負けるつらさ
「——で、黄さん本人が来たと。うわー、うわー……九条くん、それ、めちゃくちゃ気に入られてるよ」
翌日の作戦会議で、ジョーさんは雲呑麺を持ったまま頭を抱えた。
「気に入られてる?」
「黄さんが自分からフロアに降りるの、年に数回だもん。監視の世界の『社長がお茶を出しに来た』だから。……で、どうする? 黄さんの系列、しばらく避ける?」
「いや、逆だ。通う」
「出た、九条くんの逆張り。……理由は?」
「黄さんの武器は統計だ。なら、黄さんの店でだけ、本物の統計を渡してやる」
俺の作戦はこうだ。黄さんの系列店では、今後一切、能力を使わない。透視なし、心拍読みなし。正真正銘、ただの二十二歳の運と勘だけでバカラを打つ。黄さんの手元には「どこからどう解析しても、ただの客」のデータが積み上がっていく。稼ぎは他グループの店で出す。——もっとも、ジョーさんに説明したのは「黄さんの店では、素で打つ」というところまでだ。俺の「タネ」の中身を、この男はまだ知らないし、聞かない。
「天才か。監視の頂点に、ガチの凡人データを餌付けするのね……。でも九条くん、それってつまり、例のタネを封印してギャンブルするってことだよ? タネの中身は聞かないのが俺のポリシーだけど、それ、大丈夫なやつ?」
「何がだ。バカラなんて確率二分の一弱の遊びだろう。多少負けても経費で——」
——三時間後。
「……なんで、だ」
俺は黄さんの店のバカラ卓で、石像と化していた。
手元のチップ、開始時の四割。六割溶けた。
おかしい。プレイヤーとバンカー、勝率はほぼ半々のはずだ。なのに俺が張った側だけが、面白いように沈む。バンカーに張れば、プレイヤーが勝つ。学習してプレイヤーに張れば、今度はバンカーが勝つ。なんだこのゲームは。シューの中に、俺への悪意が入っているのか?
視たい。三十センチ先のシューの中身を、視れば全部終わるのに。目の前の霧を、俺は自分の意思で霧のままにしている。こんな苦行があるか。十三年の修行より、この三時間のほうが精神的にきつい。
「先生、今日は流れが悪いね。休みなさいな」
例のおばちゃん(この店にもいた。もう驚かない)が、俺の肩を叩いた。おばちゃんの罫線表を、俺は初めてまじまじと見た。びっしりと記された赤と青の丸。過去の出目から未来を祈る、数学的にはまったく無意味な表。
……三時間前の俺は、これを「信仰」と笑える側にいた。
今の俺には、その表が、荒海の羅針盤に見える。
「おばちゃん……次、どっちが来ると思う?」
「バンカー! 三連続で庄の流れだもの」
俺はバンカーに張った。負けた。おばちゃんも負けた。二人で天を仰いだ。信仰、敗れたり。
その夜、俺は計画どおり(想定の倍額だが)負けて店を出た。本日の収支、マイナス六十八万円。足が、ふらついた。金額のせいではない。俺は今日、生まれて初めて、ギャンブルというものを体験したのだ。
答えが視えない霧の中で、金を張る。心臓が跳ね、祈り、裏切られ、それでも「次こそは」と手が伸びる。……分かってしまった。これは、脳に直接くる。世界中の養分たちが、なぜ帰れないのか。カジノという建物が、なぜあんなに豪華なのか。全部、身体で分かってしまった。
帰り道、俺は夜のセナド広場のベンチで、しみじみとノートに記した。
教訓:ギャンブルは、視えない人間がやるものではない。
追記:視えない人間が全人類であることを、俺は今日まで実感していなかった。
……明日は他店で、しっかり回収しよう。答えの視える、俺の平和な日常に帰るのだ。
◇ ◇ ◇
——同夜。地下監視センター。
「主任、例の日本人、今日ウチで六十八万負けました。賭け方も滅茶苦茶です。途中から隣の常連の老婦人に助言を求めてました。……あの、もうシロでいいのでは?」
黄啓文は、モニターの中の若い日本人を見つめていた。霧の中で溺れる、ただの二十二歳。データは完璧に、凡人だった。
完璧に、だ。
「……なあ。おまえ、猫を飼ったことはあるか」
「は? いえ、犬なら」
「猫はな、飼い主が見ている時は、テーブルの上の魚に絶対に手を出さん。見られていることを知っているからだ」黄は湯呑みを置いた。「こいつは今、ウチの店でだけ、猫をやっている。つまり、だ」
黄は部下を振り返り、二十二年目の笑みを浮かべた。
「他所の店では、魚を食っている。——系列外のカジノに、非公式に照会をかけろ。私の名前でな」




