死臭③
「予想外の状況だ」
腐敗臭を身に纏って戻ってきた無頼とミロシュを出迎えたのは、鼻を押さえたベロニカと顔を顰めるロック、そして見覚えのない獣人の子供の三人であった。マニトバまでが二人に向き合わず尻尾を向けている。
パッと見で性別は分からないが、その獣人の子供もベロニカと同じく無頼とミロシュの臭いにひどく参っているようで、鼻を押さえて首を左右に振っている。
確かに腐敗の始まったバラバラ死体と空間を共有した二人の体には臭いが移っていたが、身に染みる程の腐敗臭を連れて来た主な原因は素手で投げ入れていた無頼である。
逼迫した状況に、涙目のベロニカは村の一角を指差し懇願する。
「ぶりゃい、みりょ、井戸があっちに、臭い落としてきて……」
「そんなに臭うか?」
「くんくん、特に臭いなんて……って、けほっけほっ! しますね、うわぁ……」
鼻が利いているのかすら怪しい無頼と違い、ミロシュは纏った臭いに苦い顔をして上着を脱ぎ始める。
たわわな胸が薄着の下で揺れ、周囲――但し無頼を除く――の視線が釘付けになる。明らかに関心は異臭からそちらに移っていたが、ミロシュはさして気にすることなく無頼の腕を掴んでベロニカの指差す方向へ歩き始める。
「風魔道術で無理矢理落とせますが、無頼さんはまず手を洗うべきですね」
「ならまずは手を離してくれ」
「あっ、すみません……」
「謝る程じゃない。お前の手が汚れて困るのはお前だけだぞ」
「……そうですね、どうせ私も洗おうと思っていました。問題ありません。ええ、何も問題ありませんとも」
二人は井戸に辿り着く。
ミロシュは早々に二節の詠唱を終えて準備を済ませ、無頼は不慣れな手つきで井戸から水を組み上げる。一杯目は二人が手を洗う用の水で、二杯目はミロシュの魔道術用だ。
無頼は伸び始めた頭の髪の毛を掻きながら、ムッとするミロシュに水の張った桶を差し出す。
二杯目の桶を受け取ったミロシュは代わりに上着を無頼に渡して、水面に移った自分の顔を眺める。
「どうした、機嫌が悪いのか?」
「いいえ、気にしなくていいです。私の中で完結してるので」
「ならムスッとしない方が良い。俺はどんなお前でも気にしないが、いつものようにツンと澄ましている方がお前らしいぞ」
「はあ……、露骨に持ち上げてきますね」
「褒められて不機嫌になる奴はいないからな。まあ、半分は冗談だ」
「残り半分は?」
「秘密だ。それより早く綺麗になって戻ろう」
「そうですね。――――《滔々たる風に乗り、清純よ来たれ》」
ミロシュが最後の一節を口遊み魔道術を発動させる。旋風が桶の水を巻き上げ二人を包む。まるで洗濯機の中に放り込まれたようだと無頼は目を閉じ息を止め、水流を耐える。
数秒経って水流が小さな水滴に変わり霧散すると、今度は乾燥した旋風が躰と衣服を巻き上げる。
「げほっ、げほっ」
「大丈夫ですか? 乾いてますよね? 無頼さんが前に話していた『せんたっき』ってのをイメージしてやったんですが……、どうです?」
「ああ、髪と上着はちょっと湿っているが、後は問題なさそうだ。鼻の穴まですっきり爽快、ただ俺の言った洗濯機は人間をそのまま洗う物じゃないぞ」
「お、憶えていますよ! でも躰に染みついた臭いを落とすには躰ごと洗うしかないじゃないですか」
無頼は上着に残った水分をバッサバサと振り払い、ミロシュに返す。
ミロシュは上着を羽織り咳払いをすると、ベロニカたち三人が留まっている方を向く。
「あの獣人の子供、どう思います?」
「臭うな。俺たちとは違った意味で」
「真面目に尋ねてるんですが……」
「俺は真面目に答えたぞ。このタイミングで疑う気持ちは当然だ。だが、ならばこそだ。人の消えた村で立ち止まり、死体を見つけた俺たちの前に出てくる奴の目的は何だ? 噂が広まらないよう、襲撃のタイミングを仲間に教える役割でも担っているのか? いいや、俺ならそんなことはしない。密偵など送り込まず、道中の森に潜み襲い掛かる。奴らはロックのパーティを打ち負かしている。小細工なんて必要ない。俺たちは強い、と少なからず考えている筈だ。人間なんて恐れはしない」
「魔獣……の知能は、それほど高くない筈ですよ。長い月日を経て、魔力を蓄えた魔獣ならば獣人に変化することも出来ますが、確かに、そんな貴重な存在が最も危険な場所に飛び込んでくるとは思えませんね」
「相手が俺たちの想定を超える馬鹿ではない、との前提が必要だけどな」
無頼は歩き出す。
「だが、前提はあくまで前提だ。偶然他の村に出掛けて戻ってきた村の子供かもしれない。偶然物陰に隠れてやり過ごしたのかもしれない。偶然通りがかった余所の村の子供かもしれない。俺たちのような旅人の可能性も捨て切れない。考え出したらキリがない」
「魔道士なら、外見年齢を誤魔化せますからね」
「そうだ。だから想定は想定のままで断定はせず、怪しいなと思う程度でいい。ロックも同じだ。俺たちは自分の目で見て自分の頭で判断するしかない。他人の言葉は所詮他人の言葉。信頼できるのは自分と、自分の隣に立っている奴までだ」
「なるほど」
ミロシュはポンッと手を叩く。
「無頼――とは、多くの人に頼らない自身の信条と重ねて選んだ名前なんですね」
「思い出せないが多分、短刀に刻んだ時の俺はそうだったんだろうな。誰にも頼らず、誰にも頼らせない。信頼出来るのは自分と、鍛え上げた自分の肉体だけ。慢心を煮詰めた鍋の底からは、きっとそんな言葉が出てくるだろうさ。他にも無頼にはならず者や放蕩者なんて意味もあるが、まあ、そっちの可能性も無きにしも非ずだ」
「ならず者にしては、無頼さんはかなり律儀ですよね」
「人並みには、だけどな」
「ふふっ、人並みには、ですね」
無頼とミロシュは並んで三人の元に辿り着く。
待ちくたびれたベロニカ、疲労を色濃く浮かべたロック、緊張した面持ちの獣人ラウトに迎えられ、無人の村を後にした。
一行が村のあちこちに付けた小さな足跡の近くには大きな獣の足跡が並び、数日経過したものから真新しいものまでありありと残っている。
足跡は森に入る向きだけではなく、一行の次の目的地、ウォルデン村の方向にも数多く刻まれていた。
「熊だにゃあ……」
「ああ、想像以上にずっと熊っぽいな」
「というか、本物の熊なんじゃないですか?」
太陽が傾き、夜の帳が降りようと現れ始めた時間帯、ウォルデン村へと続く小道の先から、一頭の獣が現れた。灰色の体毛には真っ赤な夕日に負けない赤色が塗りたくられていて、遠目でも分かる鋭い爪に二メートルを超える体躯を持つ獣は、荒れた息を整えることなく一行の方向へと駆けてきた。
「あいつだ、あいつ! あいつが魔獣だ!!」
「灰色熊、とても危険!!」
呑気に構える三人と違い、その脅威を目の当たりにした経験のあるロックとラウトは出会った不運を叫ぶ。
しかし灰色熊が近づくにつれて、灰色の体毛を染めた赤色が返り血でなく、出血によるモノだと分かる。進行速度もあまり速くない、手負いの獣だ。
マニトバの手綱を握ったベロニカは、目を輝かせる。
「ミロ、また無頼の言ってた方法試してみよっ!」
「あの技名叫ぶ奴ですか? アレは速いんですが、どうも威力の抑制が難しいのと消費魔力が桁違いなので普通に詠唱した方が良さげでした。緊急事態ならまだしも、今はちょっと嫌ですね。恥ずかしいですし」
「ええー、格好良かったよ。エアスゥラァァッシュッ!! って」
「エアカッターだったぞ、ローニャ」
「そだっけ? ミロ、エアカッタァァッ!!」
「うう……真似しないで……」
恥ずかしさが込み上げ顔を押さえるミロシュの横で無頼が冷静な突っ込みを入れる。
ベロニカは特に気にした風もなく笑顔でミロシュの詠唱を真似ているが、魔力核が破損しているベロニカでは魔道術は発動しない。
手負いの灰色熊は遠慮なく距離を詰め、警戒心も何もない三人に襲い掛かる。
「なら、今回は俺がやるぞ」
無頼が一歩前に出て『亡霊挽歌』を抜き放ち、そのまま振り抜いた。
紫の刃先と荒い爪が交錯する。
キンッと乾いた音が響いたかと思うと、灰色熊の腕が滑り落ち鮮血が吹き荒れる。
激痛に身悶えする灰色熊は何が起こったのか理解出来ずに悲痛の叫びをあげる。
目の前にいるのは自分の爪が襲った相手――今まで多くの生物を裂いてきた爪を振るって尚、平然と立ち続ける相手である。
森の王者たる灰色熊は、初めて木々に囲まれた場所で恐怖を感じる。
振るった右腕は体から離れ、足元に転がっている。
「悪く思うな」
咄嗟に逃げ出そうと捩った首筋に、『亡霊挽歌』の尖端が迫る。木の枝を沼地に差し込むように灰色熊の首筋に吸い込まれた刀身は、瞬きの間に再びその輝きを見せ、真っ赤な雫を撒き散らす。
灰色熊の頭部は仰天したまま転がり、首から上を失った胴体は痙攣を続け、程なくして止まる。
「これが魔獣か? 普通の熊だぞ」
無頼は『亡霊挽歌』に付着した血を蒸発させ、粉状となった灰色熊の血を振り払うと鞘に収める。
呆然と無頼の斬撃に見惚れていたロックは我に返ると、無頼の疑問にどう答えるべきか頭を抱える。思わず叫んでしまったが、間違えました実は魔獣ではありませんなど、若手とはいえ上級冒険者であるロックは漏らせなかった。
「そいつ、魔獣じゃない。魔力、持ってない」
そんなロックの代わりにラウトがはっきりとした口調で答える。
銀髪蒼眼、ベロニカと同じくらいか少し低い背丈しかない少年(ここでは男女の区別のない子供を意味する)は、鋭い視線で動かなくなった灰色熊を睨んでいた。
同じ背丈に似た銀髪のベロニカとラウトは字面では区別が付かない。だが実際に並んで比べてみるとそれなりに違いがあると分かる。
まずベロニカが銀に白を混ぜていった明るい白銀色なのに対し、ラウトの銀髪は黒ずんで暗い銀色だ。くるくると毛先にクセの付いているベロニカとは真逆に、ラウトは毛先まで真っ直ぐ垂れてさらさらと風に揺れている。
そもそも頭に乗った三角耳がまるで違うのだから間違えることはない。ベロニカはネコ科の獣耳で、ラウトはイヌ科の獣耳。そうやって無頼は無理矢理差別化を行っていた。
「でも、臭いはする」
周囲に満ちる鉄錆臭に構わずラウトはくんくんと鼻を動かす。
無頼がその様子を眺めていると、視界の隅でベロニカの背中が揺れる。ビクリと反応したかと思うと、ラウトを真似てわざとらしく臭いを嗅ぐ仕草を行う。
アイデンティティの危機を感じているのだ。
「うん、確かに芳醇にゃ香り」
「ローニャ、無理に張り合わなくても……」
「にゃっ、にゃんのこと!?」
ミロシュが呆れて首を振る。無頼やロックが向ける視線も心なしか同情が詰まって重めである。
ラウトの言った魔力の臭いとは比喩表現で、実際に何らかの臭いがする訳ではない。魔道術を修めているミロシュやロックは勿論、無頼でもそれは分かる。
ミロシュはシュンと項垂れるベロニカの隣を離れ、灰色熊の死体に触れる。
「ただ、残滓が逃げない内に調べてみる価値はありそうですね。《我が指先はマナ。魔力を同化し吸い上げよ》」
周囲の環境マナがミロシュの指先へ――もっと言うならミロシュの身体全体に引き寄せられ、消えていく。灰色熊の死体に留まった魔力はすぐに枯渇して、生命の輝きは消え失せ石のように硬くなる。
ミロシュが顔を上げて眉根を寄せ、報告を心待ちにした四人の視線が集まる。
「無頼さん、ここの、胸の辺りを浅めに斬ってください」
ミロシュの要請に応え、無頼は魔剣を滑らせる。
ぱっくりと口を開いた灰色熊の胴体からはドロっとした血液が流れ、赤黄色の筋肉と脂肪が見え、――水晶のような、透明な鉱石が覗く。
「これが……」
「残念ながら魔力核ではありませんよ、無頼さん。普通の魔石です。いえ、魔石なんですが、これは……」
期待に目を輝かせる無頼にミロシュが違うと断りを入れる。しかし続く言葉は歯切れが悪い。口外に出来ない、もしくは言葉にしたくない何かがあるのだろうと無頼は察する。
ベロニカに知られたくないことか、ロックとラウトに知られたくないことか。話し言葉は小声だが、獣人の聴力を前に声量の大小は意味を成さない。
ミロシュは無頼に目配せし、無頼は頷いて応じる。
「あと少しで村に着く。急ごう。日が落ちる前に辿り着かないと外で野宿になるかもしれんぞ」
一瞬、ベロニカの目が鋭い輝きを帯び、無頼の心臓はびくりと鼓動する。
改めて見返すとベロニカはロックと同じく長時間歩行による疲労に喘いでいるだけで、ラウトのように周囲に警戒心を剥き出しにしてはいない。
(何か見落としがあるのか……?)
無頼は思い悩むが、心当たりはまるでない。
ベロニカとの距離が心一つ分離れている事実に無頼が気付くのは、まだ当分先である。




