赤い絨毯の向こう側
マカオ、三週間目。
俺の「二重生活」は、軌道に乗っていた。黄さんの系列では、罫線表を買い(信仰に入信した)、おばちゃんと一緒に一喜一憂する善良な養分。他グループの店では、勝率五割五分の仮面を被った収穫マシン。資金は一千七百万を超えた。
そして今夜、ついに、それが来た。
「九条様。当ホテルのVIPサロンへ、ご招待の栄誉を賜りたく」
他グループ最大手のホストが、恭しく差し出した黒いカード。三週間の上客ムーブが、実を結んだ瞬間である。正規ルート、開通。
その夜、俺は生まれて初めて、赤い絨毯を「入場者側」として踏んだ。
ガラス扉の向こうは、別の惑星だった。
一般フロアの喧騒が嘘のように、静かだ。天井は高く、照明は琥珀色。卓はわずか六つ。給仕が音もなく滑り、頼んでもいないのに俺の好み(搾りたてオレンジジュース)が把握されている。そして卓の上には——見慣れない色のチップが、積まれていた。
「一枚、十万香港ドルになります」
一枚、約二百万円。俺の卒業旅行の初期予算(五十万)が、チップ〇・二五枚。
ミニマムベットは一勝負十万香港ドル。座っている客は三人。本土の実業家風の男、宝石をぶら下げた老婦人、そして眠そうな目の若い男。全員、二百万円のチップを、駄菓子のように無造作に張る。
……落ち着け。深呼吸だ。俺は静かに着席し、シューの中を透視した。
視える。よかった、ここでも世界は俺に答えを公開してくれている。VIPだろうと物理は物理だ。
最初の勝負。視えている答えは、バンカー。俺は二百万円ぶんのチップを、できるだけ「駄菓子のように」押し出した。指先が、ちょっと震えた。駄菓子は無理だった。せめて、ちょっといい寿司くらいの顔で張った。
バンカーの勝ち。二百万円が、三分で三百九十万円(手数料五分引き)になった。
「…………」
パチンコで五時間玉を運んで三万二千円だった男の脳が、換算を拒否している。時給ではもう測れない。これは、桁の暴力だ。
三時間、俺は鉄の掟(勝率五割五分)を守り抜いた。負ける勝負は最低額、勝てる勝負は厚く。淡々と、静かに、失恋の顔で。
本日の収支——プラス一千百万円。
地上で七十日かけて作った種銭と同じ額を、一晩で。俺は席を立ち、震えそうになる膝を意志で固定して、平然と歩いた。VIPサロンでは、勝っても負けても顔に出さないのが上客の作法だとジョーさんに習ったからだ。
部屋に帰って、ベッドに倒れて、枕に顔を埋めて、俺は思う存分、悶えた。
「……ふ、ふふ、ふははは! 桁が! 桁が違う!」
悶えてから、冷静になって、決算した。総資金、二千八百万円。
スマホが震えた。楓からだった。
『九条くん、まだ秘湯にいるの? そろそろ心配なんだけど。あと唐突だけど、今日、内定者研修で「配属後に担当する取引先リスト」もらった』
『それはおめでとう』
『で、リスト眺めてて思ったんだけどさ。世の中の会社って、売上一億作るのに、社員何十人で一年働くんだよね』
『……そうだな』
『九条くんの「投資」は、今いくらになったの?』
俺は現在の総資金を眺め、それから、慎重に嘘の桁を選んだ。
『まあ、ぼちぼち』
『その「ぼちぼち」を打つ前に三十秒固まってたの、既読の時間で分かるからね』
この女、LINEの既読から俺の心拍を読んでくる。楓に空間掌握は要らない。
◇ ◇ ◇
——同夜。黄啓文の自宅。
深夜零時。食卓で遅い夕食(妻の蘿蔔糕)をつついていた黄の携帯が鳴った。系列外の同業者からの、非公式な返礼だった。
『黄さん。照会の日本人だがね。今夜、ウチのVIPで一千百万勝っていったよ。手口は不明。うちの卓長は「今月のツキ男」と処理したが……あんたが聞くってことは、違うんだろう?』
黄は箸を置き、静かに礼を言って電話を切った。
ウチの店では、六十八万負ける凡人。他所のVIPでは、一晩で一千百万の怪物。これで裏付けは取れた。奴は「見られている場所」を選んでいる。つまり奴には、こちらの監視網が——見えている。
「あなた、蘿蔔糕、冷めますよ」
「ああ……すまん」
黄は大根餅を一口食い、二十二年の職業人生で初めての種類の疑問を、口の中で転がした。
(手口の見当が、まったくつかん。カメラは嘘をつかない。だが——カメラに映らない手口が、この世にあるとしたら?)




