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新たな風




 戦後処理で大騒ぎのオレーサの街並み、その一角に佇む『馬の蹄亭』で眠っていたミロシュは、ふと衣服の裾を引っ張られるようにして現実世界で覚醒する。

 体の節々が痛い。筋肉痛と打撲裂傷、心当たりは幾つかあるが、頭に鈍痛は残っていない。魔力の過剰使用による過負荷は消え、後遺症も見る影もなく治まっていた。

 思考はすっきりとはいかない。我ながら目覚めが良くないからだとミロシュは知っていた。仮に快調な目覚めであったなら、自分はまだ夢の中ではないのかと頬を抓っていただろう。


「…………」


 重い身体を起こしたミロシュは、部屋の片隅で本を広げる無頼を見つける。

 躰の線が細く見えて、長身と引き締まった肉体で誤魔化している。脱いだら実は筋骨隆々なのだと知っているミロシュは、どうにも本を読む無頼に違和感を抱く。

 この世界で、筋肉と本は結びつかないのだ。

 筋肉を必要とし蓄えるのは力仕事を行う農夫や騎士であり、彼らの大多数は書籍とは無縁の生活を送っている。中には例外も存在するだろうが、書籍とは高価なもので、道楽で読み漁れる自由は庶民に与えられていないのだ。


「起きたか」


 無頼は目を覚ましたミロシュに気付く。


「何日、私は寝てましたか……?」

「三日だ」

「そんなに……」

「ああ、ぐっすり寝ていた」


 無頼は本を閉じると立ち上がり、ミロシュの元まで歩み寄る。

 何処から借りてきたのかは分からないが、古ぼけた本の表紙には医学書と思われるタイトルが書かれ、それを手にした無頼からは並々ならぬ決意のような何かが伝わってくる。


「どう……しました……?」

「上着を脱げ、ミロシュ」

「はい?」


 何を言っているのだ、とミロシュは自身の耳を疑う。

 しかしよく考えてみると最後に意識を保っていたのはオリンピアの魔力核が目の前で粉砕した時で、今自分が身に付けている衣服はその時の物ではない。濡れた衣服のまま寝かせては体調を崩すだろうとの配慮を感じたが、では着替えを誰が行ったのかという疑問は残る。


「い、いえ! だいじょうぶ……です……」


 ミロシュは顔を真っ赤にして掛布団に突っ伏す。

 よく考えなくても、仕立て人が誰かは瞭然である。オレーサの街でミロシュの知り合いは少ない。いや、ほぼいないと言っても過言ではない。無頼とベロニカ、そしてリルエットの三人で、加えるとしてもラレードと宿屋の亭主が関の山だが、考慮の必要はない。

 消去法は偉大だ、とミロシュは苦悶する。

 隻腕のベロニカは意識のない誰かの衣服を剥ぎ取り、着せるなどの作業は出来ない。リルエットも一糸乱れぬよう衣服を整える几帳面さは持ち合わせていないだろう。

 無頼とベロニカが見知らぬ他人に着替えを頼むとも思えず、ならば誰が着替えさせたのか、残された候補は一人しかいない。


「大丈夫じゃないぞ。早く脱げ」

「うう……、無頼さん、見ました?」

「診た。肋骨は折れてはいないが何本かに罅が入り、痣や内出血は数えるのを諦めた。裸を見られた、と恥ずかしがる気持ちは分からんでもないが、……痛みはないのか? かなり汗もかいていた。吐き気はどうだ? 包帯を変えるついでに汗を拭いてやろうか?」

「だいじょうぶです……」

「ならいい。飲み水と布巾を持ってくるから、後は自分でやってくれ」


 そう言い残した無頼は濡れた布巾と包帯を枕元に置き、部屋から出て行こうとドアノブに手を掛ける。

 無頼に言われて初めて体の痛みを自覚したミロシュは、カラカラになった喉から声を捻り出して無頼を呼び止める。


「ローニャは何処か? 何を言っているんだ。ローニャはそっちで寝てるぞ」

「えっ?」


 無頼は部屋の片隅を指差した。そこにはベッドが置いてあり、掛布団の下は確かに一人分の膨らみがある。耳を澄ませばスヤスヤと寝息が聞こえ、時折ゴホゴホと咳き込んでいる。


「雨の中、ああも動き回れば風邪をひくに決まっている。軽度の肺炎を発症しているかもしれない。効きそうな薬は無かったから、果物や栄養の豊富な食事、休養で無理矢理治すしかないな」

「そうですか」

「二人とも、数日は絶対安静だ。雑事は俺に任せて、柔らかなベッドを満喫しろ」

「雑事……とは?」

「ここに長く世話になるかもしれないからな。亭主に宿屋の手伝いを申し出た。今は昼と夜、厨房に立って料理を作ってる。意外と器用だ。手際が良い。見かけによらず味は繊細だ。まあ、結構な言われようだが、三人分の宿泊費と食費くらいは賄えている」

「上手でしたね、そういえば」


 ミロシュは隠れ家の食事を思い出し、納得する。味付けは濃くはないが深みがあり、食材は一口サイズに切り分けられて煮崩れもない。記憶が無くても身体が覚えているのだから、料理は日常的にやっていたのだろうと無頼本人は言っていた。


 ぐぅ……。


 ミロシュのお腹が鳴る。料理の記憶が体の飢えを誘発したのだ。

 恥ずかしさで顔が熱くなり、ミロシュは無頼の反応を窺う。何も聞いてないぞと言わんばかりに無頼は顔を背けるが、その気遣いが余計に気恥ずかしさを増大させる。

 ミロシュは別の話題に持っていこうと辺りを見渡し、ふと、枕元の古本に気付く。


「無頼さんは医術の心得もあるんですか?」


 傷口には軟膏の臭いが残り、包帯は痛んだ箇所を固定するようにして巻いてある。矢鱈に巻きたがる素人の処置と違い、適切で最低限、動き易さも考慮しての処置は専門的な知識なしでは成し得ない。


「知識はある……が、実践した記憶はない」

「器用ですよね、無頼さんって。戦えて、料理が出来て、傷の治療まで。体力があって算術も出来て、躰は頑強。記憶を失う前、どんな職業に就いていたのか気になりますね」

「下らないことを言ってないで、横になってろ」

「適当にあしらわないで、話し相手になってください。ローニャも寝てますし、無頼さんしか居ません。三日も寝ていたんです。外がどうなっているのか、気になるんです」


 無頼は懐中時計を開き、現在時刻を計算する。

 一日が二十四時間で回っていないこの世界で、短針一周で十二時間を知らせる時計は曲者と化す。日の出日の入、昼夜食の時間を憶えていて逆算しなければ、大まかな生活のリズムを知ることすら適わない。もっとも他者の気分次第で生活のリズムは変動するので正確(・・)を知ることは端から無理なのだが、最低限の指標はあっても困らない。


「教えてください」


 ミロシュのいつになく積極的な態度に無頼は眉根を寄せる。

 上気する頬にトロンと蕩けた瞳。暫しの間、黙して考えた無頼は、ああ、とある可能性に気付き、ミロシュの傍に歩み寄る。


「良いことを、教えてやる」

「はい」

「ミロシュ」

「……はい」

「教えてください、なんてベッドのある部屋で男に言うもんじゃない」


 そして起き上がったミロシュの上体を優しく押し倒し、茹で上がった額に自身の額を当てる。

 お互いの呼吸が聞こえる距離。

 ミロシュの瞳には、無頼の瞼しか映っていない。

 一呼吸ごとに心臓が跳ね上がり、熱が体の隅々に広がっていくのを感じる。

 無頼の大きく暖かい手が自身の両肩を押さえ、凛々しい瞳と唇は僅か数センチの場所に留まっている。この体勢がどういったものか、客観性など持ち合わせていなくても想像に容易い。


「ミロシュ」

「わぁ、ひゃ……」

「やはりお前も熱が出ているな。体を冷やさないよう布団を肩まで被り、しっかりと横になって休め」


 無頼は今度こそ振り返ることなく部屋から出て行った。

 身を案じる態度を変えない無頼にミロシュは途端に冷静さを取り戻す。

 火照って高揚した気持ちは嘘のように消え、熱を伴わない気恥ずかしさが鈍った思考を回していく。

 別人格がすぅーっと身体から抜けていくように、ミロシュは自身の言葉を分析する。

 男、女、ベッド、教えてください……。


「うう……」


 今胸中に渦巻いている感情は、安心か屈辱か、どちらであるのかをミロシュは判別できなかった。ただ自分がベロニカと同じく子ども扱いされているのだと知り、湧き上がる眠気には抗えない強敵だと薄れる意識で考えていた。


 そしてミロシュが目を覚ました時には既に無頼とベロニカの姿は部屋になく、枕元には柑橘系の果物と中身の詰まった水筒が追加されていた。

 外は暗く、他にはメモも何もない。

 のどを潤したミロシュは全てが夢だったのではないかと現実から目を背ける。しっかりと整えられた衣服と言葉なきミロシュの要望に応えた水や果物――夢ではないという決定的な証拠を前にしても、ミロシュは目を逸らし続ける。


「夢で、いいんです」


 夢として忘れてしまえば、普段通りに無頼と接することが出来る。

 全てを無かったことにしてしまえば、無頼に感じた妙な想いも意識しなくて済む。

 ミロシュはそう心に区切りを付け、仲間の待つ一階に向け一歩を踏み出した。




 オレーサには商業区や行政区、居住区のどれにも属さない地区がある。住民や兵士は寄り付かず、訪れるのはごく一部の商人と官僚ばかりである。

 そこは高級官僚や王都からの派遣武官、特権商人が暮らす豪邸が建ち並び、オレーサが攻略したら真っ先に略奪に晒されることから『松明の丘(トーチ・ヒル)』と揶揄されている区画である。

 豪邸の建ち並ぶ『松明の丘(トーチ・ヒル)』の中で、一等豪奢で堅牢な造りをした屋敷には、オレーサと近隣を統べる貴族が暮らし、行政とは別に執務を行っている。


「何か御用ですか、ハレル伯爵」

「固いな、リーウット。楽にしてよい」


 ハレル伯爵は、恰幅の良い中年の貴族である。国境周辺を統べる領主だけあり貫禄が身に付いており、爵位を継いで十数年、順調に領主としての実績も重ねている。

 小太りの見た目は兎も角、中身は物語に出てくるような悪徳貴族とは程遠く、重税の取り立てもなければ私兵を使った横暴も働かない。爵位を継ぐ前には指揮官として隣国(ネブラスカ)と戦った経験もある。王都で政治に夢中になる貴族が多い中、そちらに目もくれずにオレーサの発展に尽くしている。

 それが市民から見た、オレーサ領主の姿である。


「戦果の報告を、今一度聞かせてくれ」


 ハレル伯爵はリーウットを座らせる。柔らかなソファーは座り心地が良く、何気なく行う些細な気回しが出来るのは、生まれ持った才覚であるとリーウットは知っていた。

 しかしどうしても、リーウットはこの男が好きになれなかった。

 リーウットは貴族でなく平民出身の軍人である。王の命令で国境の街に赴任してきたリーウットの肩書は将軍であり、最前線に送られるのは軍人として名誉であると心から思っていた。

 そしてハレル伯爵は、平民出身で年の頃は同じの自分を疎むだろうと赴任当初のリーウットは踏んでいたが、待遇は真逆であった。連れて来た騎士団を良く労い、季節の変わり目には忘れず豪奢な食事を振舞う。リーウットが願い出た装備の新調には決して首を振らず、寧ろ積極的に行った程だ。

 軍隊の維持費は所詮無駄金だ。国境の街とはいえ、今回のような大規模戦闘は数年に一度起きるかどうかである。領主にとっては如何にして軽減するか、それを考えるだけで一日が終わると言われている。

 しかしハレル伯爵は真逆で――それがリーウットには恐ろしかった。

 何か裏があるのでは、と勘繰ってしまうのだ。


「捕虜が四百人か。ふむ、内重傷者は八十六人だったか」


 数年前から予感は現実となり、リーウットを苛んでいた。


「今朝二人に死んだので八十四人です」

「死なせているのか。……ふむ、なら重傷者は私が引き受けても構わんかね?」

「ネブラスカに送り返せば良いのです。怪我人など囲っても仕方ないでしょう」

「それは君が判断することではないよ。魔道士協会の治癒魔道術を発展させるには怪我人が要る。俺としても敵国の兵士を無闇に死なすのは好まん」


 欲しいのは怪我人じゃなく実験体だろうに、とリーウットは心の中で毒吐く。

 リーウットの抱いた警戒心は、巧妙に隠匿されたハレル伯爵の容赦ない懐柔政策を見抜いていた。しかし察しの良くない者たちは金を惜しまないハレル伯爵の懐柔に応じ、本人が気付かぬ間に新たな金脈の掘り手に成り変わっている。

 ネブラスカとの国境に存在した売春村も、大方こいつの仕込みだろうとリーウットは当たりを付けていた。残念ながら簡単な調査では証拠が出ず、ネブラスカの行軍で全てがうやむやで終わってしまったのが更にリーウットの推測に拍車を掛けていた。


「……分かりました。騎士団を数名割いて護送させます」

「いいや、必要ない。俺の私兵を動かす」


 ハレル伯爵は立ち上がろうとしたリーウットを手で制す。ピクリと瞼が揺れる。不機嫌はギリギリで抑え込み隠し果せたが、再び座ることはせずに立ったままハレル伯爵と向い合う。


「竜騎士が落ちたと聞いた」

「ええ、八騎のうち五騎落としました。城外で四騎、市街で一騎」

「一度に二騎落とした魔道士が居たと聞いたが、それは誰だ?」

「名前などは知りませぬ。ギルドの冒険者か、通りすがりの魔道士か、兎に角旅の者でしょう。しかし市街の方は初耳ですが……連弩で? それとも魔道術で?」

「首が落ちておった。一太刀で飛ばしたのであろうな。鮮やかな切り口であった」

「一太刀で……」


 リーウットは舌打ちをしたい衝動に駆られる。

 ドラゴンを落としたのは間違いなく無頼だ。ドラゴンを落とした魔道士の仲間なら、刀剣のみでドラゴンを落としたとしても不思議ではない。そしてそれを伝えれば、この中年は必ず会いたい、探して連れて来いと言うだろう。


「心当たりがあるのか?」

「…………」

「会ってみたいな。リーウット、連れて来い」


 そして連れてきたが最後、あの二人がどうなるかは知る由もない。

 少なくとも、今まで紹介した者の中にまともな姿(・・・・・)でリーウットと再開を果たした者はいない。


「それは無理でしょう」


 リーウットは覚悟を決める。


「心当たりは有ります……が、しかし申し上げ難いのですが、我らは彼らとモメました。市街でドラゴンが落とされたのも、彼らが我々に協力せずに戦場を離れ、市街に引っ込んだからでしょう」

「竜騎士が追い、返り討ちに合ったと?」

「恐らく」

「ふぅむ」

「呼び出しても、まず間違いなく応じないでしょうね」


 もしここでハレル伯爵が強行するようであれば、リーウットは今の職を辞して王都に戻り、オレーサの現状を公王に伝えるつもりであった。部下の何人が懐柔されて府抜けているのかも把握し切れず、何より無味無臭の腐敗が満ちたここに留まれば、必ず自分自身堕落する日が来ると悟っていた。

 しかしハレル伯爵は首を振る。


「リーウットがそう言うのなら無理は言わんよ。キミはこの街に必要だ。欲を出して失うにはあまりに惜しい人材だ」


 そしてこの引き際の良さこそが、この男を嫌いになれない理由でもある。

 失策も失言もない。ハレル伯爵は何も知らない部下や領民の目線では良い領主で、裏の顔を知る者にとっても有能な指導者である。唯一目を付けられた者だけが不運を被り泣く破目になるが、そこに目を瞑ればこれほど頼りになる男はいない。


「それでは戦後処理が残っておりますので」


 リーウットは頭を下げ退出する。

 ハレル伯爵はリーウットの後姿を見送り、ふんっと鼻を鳴らす。


「適材適所。あまり期待してないが、なかなか奴は靡かんな……」


 豪奢な椅子に深く沈み、伸びた前髪を指先で弄りながらハレル伯爵は溜息を吐く。


「そう思わんか、オリンピア?」


 言葉に出しはしたが、虚空は何も返さない。いつもは人影が現れる部屋の隅も今日は静寂を保っていた。

 ハレル伯爵は再び溜息を漏らすと立ち上がり、退屈そうに欠伸を交えて執務室に戻っていく。その背中と入れ違いに部屋の片隅では小さな人影が立ち上がり、闇を纏って動き出す。


「うふふ、適材適所。確かにその通りね」


 小さな魔力核が埋め込まれた人形はケラケラと笑い、ここでの用は全て終わったとばかりに崩れ落ちる。人形の残骸が隙間風で舞い上がり、笑い声の残滓だけが無人の部屋に響く。

 オリンピアを始め、これから多くの者が心躍らせることになる。


 北と、隠れ家と、異世界から――。

 中原に、いま新たな風が吹き込んだ。




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