負けるが勝ち、でも負けたくない
マカオ三日目の朝。俺は安宿のベッドで、ノートに「事業計画」を書いていた。
手元の資金、約二百七十五万円。日本から持ち込んだ五十万に、初日八十五万、二日目百四十万の勝ち。順調——に見えるが、俺は昨夜、天井のカメラの一つが、俺の卓をやけに長く向いていたのを視認している。気のせいかもしれない。だが、イカサマ師の墓場と呼ばれるこの街で、「気のせい」に賭ける奴から死んでいく。
そこで、運用ルールを制定した。
一、カジノは六軒をローテーションし、同じ店には週二回まで。
二、一晩の勝ち額は百万円まで。それ以上は勝たない。
三、週に一度、「負ける日」を作る。
一と二はいい。問題は三だ。
その夜、俺は「負ける日」の初回興行に臨んだ。
バカラの卓に着く。シューの中を透視する。次はバンカーの勝ち。視えている。ここでプレイヤーに張れば、俺は負けられる。簡単な話だ。チップをプレイヤーに——
——置こうとした俺の手が、卓の三センチ上で止まった。
置けない。
なんだこれは。答えが視えているのに、わざと間違った選択肢を塗る。この行為が、俺の十三年に、俺の一万四千時間に、魂の底から拒否されている。
「先生、張らないの?」
隣の常連おばちゃん(二日目で顔見知りになった)が首をかしげる。俺は脂汗をかきながら、震える手でプレイヤーにチップを置いた。
バンカーの勝ち。俺のチップが回収されていく。
「…………ぐ」
膝の上で、拳を握った。分かっている。これは必要経費だ。保険料だ。偽装工作だ。分かっているのに、胸の奥で十三年前の小学生が泣いている。「答え、視えてたのに」って。うるさい、俺が一番泣きたい。
その夜、俺は計画通り四十万円を負けた。宿に帰り、ベッドに倒れ、天井に向かって宣言した。
「二度とやりたくない……!」
賭け事で勝つより、わざと負けるほうが精神にくる。世界で俺だけが知っている真理である。
翌日は休養日にして、観光に出た。世界遺産の聖ポール天主堂跡、砲台、石畳の坂道。エッグタルトを三個食い、ポルトガル料理の店でアフリカンチキンを平らげる。うまい。この街は、賭けなくてもうまい。
昼下がりの広場のベンチで、俺は日本の楓から届いていたメッセージを開いた。
『内定者課題、無事全部出した。えらい。ところで九条くん、SNSも更新しないで何してるの。生きてる?』
『生きてる。ちょっと旅行中』
『旅行? どこ?』
……マカオと打ちかけて、消した。営業経理部(予定)の女に、この街の名前を教えるのは、税務署に自宅の住所を教えるようなものだ。
『温泉巡り』
『また温泉!? どこの?』
『秘湯すぎて名前がない』
既読がついたあと、返信が来るまで、たっぷり一分あった。
『ふーん。帰ってきたら、その秘湯の場所、地図で指してもらうから』
怖いんだよ、おまえは。
◇ ◇ ◇
——同時刻。コタイ地区、某カジノ、地下監視センター。
百二十面のモニターが並ぶ薄暗い部屋で、監視主任の黄啓文は、一本の報告書を読み返していた。勤続二十二年。カードカウンター摘発数、局内最多。彼の同僚たちは陰で彼をこう呼ぶ——「疑うことしかできない男」。
報告書には、系列他店から回ってきた顔写真と数字が並んでいる。若い日本人。滞在三日。推定収支、プラス十二万——パタカではない、香港ドルだ。日本円にして、二百万を超える。
「勝率六割一分。ふん、ただのビギナーズラックの範囲だ」
部下がそう言って報告書を閉じようとした手を、黄は制した。
「……昨夜、この男は四十万円負けている」
「なら、なおさらただの客では?」
「負け方を見ろ。開始から終了まで、賭け金が一定だ」黄はモニターの録画を巻き戻した。「負けている人間は、必ず賭け金が乱れる。取り返そうと上げるか、怯えて下げる。二十二年、負ける客を百万人見てきたが——こんなに美しく負ける客は、初めて見る」
画面の中の若い日本人は、チップを回収されながら、なぜか歯を食いしばっていた。
「継続観察。顔認証をAランクに上げろ」




