第六話 不信と肉欲どちらも加速
不知火会長の猛攻を振り切り、逃げるように帰宅した俺は、真っ暗な自室で一人、荒い息を整えていた。
「……会長といい、内田といい、どいつもこいつも俺のパーソナルスペースを何だと思ってるんだ」
唯一の救いであるキャリバーンの滑らかな装甲を指先でなぞり、狂いかけた精神を研磨する。
だが、その静寂は唐突なインターホンの音によって無残に引き裂かれた。
モニターに映っていたのは、夜の帳が下りる直前の薄明かりの中、聖女のような微笑みを浮かべる斉木雫だった。
「……何の用だ。」
「今日のは、ちょっと『お話』したいから。……開けてくれないかな? 透くん」
モニター越しでも伝わる、彼女の瞳の異様な湿度。
拒絶すべきだ。だが、もしここで追い返して、彼女が近所に聞こえるような大声を出せば、俺の「平穏な空気」としての生活は完全に終わる。
俺は、最悪の選択だと自覚しながらも、玄関の鍵を開けた。
滑り込むように入ってきた雫から、放課後よりも濃密な、甘く重い香水の匂いが立ち込める。
「お邪魔します。……ふーん、ここが孤崎透くんの『お城』なんだ」
彼女は俺の制止も聞かず、狭いワンルームの奥、俺のベッドに腰を下ろした。
スカートの裾がわずかに捲れ、白い太腿が視界に飛び込んでくる。
(——ステップ一、密室における視覚的挑発。ステップ二、パーソナルスペースの強制的共有。……マニュアル通りだ。そう、全部こいつの演技に過ぎない)
脳内のフィルターが火を噴く勢いで解析を急ぐ。だが、目の前の雫は、これまでの「優等生」の仮面を脱ぎ捨てたかのように、トロンとした目で俺を見上げてきた。
「ねえ、孤崎くん。さっき不知火 凛と楽しそうだったね。……私、ちょっと、寂しかったかも」
「会長のことか、一方的に挨拶してきただけだが」
「その割には、透くん笑顔だったよ?」
『それはGプラに釣られただけなのだが』
「はぁ、もういいや」
彼女が俺の手を取り、自分の胸元へと引き寄せる。
「あ、おい!?」
柔らかな感触。高まる鼓動。
思春期の男子としての本能が、不信感という名の防壁を内側から叩き壊そうとする。
(ダメだ。信じるな。この柔らかさも、この熱も、俺を依存させて支配するための『装置』に過ぎない。ここで流されれば、俺はこいつの所有物になる……!)
「孤崎くん、顔、真っ赤だよ? ……心臓の音、ここまで聞こえる」
雫の指先が、俺の耳元から首筋へと這い上がる。
不信感と、肉欲。
二つのベクトルが俺の中で衝突し、メーターはもはや計測不能な領域へと振り切れた。
「……斉木、さん。君の狙いはなんだ。……いくら誘惑したところで、俺は君を『空気』としか——」
「嘘つき」
彼女の唇が、俺の言葉を塞ぐ寸前で止まる。
「君の目は、全然私を『空気』だなんて思ってないよ。……もっと、ぐちゃぐちゃにしてあげようか?」
その瞬間、俺は気づいてしまった。
彼女が名簿も見ずに俺の名前を知っていた理由。そして、なぜ俺に執着するのか。
この女は、俺の「不信」を壊そうとしているのではない。
俺が絶望し、誰も信じられなくなった果てに、自分だけを見つめるようになる「完成形」を待っているのだ。
加速する不信。暴走する本能。
聖域だったはずの部屋は、いまや最も危険な「戦場」へと変貌していた。




