雲呑麺には毒入れない
沙の接触から二日後。異変は、雲呑麺から始まった。
「……九条くん。俺、今日、店のおやじに言われたんだよね。『ジョー、あんた誰に恨まれてる? 昨日、あんたの行きつけを聞き回ってた奴がいる』って」
昼の大排档。ジョーさんは麺をすする速度がいつもの半分だった。この男の食欲は精神状態の正確な計器である。
「で、さっき電話が来た。知らない番号。『城戸さん、九年前の紹介料の未払いが五万パタカ残ってる。今夜八時、内港の倉庫街まで精算に来い』って。五万パタカって、九十万円だよ!? 俺の給料、何ヶ月分!?」
「身に覚えは」
「あるわけない! 俺の借金は雲呑のツケだけ! ……でもさ、これ、行かないと行かないで、明日はもっと嫌な形で来るやつなんだよね。この街の流儀として」
沙の初手だ。俺本人ではなく、外堀のジョーさんから埋めてくる。「おまえの従業員の安全は、こちらの胸三寸だ」という二通目の名刺。
「ジョーさん。行っていい。ただし、条件が一つ」
「じょ、条件?」
「今夜のことは、何があっても驚かないこと」
夜八時前。内港の倉庫街は、観光マカオの裏側だった。錆びたシャッター、魚醤の匂い、切れかけの街灯。ジョーさんが青い顔で歩いていく十五メートル上空を——俺は、飛んでいた。
認識阻害、全開。俺の姿は誰の目にも映らず、音も空間ごと逸れる。眼下では、倉庫の陰から男が三人、ジョーさんを取り囲むところだった。ついでに言うと、俺は屋台で買った咖喱魚蛋(カレー味の魚団子)を食いながら監視していた。緊張感がないと言うな。戦力差があるだけだ。
「城戸さんよぉ。五万パタカ、持ってきたか?」
「だ、だからその借金、記憶にないんだって! 帳簿見せてよ帳簿!」
「帳簿ぉ? ……おい、聞いたか。間抜けが帳簿だとよ」
男の一人が、ジョーさんの胸ぐらを掴んだ。——はい、そこまで。
俺は空間を握った。
男の拳が、ジョーさんのシャツを掴んだまま、ぴたりと動かなくなる。男が怪訝な顔で腕を引く。動かない。空間ごと固定された腕は、本人には「金縛り」としか感じられない。
「……あ? な、なんだ? 腕が——」
二人目が舎弟の異変に気づいて近寄った瞬間、足元の空きビール瓶が、ころりと転がって踵の下に入った。すっ転ぶ。三人目が「うわっ」と振り向いた鼻先で、倉庫のトタン屋根が、突風もないのにばぁん! と派手に鳴る。
「な、なんだよ今日は……!」
「お、おい、手が動いた……もういい、城戸! 五万は今度でいい! 覚えとけよ!」
三人は、何かに追われるように路地の奥へ消えた。取り立てが「今度でいい」で終わる街、マカオ。あるわけないだろ、そんな取り立て。だがあの三人は今夜、なんと報告するのだろう。「金縛りと瓶とトタンにやられました」。沙は信じまい。信じないという事実が、次の一手を歪ませる。それが狙いだ。
腰を抜かしたジョーさんの元へ、俺は路地の角から「たまたま通りかかった」顔で歩み寄った。
「奇遇だな、ジョーさん。こんな所で何を」
「く、九条くん!? き、today、俺、俺ね、金縛りが、瓶が、トタンが」
「落ち着け。日本語が迷子だ」
帰り道、ジョーさんは俺の顔をちらちら見ては、何か言いかけてやめる、を九回繰り返した。十回目で、彼は観念したように言った。
「……聞かない。聞かないけど、一個だけ確認させて。俺の雇い主は——俺の味方?」
「従業員を守るのは、雇用主の義務だ。労働基準法にも書いてある。たぶん」
「日本の法律、マカオに適用されないんだよなあ……でも、うん。分かった。それで十分」
翌日。俺は気分転換に、黄さんの系列店へ「養分の日課」に出かけた。定位置には、例のおばちゃんがいた。今日も罫線表と睨めっこしている。
「先生、来たね。はい、これ食べな」
おばちゃんが、タッパーを差し出してきた。中には、きつね色に焼かれた四角い餅——大根餅だった。
「うまっ。……え、うまいなこれ。店のですか?」
「自家製よぅ。うちの人がこれに超うるさくてね。毎晩夜勤前に食べてくの。仕事人間でさぁ、休みの日は釣りばっかり。あんたみたいな若い子と、うちの娘が結婚してくれたらいいのに」
「はは、俺、無職ですよ」
「あら、うちの人も言ってるわよ。**『肩書きより、目を見ろ』**って」
……いいこと言うな、おばちゃんの旦那さん。どこかで聞いたような含蓄だ。
俺は大根餅を頬張りながら、視えない霧の中に今日も二百ドルを沈めた。負けた。うまい。平和だ。
この平和が偽装であることを、俺と、地下の男だけが知っている。




