第八話 令和の時代に落とし穴!?
斉木雫が差し出した手。
その白く細い指先を、俺は一瞥してポケットに突っ込んだ。
「……自分で歩ける。先導だけしてくれ」
昨夜の「襲来」を考えれば、不用意に触れるのは自殺行為だ。俺の脳内フィルターは、彼女の差し出した手を『脱出口への切符』ではなく『依存への鎖』と認識し、最大警戒レベルの赤色灯を回し続けている。
「ふふっ、相変わらず手厳しいね。でも、そういうところも素敵だよ、透くん」
雫は全く堪えた様子もなく、暗い廊下を迷いなく進んでいく。
その後ろを、俺、そして「お腹空いたー」と嘆く不知火会長、俺の制服の裾を離さない灰原もかが続く。
(——おかしい。なぜ昨日今日入学したばかりの彼女が、旧校舎の裏ルートを熟知している? 事前のリサーチ? あるいは、俺をここに迷い込ませるために、最初から松岡(教師)や不知火会長を誘導していたのか……?)
不信感が理論の皮を被り、加速する。
だが、その思考は突如として遮断された。
「あ、危ない!」
先頭を歩いていた雫が声を上げた瞬間、足元の古い床板が、まるで生き物のように跳ね上がった。
「うわあああ!?」
叫んだのは会長だった。
いや、俺もだったかもしれない。
旧校舎の朽ち果てた床が、湿った音を立てて崩落する。いわゆる、物理的な『落とし穴』だ。
落下。
だが、俺の体は冷たい床ではなく、何かもっと柔らかいものの上に倒れ込んだ。
「……っ、痛……大丈夫? 透くん」
すぐ下から聞こえる、吐息混じりの声。
暗闇の中、俺は雫を押し倒すような形で重なっていた。
(——ステップ一、偶発的な事故による身体的接触の強制。ステップ二、自己犠牲を演じることで相手の罪悪感を刺激する心理トラップ。……いや、待て。今の落とし穴、あまりにタイミングが良すぎないか!?)
密着した体から伝わる、彼女の鼓動。
暗闇の中で、雫の瞳が妖しく光る。
「……まさか、これも計画のうちか。俺をここに落とすために、床に細工を……」
「ひどいな。……でも、正解だよ。この床、実は私がさっき『ちょっとだけ』緩めておいたんだ」
耳元で囁かれた、確信犯的な告白。
背筋に凍りつくような悪寒が走る。
彼女は、俺を助けるために来たのではない。
俺を「自分がいなければ生きていけない状況」へ叩き落とすために、ここにいたのだ。
「落とし穴に落ちて、頼れるのは私だけ。……ね? 不信感なんて、全部私の熱で溶かしてあげる」
その時、上から不知火会長の能天気な声が降ってきた。
「おーい! 二人とも生きてるかー!? 今、灰原くんが近くにあった『埃まみれのロープ(自称:伝説の聖縄)』を拾ってきたぞ!」
「……っ!」
俺は弾かれたように雫から離れた。
期待は猛毒。
救済は罠。
そして、この斉木雫という女は、俺の不信感すらも『餌』にして加速させていく怪物だ。
「……誰得なんだよ、こんな学校行事!」
吊り上げられるロープに掴まりながら、俺は心の中で叫んだ。
脱出した先には太陽の光があるはずなのに、俺の視界は、隣で微笑む彼女のせいで、より深く暗い色へと塗りつぶされていく。
加速する不信。
俺の心に空いた落とし穴は、床のそれよりも、ずっと深かった。




