空を飛ぶ監査法人
やられたら、調べ返す。それが九条家の家訓だ。今、俺が作った。
深夜一時。俺は認識阻害を全開にして、マカオ半島の夜空に浮かんでいた。眼下には、沙の「投資会社」が入る雑居ビル。ジョーさんの元同僚ネットワークが割り出してくれた住所だ(情報料、雲呑麺五杯)。
言っておくが、盗みに来たのではない。俺のルールで、沙の金庫から札束を抜くのは論外だ——いや、正直に言おう。沙が「個人」なのか「胴元」なのか、俺は昨夜、ノートの前で一時間悩んだ。結論。あれは胴元だ。それも、カジノよりタチの悪い。人に金を貸し、人の弱みで回収する、控除率の見えない胴元。よって俺のルール上、沙は「盗ってもいい側」に分類された。
が、今夜は盗らない。視るだけだ。金より先に、情報。監査というのはそういう順番でやるものだ。楓が聞いたら鼻で笑いそうな台詞である。
ビルの外壁に沿って降下し、六階の窓の高さで静止する。空間を歪め、光を曲げ、視線をコンクリートの向こうへ潜らせた。
フロアの奥、応接の裏に、隠し部屋があった。
大型の金庫。積まれた現金(香港ドルの札束で、目算一億ドル超——日本円にして、およそ二十億。俺の総資産の四十倍が、無造作に、ただの紙の壁として積んである)。しかも、だ。一勝負二千万の部屋をいくつも回すジャンケットの商売を考えれば、これはたぶん手元の小口にすぎない。本体は帳簿と口座の中で、もっと桁違いに回っている。そして、壁一面のファイル棚。俺は棚の背表紙から順に、中身を透視していく。紙の束を、開かずに読む。一枚ずつ空間の角度を変えて、光を滑り込ませて。地味だ。地味だが、この地味さこそ一万四千時間の男の真骨頂である。
三十分後、俺は三つの収穫を得ていた。
一つ。貸付台帳。沙の「上客」リスト。負債額と、担保の欄。担保の欄に書かれているのは不動産だけではない。「長男・カナダ留学中」「本土の工場の操業許可」——人の人生が、担保として簿価をつけられていた。読んでいて、魚団子の味が消えた。
二つ。回収予定表。直近のページに、見覚えのある名前があった。『城戸譲——旧債権(創作)五万パタカ。目的:九条への圧力。優先度:低』。創作、と自分で書くな。せめて隠せ。だが「優先度:低」ということは、あの倉庫の一件は小手調べ。本命の圧力は、まだ倉庫の中で眠っている。
三つ目が、大物だった。
従業員名簿とは別の、薄いファイル。表紙には何も書かれていない。中身は、カジノ関係者への「顧問料」の支払い記録だった。換金所のマネージャー、ホテルのフロント長——そして。
『A社(黄の店)VIPサロン、卓長・陳。月額四万パタカ(約七十二万円)。役務:上客の負け情報の提供、シャッフルの便宜』
……いた。黄さんの城の中に、沙のネズミが。
シャッフルの便宜、が何を意味するかは、元ディーラーに聞くまでもない。特定の客を負けさせたい時、カードの並びに「作為」を入れる手伝いだ。カメラは嘘をつかない、が座右の銘の男の店で、カードが嘘をついている。
「……これは、使えるな」
俺は宙に浮かんだまま、にやりと笑った。我ながら、いい笑い方ではなかったと思う。
黄さんは俺の敵だ。だが、黄さんの敵は俺だけではなかった。そして沙は、俺とジョーさんと黄さんの、共通の敵だ。敵の敵は、取引相手。この手札を、いつ、どう切るか。
帰投しようと高度を上げた、その時だった。
ビルの前に、黒塗りの車が滑り込んできた。降りてきたのは——沙、本人だった。深夜二時に、ボディガード二人を連れて。
俺は好奇心に負けて、滞空したまま聴覚の空間を繋いだ。沙は電話をしながらビルに入っていく。広東語だ、分からん——と思ったら、途中で英語に切り替わった。相手が変わったらしい。英語なら、聞ける。十三年間、海外のオカルトフォーラムと超能力番組で鍛えた耳だ。まさか修行の副産物が、盗聴で火を噴く日が来るとは。
『——ああ、例の日本人はまだ落ちない。だが急ぐ話じゃない。どのみち奴は、俺の獲物リストの二番目だ』
二番目。おい、俺より優先される一番は誰だ。
『一番? はは、決まってるだろう。……二十二年、目障りだった監視カメラの主だよ。あの角刈りが定年で消えるまであと六年も待てるか。今期中に、奴の店ごと信用を潰す。ネズミの仕込みは順調だ』
……なるほど、ね。
沙の本命は、俺ではなく黄さんの失脚。俺はついでの獲物。そしてその道具が、卓長・陳の「シャッフルの便宜」——おそらく近々、黄さんの店のVIPで、大掛かりな八百長が起きる。カメラに映らない形で。責任は監視主任へ。
俺は夜空で腕を組んだ。魚団子の最後の一個を、口に放り込む。
黄啓文。俺を「上物」と呼び、俺の十三年を解こうとしている、面倒で、真っ直ぐな職人。
あの人が、カードの嘘で職を失うのは——なんか、癪だな。
理由は、それで十分だった。




