入社希望1名
翌日の昼。俺の安宿の部屋は、臨時の監査会場になっていた。
机の上には、日本から持参していた練習記録ノートの最新巻(第三十八巻)と、スマホのクラウドに入れてある過去分の写真データ。そして俺の収支メモ。楓はそれらを、恐ろしい速度でめくっていく。ジョーさんは差し入れの牛乳プリンを配りながら、部屋の隅で正座していた。なぜ正座なのかは、聞いていない。
「……小四の十二月三日、開始。『スプーンを三時間見た。何も起きなかった』。十二月四日、『何も起きなかった』。十二月五日、『何も——』」
楓がページをめくる手を止めた。
「ねえ、これ、四年間ずっと『何も起きなかった』って書き続けてるんだけど」
「ああ。中二の秋までな」
「中二の秋……あった。十月十七日。『ゆれた』。……ひらがな三文字」
楓は、そのページを、しばらく黙って見ていた。それから、少し掠れた声で言った。
「四年と十ヶ月、毎日『何も起きなかった』を書いた人間だけが、この『ゆれた』を書けるんだ。……九条くん、これ、笑えない。私、昨日まで九条くんのこと、ずるして楽してる人だと思ってた」
「ずるして楽してるぞ。前払いが済んでるだけで」
「その言い方! ……ま、いいや。監査結果に移ります」
楓はノートを閉じ、俺の収支メモを机に叩きつけた。ばん。
「まず能力については、理解を放棄しました。物理学に対する越権行為なので監査対象外。問題はこっち。九条くん、あなた今、総資産いくら?」
「五千万ちょっと」
「うん。で、これ、日本の税務署にどう説明するの?」
「…………」
「無言! 一番だめな回答!」
楓の講義が始まった。いわく、俺は日本の居住者であり、海外のカジノで勝った金にも日本の所得税がかかる。一時所得。しかも痛いのは、負けた分は経費にならないこと。勝った勝負の勝ち金だけが合算され、負けは原則、なかったことにされる。
「九条くんの打ち方だと、わざと負けてる分が結構あるでしょ。あれ、税務上はただの散財。で、勝ち分には最大で半分近い税金。さらに、申告しないで銀行に大金を持ち込めば、百万円超の海外送金・持ち込みは全部、税務署に自動で通知されるの。CRSっていう国際的な口座情報交換もあるし。……つまりあなた、このまま無計画に日本へ帰ると」
「帰ると?」
「無申告加算税と重加算税のフルコースで、灰色どころか真っ黒。最悪、脱税で名前が出る。超能力者・九条蓮、初めての敗北が『国税庁』とか、笑えないでしょ」
……国税。監視カメラでも、裏社会でもなく、書類が俺を殺しに来るのか。盲点にも程がある。カジノの監視は視えたが、税制は透視できない。楓の言う通りだ。統計と人間関係に続く、俺の第三の管轄外——制度。
「じ、じゃあ、どうすれば」
「はい、それを考えるのが経理の仕事です」
楓は、どこから出したのか、ノートPCを開いた。
「方針は三つ。一つ、今年の分はきちんと申告して払う。もったいなく感じても、ここをケチった人間の末路は歴史が証明してる。二つ、来年以降に向けて事業の器を作る。個人の博打じゃなくて、投資業・サルベージ業・コンサル業として立てれば、経費も損も計上できる形にできる。三つ——」
楓は、そこで初めて、少し照れたように、目を逸らした。
「……三つ。その経理を、私がやる。東和精機は、辞退する」
「「ええーっ!?」」
俺とジョーさんの声が重なった。ジョーさんに至っては正座のまま跳ねた。
「い、いいのか? 奨学金とか、親御さんとか、散々『普通の人間は簡単に辞退できない』って」
「言った。言ったけどさ」楓は、机の上の練習記録ノート第三十八巻を、指でとんとんと叩いた。「昨日、倉庫で銃が浮くのを見た時より、今日、このノートを読んだ時のほうが、怖かったんだよね。この執念の男が、経理を『無言』で済ませてる。放っておいたら、絶対、どこかで盛大に転ぶ。……それを帳簿の側から見届けられる仕事、世界に一席しかないでしょ。就活で百席の椅子を取り合うより、面白そうじゃん。——あと、これは打算じゃなくて、ただの本音だけど」
楓は、ノートの表紙を、そっと撫でた。
「このノート、四年と十ヶ月、『何も起きなかった』でしょ。……十三年、隣に誰もいなかった人の隣は、もう空席にしないって、昨日の帰り道に決めたの。それだけ。——はい、いい話、終わり! 今の、議事録に残さないでね」
「うちに議事録なんてない」
「じゃあ、胸にも残さないで」
「それは無理だな」
「……給料、いくら欲しい」
「月四十万。あと決算賞与は要相談。ジョーさんの成功報酬の設計、聞いたよ。うちの雇用主、報酬設計だけは一流だから」
「うちの、ときたか」
こうして、俺の「会社」に、二人目の従業員が入った。空間掌握の災害と、元ディーラーの何でも屋と、押しかけ経理。……なんだこのパーティ編成は。勇者も僧侶もいない。
その夜、三人で祝いの晩飯(ジョーさん推薦のポルトガル料理)を食っていると、俺のスマホが震えた。知らない番号——ではない。一度だけ、バーカウンターで交換した番号だった。
黄啓文。
『九条さん。夜分にすまん。……折り入って、あんたに個人的な依頼がある。仕事の話ではない。いや、仕事の話でもあるが——』
電話の向こうで、二十二年の男が、珍しく、言い淀んでいた。
『——妻のことだ』




