第十一話 現金払いで皿洗い
焼肉の煙と熱狂が去った後、俺たちの前に置かれたのは、一枚の伝票だった。
そこに印字された数字を見た瞬間、俺の脳内演算能力は停止した。
「……おい、不知火会長。誰だ、『会長御用達の名店』なんて言ったのは」
「ふっ、おかしいな。私の計算では、カリスマ的生徒会長の威光により、会計は自動的にゼロになるはずだったのだが」
「なるわけないだろ! 飲食店をRPGの城か何かと勘違いしてんのか!」
財布の中身を掻き集めても、数千円足りない。
雫は「あ、ごめん……私、今日電子マネーしかなくて」と、明らかに嘘と分かる言い訳で財布を隠し(透に貸しを作らせる、あるいは困らせるための高等戦術だ)、灰原にいたっては「お肉、美味しかったですね……」と、すでに魂が抜けたような顔で食後の余韻に浸っている。
結局、店長という名の「中ボス」に呼び出された俺と会長は、厨房の奥へと連行された。
「いいか、今の若者は根性がないって言われないように、きっちり洗ってもらうぞ!」
渡されたのは、油ギトギトのゴム手袋と、山のように積まれた皿の山。
俺、孤崎透。高校生活十一日目にして、人生初の強制労働に従事することになった。
「くっ……ステップ一、まずは予洗いによる油分の除去。ステップ二、洗剤の界面活性作用を利用した精密洗浄。……効率だ。効率を上げなければ、俺の夜のガンプラタイムが削られる」
俺は、普段プラモデルのパーツを洗浄する時と同じ、病的とも言える手際の良さで皿を捌き始めた。
「おお! 見たまえ孤崎くん! 私のこのダイナミックな洗浄フォームを! 皿が……皿が、私のカリスマ性で砕け散ったぞ!」
「割ってんじゃねーよ! 給料から引かれるだろ!」
会長が洗剤の泡を撒き散らしながら暴走する隣で、俺は必死に皿を死守する。
不信感どころではない。これは、生存戦略だ。
「……ねえ、透くん。頑張ってるね」
厨房の入り口から、雫がひょっこりと顔を出した。
彼女は手伝う素振りも見せず、エプロン姿で必死に皿を洗う俺を、まるで珍しい動物を見るような目で見つめている。
「……見てないで助けろ」
「うーん、でも、一生懸命な透くんの背中、すごく素敵だよ? 普段の『不信感フィルター』が、汗と泡でちょっと剥がれてる感じ」
「剥がれてない! むしろ、この理不尽な状況で、俺の『大人(店長)への不信感』は最高潮だ!」
雫はクスクスと笑いながら、俺の頬に付いた泡を指先でそっと拭った。
その瞬間、鼻を突く洗剤の匂いの中に、彼女のあの甘い香りが混じる。
「……っ」
「ふふ、心拍数が上がったね。皿、落とさないように気をつけて?」
(——こいつ、わざとだ。俺が両手を使えないこの瞬間を狙って、心理的防御を無効化しにきている。……なんて計算高い、卑劣な女なんだ!)
一方、背後では灰原が「あの、店長さん……まかないの余りとか、ありませんか?」と、いつの間にか厨房のスタッフと仲良くなって、余ったタルトをちゃっかり食べている。
「……なんなんだ、この打ち上げ……(n回目)」
三時間後。
ようやく解放された俺の手は、洗剤でガサガサのガビガビになっていた。
期待は裏切られる。
会長は皿を割る。
雫は見てるだけ。
灰原は食べてるだけ。
夜の札幌の風が、火照った体に染みる。
「孤崎くん、お疲れ様! 君の皿洗いスキルには感服した。次回の生徒会合宿の炊事担当は君で決まりだ!」
「二度と行くか!」
加速する不信。止まらない皿の山。
俺の高校生活という名の「無理ゲー」は、まだ序盤のチュートリアルすら終わっていなかった。
「……帰って、ガンプラ……」
俺は力なく呟き、暗い夜道を歩き出した。背後から聞こえる雫の「明日は、私が手をマッサージしてあげるね」という不吉な予言を聞き流しながら。




