ちし、黄さんと奇妙な貸し借りができた今、この街で稼ぎ切る必要はもうない。ここは種銭を作る場所で、使う場所は、この先にある。
問題は、その七千二百万を、どう日本へ運ぶかだった。
「はい、というわけで帰国資金計画の説明しまーす」
安宿の部屋で、楓がノートPCを開いた。ホワイトボード代わりの紙には、彼女の綺麗な字で矢印と数字が並んでいる。
「まず大原則。現金の密輸はしない。百万円相当を超える現金の持ち出し・持ち込みは、マカオでも日本でも申告制。九条くんの認識阻害なら税関はすり抜けられるんだろうけど——」
「やらない。書類の裏をかくのは、俺の管轄外だ」
「よろしい。なので、王道でいきます。①勝ち金はカジノの小切手と銀行経由で送金。送金記録はむしろ堂々と残す。出どころが説明できる金が、一番強い金だから。②日本側では今年の分をきちんと一時所得で申告。ちなみに試算したら、納税見込み——ざっくり二千万円超です」
「に、せん」
「はい深呼吸ー。いい? これは罰金じゃなくて、『合法的に勝った』という国のお墨付きの購入代金。九条くんの金は、今日から履歴書を持つの。手取りで五千万残れば、事業の種銭には十分」
……うちの経理は、金に履歴書を持たせる女だった。悔しいが、正論の暴力である。
出発前夜、ジョーさんの送別会——ではなく、残留祝いが開かれた。ジョーさんは、日本に来ない。
「俺はマカオ支社長だからね! 沙の動向見張って、黄さんと飲んで、沈没船の情報集めて——あ、そうそう九条くん、南シナ海の沈没船リスト、元海事局の飲み仲間から出てきそうだから、まとまったら送るね」
「飲み仲間の範囲が広すぎるんだよな、あんたは」
「それが俺の唯一の資産なの! 乾杯!」
支社長(従業員一名)は、上機嫌で菊花茶を掲げた。固定給五百パタカ+成功報酬の男は、今夜も安い。安いが、この九年分の人脈は、金では買えない。
翌日の昼、俺は最後の「養分通い」に出た。いつもの席に、いつものおばちゃん。
「あら先生、今日はスーツケース?」
「うん。日本に帰るんだ。……おばちゃん、二ヶ月半、世話になりました。差し入れ、全部うまかった」
「あらあらあら」おばちゃんは、罫線表を置いて、しみじみと俺を見た。「寂しくなるわねえ。……先生。最後だから、一つだけ聞いていい? あんた、本当は強いんでしょう」
「…………なんで、そう思うの」
「三十年、負ける人の隣に座ってきたのよ、私。負ける人はね、みーんな、勝ちたい顔でカードを見るの。でも先生は、最初から最後まで、負けても構わない顔で座ってた。あれは、余裕のある人の顔。……ふふ、いいのよ、答えなくて。うちの人と同じ顔で黙るのね、あんた」
……この夫婦、どっちも観察の化け物か。娘さんは絶対、嘘のつけない人生を送っているに違いない。
空港には、意外な見送りが来ていた。柱の陰に、角刈りのポロシャツ。非番の黄さんだった。
「……見送りとは、別勘定が過ぎるのでは?」
「見送りではない。要観察対象の出国確認だ。業務の一環だよ」
黄さんは、無表情のまま、紙袋を差し出した。中身は、タッパー二段の大根餅だった。業務の一環に大根餅を持ってくるな。
「九条さん。あんたの尻尾は、結局、掴めんかった。二十二年で、初めてだ。……だが、これだけは言える。あんたはウチの店で、一度もカードに触れず、一度も統計を壊さず、そして最後まで、妻の隣で楽しそうに負けていた。カメラに映っていたあんたは、それが全部だ。カメラは、嘘をつかん」
「……つまり?」
「また来い。次は客としてじゃなく、飯を食いに。妻が、娘を紹介する気で待っとる」
「そこだけは全力で観察を回避します」
搭乗ゲートをくぐる直前、俺は振り返った。角刈りは、もういなかった。プロの引き際である。
窓側の席に収まり、離陸の浮遊感の中で、俺は眼下に遠ざかるネオンの島を見た。
二ヶ月半前、五十万円と十三年分の能力だけを持って降り立った街。出ていく今、手元には七千二百万の種銭と、従業員二名と、敵だったものが二つ——一つは手打ちに、一つは大根餅に変わった。
「……さて」
日本。卒業と、納税と、そして本命の投資編が待っている。
隣の席で、楓がもう事業計画書を開いていた。機内モードでも働くのか、うちの監査法人は。




