ジョーさんという生き物
マカオ五日目の夜、俺は裏路地の大排档(屋外食堂)で、海老雲呑麺をすすっていた。
観光客は来ない、地元民だらけの店だ。プラスチックの丸椅子、頭上には裸電球。カジノの豪華絢爛から徒歩五分で、この生活感。このギャップがマカオの好きなところだ。
「——お、日本人でしょ。その麺のすすり方、日本人」
突然、日本語で話しかけられた。
振り向くと、よれたアロハシャツの男が、ビール瓶片手に立っていた。年は三十代半ば。日焼けした顔に、人懐こい笑み。そして、堅気とも観光客ともつかない、絶妙にうさんくさい空気。
「相席いい? ここの雲呑麺、うまいよね。俺、週三で来てる」
返事を待たずに座った。おい。日本の楓といい、俺の周りの人間は、なぜ許可の前に着席するのか。
「城戸譲。みんなジョーさんって呼ぶ。マカオ歴九年。職業は——うーん、なんだろな。観光ガイドと、通訳と、なんでも屋?」
「……九条です。観光で」
「観光ね! はいはい観光観光」
ジョーさんはビールをあおり、それから、にっと笑った。
「で、観光客の兄ちゃんが、五日でいくら勝ったの?」
俺は雲呑を落としかけた。
「……なんの話です?」
「隠さなくていいって。俺、去年までディーラーやってたの。大手のバカラ卓で七年。だから分かるんだよね、カジノ帰りの人間の顔。負けた客は魂が抜けてる。勝った客は浮かれてる。でも兄ちゃんの顔は、そのどっちでもない——月末の経理の顔なんだわ。ああ、こいつ、勝ちすぎて管理が大変なんだなーって」
……この男、見た目の三倍、目がいい。
「ディーラーを辞めた理由、聞いても?」
「クビ! 客のばあちゃんが打ち間違えたの、こっそり張り直させてあげたのがバレた。監視カメラってすごいよねー、俺の人生九年分、全部映ってんの」
あっけらかんと言うことか、それは。だが、悪い辞め方ではない。少なくとも、客から盗ってクビになったわけじゃない。
ジョーさんは俺のグラスに勝手にビールを注ぎ(注文してない)、声を落とした。
「でさ、九条くん。忠告なんだけど——そろそろ黄さんに捕まるよ」
「……黄さん?」
「黄啓文。コタイ最大手の監視主任。この街のイカサマ師の天敵。カウンティングチーム、ルーレットの物理予測屋、ディーラーとグルの内部犯——二十二年で潰した数、たぶん三百超え。俺がクビになったのも黄さんの部署の映像審査ね。あの人、系列全店の『妙に勝つ客』リストを毎朝チェックすんの。五日で数百万勝ってる日本人の若造なんて、もうとっくにリスト入りしてるって」
……やはり、三日目のあのカメラは、気のせいではなかったか。
「仮にリスト入りしてたとして。俺は何も不正をしていない。カードに触ってもいないし、機械も仕込んでいない」
「うん、そこなんだよねえ」
ジョーさんは、雲呑を一個俺の丼から奪いながら(おい)、首をかしげた。
「七年ディーラーやった俺の目から見ても、兄ちゃんの手口が分かんないの。実は昨日、フロアで兄ちゃんの卓、後ろから三十分見てたんだけど——」
見られてた!? 認識阻害はカジノ内では切っている(カメラ映像に「映っているのに誰も覚えていない客」がいたら、そのほうが致命的だ)とはいえ、まったく気づかなかった。
「——カウンティングじゃない。バカラのカウンティングなんて誤差だし、そもそも兄ちゃん、罫線表も見ないでノールックで張るでしょ。ディーラーと目も合わせない。カードすり替えの動きもない。なのに、張った側の札だけ強い。……ねえ、兄ちゃん」
ジョーさんは、ビール瓶を置いて、真顔になった。
「未来でも視えてんの?」
「…………」
「あっはっは、冗談冗談! そんな顔しないでよ。ま、手品のタネは聞かないのが礼儀だよね。ディーラー時代の俺のポリシー」
冗談で済ませてくれたが、心臓に悪い。未来ではなく現在(シューの中身)が視えているだけだが、五十歩百歩である。
「……ジョーさん。一つ聞きたい。あんた、なんで俺に忠告を?」
「ん? そりゃあ、営業だよ」
ジョーさんは、揉み手をした。急にうさんくさくなった。
「俺、この街の裏も表も知り尽くしてんの。監視の癖、各店の換金限度、ジャンケットの相場、黄さんの好物まで。九条くんさ、このままソロで続けたら、一ヶ月以内に出禁か、最悪バックヤード行き。ガイド、雇わない? 日当五百パタカ+成功報酬で」
パタカはマカオの通貨だ。一パタカ、約十八円。つまり日当九千円。……種銭を増やしに来た街で、人件費の営業を受けるとは思わなかった。
だが、正直、悪くない話だ。俺には土地勘も、監視側の内部知識もない。敵の元中の人など、喉から手が出る人材である。問題は、この男が信用できるかどうか——。
俺は空間の振動で、ジョーさんの心拍を測った。営業トークの間、脈は一定。嘘の兆候なし。というかこの男、たぶん嘘をつくと顔に全部出るタイプだ。
「……日当三百パタカで」
「えっ、値切る!? そこは即決の場面じゃない!? あのね九条くん、マカオの日当相場、いま最低でも七、八百パタカだからね!? 物価、東京よりえぐいんだから!」
「知ってる。だから固定は安く抑えて、代わりに成功報酬を具体化する。俺が出禁もバックヤード行きも裏のトラブルもゼロで一ヶ月を乗り切るたび、ボーナス一万パタカ。あんたの仕事の成果は『俺の無事』だ。無事なら、固定の倍近く払う」
「固定給を削って、成果に連動させて、しかも評価指標まで設計してくる……あんた、本当にただの大学生!?」
「あと日当は三百五十で。雲呑一個の借りがあるだろ」
「うっ、それを言われると……よし、三百五十+成功報酬一万で契約! 九条くん、経理の顔してるだけあるわ〜」
こうして俺は、マカオ五日目にして、うさんくさくて目がよくて雲呑を奪う、最初の従業員を雇った。固定日当三百五十パタカ(約六千三百円)に、月次の成功報酬一万パタカ(約十八万円)。皆勤なら月収およそ二万パタカ、日本円で四十万近い。敵の元中の人への投資としては、破格に安い——俺が無事でいる限り、この男は俺の無事のために本気で働く。報酬設計とは、そういうものだ。
この判断が正解だったと知るのは、三日後——黄さんが、初めて動いた夜のことである。




