ネズミ捕りの売り方
「——というわけで、黄さんに『お宅の店にネズミがいる』と教えてやろうと思う」
翌日の作戦会議で俺がそう切り出すと、ジョーさんは飲みかけの菊花茶を、綺麗な放物線で噴いた。
「じょ、正気!? 敵に塩を送るの!? しかも黄さんだよ? 『ご親切にどうも、ところであんたはなぜ知ってる?』って、絶対、絶対そうなるよ! 情報の出どころ、どう説明すんの!?」
「説明しない。匿名の親切な観光客でいく」
「匿名って、九条くん、もう顔バレどころか名前バレして先週フロアでご挨拶までされて——」
「だからこそだ。聞け、ジョーさん。黄さんは俺を疑ってる。疑ってるが、手口が分からない。そこへ俺が、本来知りようのない内部情報を持ち込んだら、黄さんはどう思う?」
「『こいつ、ますます怪しい』」
「そう。怪しさが一段深まる。そして、それでも裏を取らずにはいられない。あの人は職人だからだ。俺への疑いと、店の膿と、両方を追うことになる。……つまり俺は、正体を半分売って、黄さんの二十二年を買う」
「……九条くんさぁ、たまに、悪い顔が黄さんより悪くなる時あるよね」
その夜、俺は黄さんの店の、いつもの「養分席」に着いた。隣にはいつものおばちゃん。今日の差し入れは蒸しパンだった。うまい。
三十分ほど、いつも通り視えない霧に金を沈めてから、俺は通りがかった黒服に、静かに告げた。
「黄警備責任者に、お伝え願えますか。**『猫から、ネズミの話がある』**と」
五分後、俺はフロアの隅のバーカウンターで、角刈りの男と並んでいた。黄さんはウーロン茶、俺はオレンジジュース。世界一アルコール度数の低い、腹の探り合いである。
「……猫、とは。ご自分のことをよくお分かりのようだ」
「そちらが先に呼んだんでしょう。見られてる時だけ、魚に手を出さない猫、と」
黄さんの眉が、一ミリ動いた。監視室の会話まで把握している、と受け取ったはずだ。実際はただの当てずっぽう——彼が使いそうな比喩の推測だが、ハッタリは、当たれば実弾になる。
「本題です。お宅のVIPサロンの卓長・陳。沙の投資会社から、月四万パタカの顧問料を受け取ってます。役務は、上客の情報提供と『シャッフルの便宜』。そして沙の今期の目標は、あんたの店の信用と、あんたの首だ」
黄さんは、ウーロン茶のグラスを置いた。長い、長い沈黙。フロアの喧騒だけが流れる。やがて彼は、視線を前に向けたまま言った。
「……仮に、その話が事実だとして。九条さん。あなたはそれを、どうやって知った」
「言えません」
「でしょうな」黄さんは即答した。「では質問を変える。なぜ、私に売る。あなたにとって私は、一番の邪魔者のはずだ。私が失脚すれば、あなたの『お仕事』は、さぞやりやすくなる」
いい質問だった。俺は昨夜から用意していた答えではなく、なぜか、用意していなかった方の本音を口にしていた。
「……あんたが、カードの嘘で負けるのは、癪だからです。あんたは俺の十三年を、正面から解こうとしてる。なら俺も、あんたの二十二年が、横からの八百長で終わるのは見たくない。それだけです」
黄さんは、初めて、俺の方へ顔を向けた。二十二年分の目が、俺の目を、じっと計量する。長い三秒だった。
「……妙な若造だ」
「よく言われます。最近、部下にも」
「ふ」
今、笑ったか? この男、今、〇・二秒笑ったよな?
黄さんは席を立ち、伝票を取った。俺のジュース代ごと。
「裏は、こちらで取る。事実なら、店として然るべく処理する。……九条さん。一つだけ言っておく」
彼は背中を向けたまま、言った。
「この件と、あなたの件は、別勘定だ。私はあなたの尻尾を、まだ諦めていない」
「望むところです。こっちも、まだ尻尾を生やしてないんで」
「……減らず口も、三人の上だな」
角刈りの背中が、フロアの奥へ消えていく。俺は残ったジュースを飲み干した。奢られた分だけ、少し甘く感じた。
◇ ◇ ◇
——三日後。地下監視センター、深夜。
黄啓文は、三日分の映像と伝票と入出金記録を突き合わせ終え、椅子に深く沈んだ。
卓長・陳。シャッフル時の手癖、特定客の卓への配置替え、非番日の高級時計。裏は、取れた。取れてしまった。二十二年間、部下として信じてきた男の嘘が、カメラの中に、最初から全部映っていた。
「……カメラは、嘘をつかんよ。本当にな」
黄は老眼鏡を外し、目頭を揉んだ。それから、内線ではなく、私用の携帯を取り出した。かける相手は保安局の古い友人——これは店の外に出せない処理になる。
ダイヤルの前に、彼はふと、モニターの隅を見た。定点カメラの中で、例の日本人が、常連の老婦人と並んで蒸しパンを食っている。
(……あの席、よりによって、あいつの隣か)
黄は、何かを言いかけて、やめた。世の中には、仕事に持ち込まないほうがいい偶然もある。




