4、感染
スナックの裏を抜けると、廃館になったビヤホールがあった。
シャッターを下ろしているが、裏口の非常階段はむき出しだ。
通りからも目立たないその階段から、いきなり人が落ちて来た。
階段を踏み外して、2.3段滑り落ちたという感じだった。
驚いて近寄って見ると、女の子だ。
髪をとんでもなく薄汚い金色に染めている。
化粧が濃くて歳ははっきりわからないが、廉は自分とさほど違わないのじゃないかと思った。
落ちて仰向けになったまま、その女の子は、きゃらきゃらと笑っていた。
夜目にもはっきりとスカートから下着がはみ出して見えているのにお構いなしだ。
ちょっと“イッちゃってる”感じだった。
「あ。 カワイイ」
「あんたも混ざる?」
言いながら、あとふたり、女の子が下りて来た。
見た目は落ちて来た子と大差ないケバケバしい子たちだった。
ただし、こっちのふたりはまだ足下が確かだ。
「おいでよ、ちょっとヌルいビールだけどさ」
「おいで」
差し出された手を握るのに、勇気は必要なかった。
何も知らずに受け入れてくれる相手が、その時の廉には必要だった。
これまでそういった連中の仲間に入らずにやって行けたのは、大林の伯父の家があったからだ。
2階の踊り場に、あと3人ほどたむろしていた。
全員が女の子、と思ったら、一番奥に座っているひとりだけが男だった。
暗がりではっきりとは見えないが、男の顔立ちは中東系の外国人と思われた。
「なに? そいつ」
煙草の煙と一緒に吐き出された男の声が、見た目の印象より幼い。
「カッコいいでしょ。 今知り合ったんだ。
あ、ねえ、あんた名前は?」
「‥‥廉」
「イオ、れんにもアレあげてよ」
男は廉をじろじろ見ながら、ポケットから何か取り出した。
ビールの缶の上に置いて、一緒に廉に差し出す。
裸の錠剤が、2錠。
「これなに?」廉が聞くと、
「ちょっとフワっと来るんだよ」
女の子達は、クスリの名前を言わない。
みんなで、廉を囲んで床に座らせた。
「クスリは要らない」
そんな恐ろしげなものを見たのも触ったのも初めてで、廉は正直に恐怖心を顔に出して、イオに錠剤を返そうとした。
「ばあか。 ビール一本しかねーんだぞ。
それがなきゃ、飛べねーだろ」
イオが吐き捨てるように言った。
「飛ぶ?」
廉には意味がわからない。
「ほらこうやって、噛んでから飲むんだよ」
女の子のひとりが、自分の錠剤を口に入れ、ボリボリ噛んでからビールで飲み下して見せた。
それでも廉が躊躇していると、その子は廉の手からクスリを取り上げ、自分の口に入れた。
代わりに飲んでくれたのかと思ったら、違った。
彼女は錠剤を噛み砕き、ビールを口に含んだのだ。
そのまま廉に抱きついて、キスした。
恐ろしく苦い液体が、口の中に流れ込んで来た。
相手は廉の顔の上にかぶさるようにして、口の中身を全部、咽喉の奥まで押し込んで来る。
窒息しそうになり、廉はそれをあわてて飲み込んだ。
すでに思考がストップしてしまっていた。
女の子とこんなことをするのは初めてだ。 それどころか、想像したこともない。
廉にだって一人前に性欲はあったから、むしろもっと直接的な性行為なら身近に感じたかもしれないが、キスは廉にとって恋愛の管轄に属するものだった。
自慢じゃないが、廉は女の子と恋愛したいなんて思ったこともなかった。 女性に対する甘い期待など、抱いても仕方がないと思っていたからだ。
ところがキスというものは、やってみるとこれがまともに性行為に連なる感覚の物なのだった。
クスリなんかよりそっちの方が、廉をあわてさせた。
相手の女の子は、いったん唇を離し、廉の瞳を至近距離から覗き込んだ。
「れん、目がきれい。
ね、星が映ってるよ‥‥」
思いがけず詩的なことを言う。
心地よいショックがあった。
「廉はハーフなの?」
初対面で必ず聞かれる台詞が、ここでは出て来ない。 そのことが何より心地よかった。
(考えてみたら、あんな無駄な台詞はない。
そもそも相手が何者かを知りたがるなんて馬鹿げてる。
僕は僕でいいじゃないか。 僕の成分が知りたければ、味わってみればいいことだ。
‥‥こうやって!)
廉はその子の腰に手を回し、自分から唇を重ねた。
我ながら下手くそだな。
歯と歯がカチンと小さくぶつかった時、思った。
それでも心臓はちゃんと反応した。
軽快な心音が、廉の全身を揺すり始めた。
薬の効果は、その時来た。
突然、ふあっと全身が浮き上がった気がした。
「あ‥‥」
振り回される!
遊園地の、高速でぐるぐる回る乗り物に乗った時の、あれだ。
あれが頭の中でだけ、起こっている。
廉の小さな脳内スペースが、遠心力で真空になる。
「ははは‥‥こ、これ‥‥」
思わず笑った。
体が冗談をやっている、という気がした。
「キモチいいでしょ」
ちょっと呂律の回らない発音で、彼女が言った。
「いいね」
ぐるぐる回る視界でキスしようとすると、照準を定めるのに苦労する。
そのことが自分でおかしくなって、クスクス笑った。
「れん‥‥。 しよ?」
耳元で囁く相手の声が、軽く息を弾ませている。
「する‥‥? ここでかい」
「みんな飛んじゃったから、見ないよ」
そうか。 飛ぶって、こうなることだったんだ。
「コレですると、すっごくいいよ」
「ハードル上げるなよ‥‥。 こっちは経験ないんだ」
長い台詞をしゃべろうとすると、舌がもつれた。
「れん、初めてなの?
だったら、あたしが‥‥」
その先は、相手がなんて言ったかよくわからなかった。
視界がぼんやりして、音にもエコーがかかってきたからだ。
回転速度が上がった。
相手に誘われるままに1階のガレージ跡に入り込み、固いコンクリの床の上で組み伏せられた。
冷たくじゃりじゃりした砂混じりの床。
対照的に柔らかく暖かな女の子の体内の感触。
意識はぼんやりしているのに、快感だけは強烈に脳天を突き抜けた。
相手の女の子は自分で服を脱いで廉に体を触るように導き、獣のような声を上げた。
その声が、廉には何故か音声ではなく、赤や黄色の色彩として認識された。
初体験は触感ではなく、カラフルな色彩の打撃として廉の記憶に残った。
気持ちがいい。
ああ、なあんだ。
幸せになるのなんて、簡単じゃないか!!




