黄さん対策講座
翌日の昼、ジョーさんの「事務所」に招かれた。
事務所とは名ばかりの、雑居ビル四階のワンルームだった。壁一面にマカオ全カジノのフロアマップが貼られ、机には各店のチップのサンプルと、手垢で黒ずんだノートの山。九年分の観察記録らしい。うさんくさいが、仕事は本物のようだ。
「では、第一回・黄さん対策講座はじめまーす。教材はこちら」
ジョーさんがホワイトボードに、下手くそな似顔絵を描いた。角刈りの、眉間に皺を寄せた中年男。
「黄啓文、五十四歳。監視歴二十二年。奥さんと娘二人。好物は奥さんの作る蘿蔔糕(大根餅)。趣味は釣り。座右の銘は『カメラは嘘をつかない、客は全員嘘をつく』」
「敵ながら、いい座右の銘だ」
「でしょ? で、黄さんの怖さはね、イカサマの手口を見抜くことじゃないの。数字の不自然さを見抜くことなの」
ジョーさんはノートを開いた。びっしりと手書きの数字。
「カジノは全部の卓の全部の勝負を記録してる。客ごとの勝率、賭け金の推移、席を立つタイミング。黄さんはその数字を毎朝、蘿蔔糕を食いながら眺めるわけ。手口が分からなくても、統計的にありえない客は数字に浮く。浮いたら、あとは口実つけて出禁。カジノは民間施設だから、理由なんて『当店の判断』で十分なの」
「……手口の立証は、いらないのか」
「いらない。そこが兄ちゃんの誤算ね。『不正の証拠はない』は、この街では防御にならないの。『不自然』なだけでアウト」
なるほど。俺は認識を改めた。この街の敵は、監視カメラではない。統計だ。物理は掴めるが、統計は空間掌握できない。
「じゃあ講座の本題。九条くんの数字を『自然』に見せる方法、いっくよー」
ジョーさんの講義は三時間に及んだ。要点をノートにまとめる。
**一、勝率をさらに下げる。六割は「今月のラッキーな客」、五割五分は「ただの客」。以後は五割五分で運用し、賭け金の増減で利益を出す。**勝ちが視えている勝負だけ大きく張り、負ける勝負は最低額で参加する。勝率は凡人、収支は怪物。これなら数字の表面は静かだ。
**二、「キャラ」を作る。**黄さんの部下たちが映像を見たとき、「ああ、あいつね」で処理される人格を演じる。ジョーさんの提案は「彼女にフラれてヤケになってる日本人青年」。……おい。「泣きそうな顔で張ると説得力出るよ! 昨日わざと負けてた時の顔、最高だったもん」。あれは演技じゃないんだよ。
**三、勝ち金の出口を分散する。**換金所で毎晩大金を換えれば記録が残る。チップのまま持ち帰り、複数日に分けて崩す。
四、そして最重要——「たまに、黄さんの見ている前で、派手に負ける」。
「え、また負けるの?」
「また負けるの。しかも今度は演出付きでね。監視主任ってのはさ、自分の目で『こいつはただのバカだ』って確認できると、安心してリストから外すの。逆に確認できないと、二十二年の意地で追い続ける。黄さんに勝つ唯一の方法は、黄さんに『勝った』と思わせること」
……深い。うさんくさいアロハから、孫子みたいな戦略が出てくる。
その夜、俺は講座の実践に出た。舞台は黄さんのいる大手カジノ本店。ジョーさんいわく「今夜は黄さん夜勤の日。監視室のシフト表? そりゃ元同僚に決まってんじゃん、飲み仲間よ」。この男、雇って正解すぎる。
俺はバカラの卓で、「フラれた青年」を熱演した。
ため息をつく。スマホの待ち受け(急遽設定したフリー素材の女性)を見ては、また、ため息をつく。やけくそ気味にバンカーへ大きく張る——ここは視えている勝ちの勝負だ。勝つ。だが喜ばない。「金じゃないんだよ、俺が欲しいのは……」という顔で、勝ちチップを眺める。
隣のおばちゃん(三軒目でも会った。何者なんだ)が、俺の背中をさすってくれた。「先生、元気出して」。違うんだ、おばちゃん。俺は今、人生で一番元気だ。
仕上げに、最後の三勝負を、視えている答えの逆に張って盛大に負けた。例の魂の痛みに耐えながら、天を仰ぎ、席を立つ。今夜の収支、それでもプラス二十八万円。表面上は「大勝ちしかけて、最後に溶かしたフラれ男」の完成である。
◇ ◇ ◇
——同夜。地下監視センター。
「主任、例のAランクの日本人、本店に来てます。……なんか今日、様子が変ですね。失恋したっぽいです」
モニターの中で、若い日本人が魂の抜けた顔で天井を仰いでいた。部下たちの間から、小さな笑いが漏れる。「最後の三連敗、見ました? ヤケ張りですよあれ。ただの客ですって」
黄啓文は、蘿蔔糕の弁当箱を閉じ、画面に顔を近づけた。
若い日本人が席を立つ、その一瞬——負けたはずの男の目が、チップではなく、天井のカメラの位置を、なぞるように動いた。
……気のせいか?
「主任? リストから外します?」
黄は、しばらく黙っていた。それから、二十二年分のしわがれた声で言った。
「……ランクは維持だ。それと、調べろ。ここ数日、あの男の周りに、クビにした元ディーラーがうろついていないか」




