監査法人、国境を越える
卓長・陳が「一身上の都合」で店から消えたのは、それから四日後だった。
ジョーさんの元同僚ネットワークによれば、退職と同時に保安局が動き、沙の投資会社にも「税務の」調査が入ったらしい。もちろん沙本人は無傷だ。あのクラスは、ネズミ一匹の尻尾切りで凌ぐ。だが、黄さんの首を狙った今期の仕込みは、丸ごと吹き飛んだ。
「乾杯〜! 九条くんの、悪だくみの成功を祝して!」
「人聞きが悪い。善だくみだ」
夜の大排档で、俺とジョーさんはビールと菊花茶(俺)で祝杯を挙げていた。総資金は五千万の大台が見えている。VIPでの俺は「物静かな日本の若い投資家」として定着し、黄さんの店では引き続き、健全に負けている。二重生活は完璧——
ここで白状しておくと、この二ヶ月、楓とのやり取りは、なんだかんだ数日おきに続いていた。就活を蹴った男と、就職していく女。接点なんて切れて当然だったのに、切れなかった。向こうは研修の愚痴を送ってきて、俺は飯の写真を返す。それだけの、しかし途切れない糸だった。
その楓から、スマホが震えた。写真が一枚、添付されている。
見覚えのある写真だった。というか、俺が三日前に楓へ送った写真だ。『秘湯の近くの街並み』というキャプションを付けた、石畳の坂道の風景。景色だけなら日本の温泉街で通る、と踏んで選んだ一枚だった。
その写真に、赤丸が三つ、書き込まれて返ってきた。
赤丸①、石畳の隅のポルトガル語の道路標識。
赤丸②、坂の上にちらりと写る、聖ポール天主堂跡の壁。
赤丸③、画面の端の屋台の値札、「MOP$10」。
続けて、メッセージが着弾した。
『MOPはマカオ・パタカの通貨コードだね。九条くん、秘湯、マカオにあるんだ?』
『世界は広いからな』
『ふーん。で、マカオで有名な温泉はどこかなーって調べたら、マカオ、温泉ないんだって。有名なのはカジノだって。……ごめんね、探偵ごっこみたいなことして。でも九条くん、二ヶ月ずっと、嘘が下手すぎたんだよ。以下、証拠一覧ね。①秘湯の写真に石畳とポルトガル語。②「今日は湯加減がよかった」の三時間後に「夜景が眩しくて眠れない」——どんな秘湯よ、それ。③極めつけ、先週の誤字。「今日の温泉、チップが増えた」。……温泉のチップは、増えません。増えるのは、カジノです』
うっ。あの誤字、拾われていたのか。送信直後に消したのに。既読の速さは、心拍だけじゃなく誤字も読むらしい。
『……で、まあ、結論。変な仕事に巻き込まれてないか、心配が、勝ちました』
……怒鳴られるより、効いた。この二ヶ月の俺の嘘は、心配という形で、全部回収されていたらしい。
『それで、報告なんだけど』
『報告?』
『私、来週、そっち行くから。航空券もう取った。香港経由、金曜着』
『は?』
『内定者研修が一区切りでね、卒業旅行、まだだったの。行き先は自分で決めた。マカオ。……で、せっかくだから、嘘の下手な友達の顔も見てくる。現地に詳しいんでしょ? 観光案内くらい、してくれるよね』
『案内はいいが、言っておく。うちの観光コースは癖が強いぞ。世界一うまい雲呑屋と、世界一感じのいい大根餅と、世界一目つきの悪い監視カメラ巡りだ』
『後半、観光て言わないのよ。……ん、でも、いいね。ガイドブックに載ってないやつ、全部ちょうだい』
『……嘘が下手で、悪かったな』
『ん。下手なままでいてね。うまくなられたら、心配もできない』
俺はスマホを置き、天を仰いだ。ジョーさんが心配そうに覗き込んでくる。
「どしたの。沙の続報?」
「もっと悪い。……日本から、監査が来る」
「例の、既読で心拍読む子!? うわー、会いたい! 雲呑おごる!」
呑気なものである。だが正直、俺の胸中も、警戒六割、あとの四割は——まあ、なんだ。悪くない、が四割だった。この街のうまいものリストは、一人で消化するには長すぎる。
その、金曜日。
俺は香港からのフェリーが着く外港ターミナルで、楓を待っていた。到着ロビーの電光掲示板が、定刻着を告げる。ゲートから人波が吐き出され——ショートカットの、目つきの鋭い女が、キャリーケースを引いて現れた。二ヶ月ぶりの楓は、俺を見つけるなり、開口一番こう言った。
「九条くん、顔つきが変わった。前より、人生もっと舐めてる顔になってる」
「褒め言葉として受領する」
「褒めてない。……でも、元気そうで、ほんとに、よかった。さ、案内して。まずは観光——の前に、九条くんの『事業所』、ちょっとだけ見せてよ」
その時だった。ポケットの中でスマホが震えた。ジョーさんからの着信。出た瞬間、聞こえてきたのは、ジョーさんの声——ではなかった。
『——九条さん。先日ぶりだね』
温度のない、流暢な日本語。沙だった。
『君の従業員を、うちの事務所で預かってる。ネズミの件、君の仕業だろう? 証拠はないがね、私は黄と違って、証拠を必要としない主義なんだ』
電話の向こうで、遠く、ジョーさんの「く、九条くん、来ちゃダメ——」という声と、それを遮る鈍い音がした。
『三十分以内に、一人で、内港の第七倉庫へ。……ああ、それと』
沙は、笑いを含んだ声で、言った。
『空港とフェリー乗り場は、見張らせてもらってるよ。今そこにいるだろう? 連れの お嬢さんも、一緒でいい』
通話が切れた。
隣で楓が「誰?」という顔をしている。俺は深呼吸を一つして、二ヶ月ぶりに会った監査法人に、言った。
「……楓。悪いが、観光の初日から、修羅場だ」




