カメラに映らないもの
翌日の午後、俺は旧市街の茶餐廳(ローカル喫茶)で、角刈りの男と向かい合っていた。
非番の黄さんは、ポロシャツだった。ポロシャツの黄啓文は、スーツの時より三割ほど「ただの疲れたお父さん」に見えた。
「……まず、確認させて下さい。俺、あんたの店の要観察リスト筆頭ですよね? その俺に、個人的な依頼?」
「この件と、あの件は、別勘定だ」
出た、別勘定。この人の中には勘定科目が何個あるんだ。うちの経理に帳簿を見せてやりたい。
黄さんは、ミルクティーを一口飲み、しばらく黙り、それから、監視歴二十二年の男とは思えないほど、ぎこちなく切り出した。
「……来月、結婚三十周年になる」
「おめでとうございます」
「妻に、何か、してやりたい。だが——何を望んでいるのか、分からん」
「…………聞けば?」
「聞いた。『何もいらない』と言われた」
「あー……」
それは、世界共通の、一番難しい回答だ。
「私はな、九条さん。人間の嘘を見抜くのが仕事だ。カメラ越しなら、指先の癖ひとつで、客の嘘が分かる。だが妻の『何もいらない』は——本当なのか、嘘なのか、三十年経っても分からん。カメラは嘘をつかんが、妻は、カメラに映らん」
監視の頂点が、湯気の向こうで、途方に暮れていた。
「で、なぜ俺に?」
「……妻には最近、店で親しくしている『日本の若い先生』がいるらしい。家で、よくその話をする。曰く、礼儀正しくて、負けても楽しそうで、大根餅を三個も食う、と」
……ん?
大根餅。夜勤の旦那。釣り。「肩書きより、目を見ろ」。
記憶の中の点と点が、音を立てて繋がった。
「……あの、もしかして、奥さんって。罫線表をつけてる、蒸しパンとかくれる」
「うちの、それだ」
あのおばちゃん、ラスボスの妻だったのか!! どうりで、どの店に行っても——いや待て、どの店にもいたのは偶然か? まさか俺は、二ヶ月間、監視主任の妻の隣で養分を演じ続けて——考えるのはやめよう。世の中には、勘定しないほうがいい偶然もある。
「依頼はこうだ。妻から、それとなく、本当の望みを聞き出してほしい。礼はする。無論、これも別勘定で」
翌日。俺はいつもの養分席で、いつものおばちゃんの隣に座った。今日の差し入れはピーナッツ入りの飴だった。
「おばちゃんさ。もうすぐ、結婚三十年なんだって?」
「あら、なんで知ってるの」
「風の噂で。……記念に何か欲しいものとか、ないの?」
おばちゃんは、罫線表に丸をつける手を止めなかった。止めなかったが、少しだけ、笑った。
「物はねえ、もういいのよ。歳を取ると、棚が埋まるだけ。……そうねえ。強いて言うなら」
彼女は、バンカーに二百ドルを張りながら(負けた)、こともなげに言った。
「平日の昼間に、うちの人と二人で、釣りに行きたいわねえ。新婚の頃は、よく行ったのよ。あの人が仕事にのめり込む前はね。……でも無理よぅ。あの人、二十二年、まともに休んだことないもの。真面目だけが取り柄なの」
その夜、俺は茶餐廳で黄さんに監査報告を行った。聞き終えた黄さんは、額に手を当てて、うめいた。
「……釣り。釣りか。物なら、何でも買ってやれるんだが」
「買えないから、欲しいんでしょう」
「しかし、休むといっても、店が——今は例の後始末で、監視室が一番——」
「黄さん」
俺は、ミルクティーを置いて、要観察対象として、堂々と言ってやった。
「あんた、二十二年、無休で城を守ってきたんでしょう。人生、一日くらい舐めていいんですよ。前払いなら、とっくに済んでる」
黄さんは、俺の顔を、まじまじと見た。それから、ふ、と息だけで笑った。
「……その台詞、三百人のイカサマ師の誰よりふてぶてしい」
「褒め言葉として受領します」
◇ ◇ ◇
——一週間後。地下監視センター、朝礼。
「え……有給? 主任が? 有給ぅ!?」
「明日一日だ。騒ぐな」
「た、体調でも悪いんですか!? それとも何かの潜入捜査——」
「釣りだ」
監視センターが、二十二年ぶりの静寂に包まれた。
◇ ◇ ◇
さらに数日後。養分席の俺の前に、おばちゃんが、いつもの倍の大きさのタッパーを置いた。中身は、ぎっしりの大根餅だった。
「はい、これ。お礼」
「? 何の?」
「さぁ? でも、うちの人がね、『あの先生に渡しておけ』って。……ふふ。先生、うちの人と知り合いだったのねえ。今度、家にご飯を食べにいらっしゃい。娘も呼ぶから」
娘の件は全力で聞き流しつつ、俺は大根餅を齧った。しみじみ、うまい。
隣でおばちゃんが、新しい罫線表を広げる。俺は視えない霧に今日も二百ドルを沈める。地下では角刈りが、日焼けした顔で俺の尻尾を追っている。
マカオに来て、二ヶ月半。敵と、従業員と、押しかけ経理と、大根餅。
……そろそろ楓がうるさいので、帰国の算段でも始めるか。卒業式と、確定申告が、俺を待っている。




