7、発病
「おや、あんた」
占いの女は、厚化粧の目を輝かせた。
安っぽい白布のクロスに、廉は千円札を4枚投げ出した。
「見料って高いんだね。 お年玉貯金、崩しちゃったよ」
「子供はタダでいいよ」
女は金を押し返した。
「で、寝てみる気になったのかい?」
腰を下ろした廉に、女が尋ねた。
「そうじゃなくて‥‥これ」
廉の指先が、テーブルの上の行灯の「人生相談」の文字をなぞる。
「恋愛相談でもいいの?」
「そりゃいいさ」
「いきなりふたり、逃げられたんだけど」
「なんかやったね?」
「キスしたら‥‥」
「ははあ」
女はさも楽しそうに笑った。
「あんたへのアドバイスは、二つしかないね。
まず、絶対にあんたから攻めないこった」
「えっ?」
廉は目を丸くした。
「告白するのも、キスするのも、えっちするのも同じことでね、ステップアップする時は、必ず相手の女の子にやらせるんだよ」
「どうやって‥‥」
「いいムードをキープすることだけ考えて、ひたすら待つんだよ。
相手が焦れて、何か仕掛けて来るまでね」
「仕掛けてこなかったら?」
「来る女だけ相手してりゃいいんだ、どうせ相手が誰でもそこまで執着しないタイプだろ?
それだけだって、あんたなら結構忙しいはずだ。
待っていて、相手が何か仕掛けて来てるって気付いたら、すかさず乗っかるんだ。
タイミング外すと、情けない事になるよ」
廉は、盛岡 るうの顔を思い浮かべた。
肩を抱いた瞬間、ビックリして廉を見上げた顔。
あの時、るうは待ってなんかいなかった。
待っていたのは、麻衣だ。
これを気付かず、外してしまってえらい目に遭った。
「あんたの言うことは、当たってるな。
……で、二つめは?」
「二つめはね。 女の子がちょっとでも嫌がったら、電光石火で撤退することだよ」
ギョッとした。 顔が赤くなるのがわかった。
この女、見てたのか?
「何に限らずすぐに?
だけど、相手はカッコつけて渋ってるだけかもしれないじゃない?」
動揺を隠して、反論してみた。
女は首を振った。
「だからさ、そういう作戦めいたことを、あんたが考えちゃダメ。
向こうに考えさせるんだよ。
もしもあんたが女だとして、例えばキスして欲しいのにカッコつけてイヤと言ったとする。
それで相手に、ごめんってすぐ引かれちまったら、どう思う?」
「しまった、‥‥かな」
「そうだよ。 はっきりアプローチしなきゃ、通じないんだと反省する。
同時に相手を信頼するね。
“この人は私が嫌がることは、絶対しないんだ、いつでもやめてくれるんだ”ってね」
「そうか」
「次に会うときはもっと積極的になってるさ」
廉は感心した。
「すごい。女の子に狩らせるんだ」
「誰でもってわけじゃないよ。 あんたはそういう星まわりの人間だからさ。
男同士でもそうだ。 結構いじめられるだろ?」
女の指が、廉の頬っぺたの腫れているところを突付いた。
苦笑するしかなかった。
「男同士でも、上手にいじられといた方がうまく行くよ。
反抗的になったらアウトだ、コントロールを覚えな」
廉はおとなしくうなずいた。
アーケードを、パラパラと雨音が叩いた。
「おや、降り始めたね。 今夜は客も来そうにないし、さっさと帰るかね」
女が言った。
廉は胸が痛くなった。
「もう少しいちゃダメかな。
……行くとこ、ないんだ……」
思わず口をついて出た言葉が、わずかに震えた。
「いいとも、好きなだけ居るがいいよ」
女はにっこり笑って、そのあと釘を刺した。
「その代わり、あんた、そろそろ本音を言いなよ。
相談したかったのは、ホントに女の子のことかい?」
息が止まりかけた。
廉は静かに首を振った。
それを聞きたい気持ちを抑えるために、恋愛のことでお茶を濁したのだ。
口に出すのが怖くて、聞けなかったこと。
「あんたを信用する。 教えてくれ。
僕はどうやったら、家族とうまく行くようになる?」
「手を見せてごらん」
女は廉の手を開かせ、虫眼鏡で手相を見た。
それから、ずいぶん長いこと黙っていた。
「どうなの?」
沈黙に耐えかねて廉が問い直すと、女は小さく首を振った。
「こんなこと、言わずに済めば言わないで置くんだがね。
まあ早いうちの方が、傷が浅いかもね。
残念だけど‥‥家族のことは、あきらめな‥‥」
廉は両手で女の手にしがみついた。
そうしないと、体がどこまでも沈んでいくような気がした。
唇から、悲鳴に近い泣き声が小さく漏れた。
涙が白いクロスに落ちる音が、雨音に消された。
絶対に聞きたくなかった言葉。 でもいっそ、誰かに最後通告して欲しかったこと。
もうあきらめろ。 お前が家族に愛される日は、決して来ない、と。
胸がしめつけられるような失望が、雨音と一緒に廉の心を揺さぶっていた。
でも不思議なことに、一つの安堵感が悲しみの後ろに控えていることに、廉は気づいていた。
それは絶望と同時に、解放の瞬間でもあったのだ。
(もうあきらめてもいいんだ)
廉は思った。 心の奥に、そのことで楽になる部分が確かにあるのだった。
(もう家族を愛そうとしなくていい。
貰えもしない愛情を求めて顔色を窺わなくてもいい。
僕もお前らなんて嫌いだと叫んだあとで、自分を冷たい奴だと思って落ち込まなくていい)
長い時間かけて、涙を落ち着かせてから、廉は顔を上げた。
女の目を、濡れた瞳でまともに見据えた。
「決めた」
静かで怖い声が出た。 かなをの声とよく似ていた。
「僕に、女を教えてください」
「本気かね?」
女は、身じろぎせずに廉を見返した。
「本気だよ。 これから海で暮らすと決めたのに、泳げないんじゃ話にならない。
どんな天候でも流されないように、ちゃんと教えて欲しい。
それに‥‥」
廉は言葉を切った。
次の言葉を言うために、少し勇気が必要だった。
「‥‥それに、あんたがこの前言ってたじゃないか。
情けないことにならないように、努力しなけりゃならないって。 あれの意味がわかったよ。
この先、親を捨てるとしたら、別の誰かに頼って生きなきゃならない。
僕の場合、その誰かって女の人だよね。 あんたみたいに僕を気に入ってくれる人のことだ。
そんな暮らしをするなら、何かで相手を喜ばせなきゃ。
心のどこかで、自分はただのお荷物だ、って思いながら生きるなんてごめんだからね」
女は少し怒ったように、廉の顔を睨んで言った。
「あんたをヒモにしようって気はないよ」
「当たり前だよ。 ヒモ以上のことができるように、あんたが仕込んでくれるんだろ」
「おや、言うね」
広瀬 廉が発病したのは、まさにこの瞬間だった。
廉は、女がかぶっている白黒の布を引っ張って取った。
女の顔が、アーケードの蛍光灯にさらされた。
「やっぱりね」
若い。
30そこそこ、どうかすると20代でも通るかも知れない。
鼻筋の通った、豪華な感じのする美女だった。
「カモフラージュだなとは思ったんだよね」
そうはいったものの、こんなに若いとは思ってなかった。
女は微笑んだ。 ちょっと濃い目の顔が、妖艶な表情になった。
「どこでばれたのかね」
「手を握った時」
「‥‥抜け目ないわね、先が楽しみな子だ」
だぶだぶのローブを脱ぐと、女はスマートなオフィスレディになった。
「仕方ないんだよ。 占い師があんまり若いのも、有難がられないものでね。
この顔だと酔っ払いに絡まれるばかりで、客らしいのが寄り付かないの」
女は、ミサオと名乗った。
ミサオのマンションが近いというので、ふたりで歩くことにした。
一つしかない女物の傘を、ふたりで広げて肩を寄せる。
まだ成長過程にある廉の身長は、ハイヒールをはいた女のそれとほぼ同じだった。
歩きながら、ミサオは廉の腰を抱き、顔を寄せて誘って来た。
キスしようとすると、いきなり鼻をぎゅっとつままれた。
「がっつかないで、少しは焦らしたらどうなのよ?」
教育的指導を頂いてしまった。
そのあともミサオの唇は、道中さんざん勿体をつけて、廉を焦らした。
結局手に入れたのは、マンションのエレベーターの中だった。
一旦触れてしまうと、今度はなかなか離れない。
初心者の廉が暴走しないように、コントロールしながら。
深く浅く、長く短く、くちづけを繰り返した。
体を押し付けてくる。
刺激が強すぎる。
廉はあやうく暴発しかけ、あわてて体を離した。
「言っとくけど、女の子が経験浅い子だったら、いきなりここまで濃厚にやっちゃダメよ」
「ど、どの口がそんなこと言うんですかっ。 僕だってろくに経験は」
「いいから聞きなさい。
未経験の女の子の恋の主食は、“妄想”よ。
王子様にキスされたら、彼女らはその記憶を持って帰って、ベッドで育て始めるの。
その赤ん坊が育つまで、あなたはじっと待つの」
「妄想が育つのを待つ‥‥」
「その赤ん坊が、狩人に成長して、あなたに銃を向けるまで、絶対に狼に変身しちゃだめなのよ!」
そんな大事なことを今言われても、廉の頭の中は、初心者パニックですでに真っ白だ。
下半身に至っては、崖の淵で辛うじて食い止めてる状態。
そんなに過激な欲望でも、おっぽり出して逃げ出したいキモチがまだ残っている。
あとで思えば、この時さっさと逃げ出していたら、廉のビョーキは悪化を免れたかもしれない。
ミサオの部屋の表札を見た瞬間。
白かった廉の頭の中が、真赤になった。
“MORIOKA”




