8、雑念
暗闇の中があんなに明るいなんて、それまで思ったこともありませんでした。
目が慣れて見ると、真っ暗だと思っていた倉庫の中は、窓から木立ち越しに漏れる街灯の明りに染まって、気恥ずかしいほど輝いて見えました。
わたしだって恋する女の子の端くれです。
廉に抱きしめられる想像は、それまでにもしたことがありました。
それは私の願望でもあったからです。
けれど、実際にそのシーンを迎えてみると、自分がそんなロマンチックな行為に向かない人間だと思い知らされました。 ただときめきに任せてうっとりと没頭することがどうしても出来ず、いろんな雑念に揺すぶられるのです。
抱き寄せられた途端、自分の腕をどうするべきか気になります。
だらりと下げたままはいかにもおかしいし、だからと言って、待ちかねたように廉の背中に回すのは、それまで冷たい態度を取っていただけにみっともない気がします。
目のやり場にも困ります。
目を閉じていかにも満足げにする勇気もないし、でも廉の方を見上げたら、まるでキスをねだってでもいるみたいです。
何か言った方がいいんだろうか。
取りあえず離れた方がいいんだろうか。
廉は何を考えているんだろうか。
雑多な質問があとからあとから湧いて来て、わたしの集中を妨げます。
そう、わたしは人生初のラブシーンで、襲い掛かる雑念の一個中隊と格闘している大ばか者でした。
目のやり場を探して、足元に視線を落としたわたしは、そこに異様な物を発見しました。
赤黒い色をした、不気味なタオルです。
それもあちこちに3~4枚も。
よく見ると、同じ色に染まった包帯の様な物も落ちています。
血染めの包帯でした。
思わず廉から体を離し、包帯を取り上げると、それはまだじっとりと濡れていました。
驚いて廉の顔を見上げました。
そしてその頭に、不器用に巻かれた包帯を発見したのです。
「怪我をしたの?」
「大したことないよ」
とっさに誤魔化そうとした廉の態度を見て、彼がわたしを抱きしめたのは、このけがを隠す意図だったのではと思いました。
「大したことだわ、血だらけじゃないの! どうしたの、これ!」
「殴られたんだよ、昨日の朝」
「誰に」
「あいつだよ。 こないだの迷子のおまわりさん」
「ええ!?」
「後ろからいきなり、バットでさ。
それが傑作なんだ、あいつ今度は野球選手のカッコして来てたんだぜ」
あの変態男が廉を狙うのは、もとはと言えばわたしが原因です。
わたしを助けようとして、廉はあの男を攻撃したのですから。
「大丈夫、2日動かずにいたけどなんともないから、内出血とかしてないだろ」
「むちゃくちゃよ!」
この寒空に、布団も暖房もないプレハブで寝起きしていることさえ信じがたいのに、この出血では相当体に負担がかかっているでしょう。
ラブシーンをやってる場合ではありません。
わたしは、嫌がる廉を引きずるようにして、自宅に連れて帰りました。
屋根裏に寝かせて傷を調べると、後頭部に裂傷と腫れが見つかりました。
「まだ出血してるわ」
「止まるよ」
「何言ってるのよ、普通なら縫ってる傷よ! 顔は真っ白だし、唇なんか紫じゃない!」
「治るよ」
「なんで病院に行かないのよ!?」
言ってしまってから、やっと気が付きました。
家に帰らず、親の保護を拒絶した廉が、今どういう現実にさらされているのかを。
廉は、保険証が使えないのです!
少なくとも、帰宅して親に頭を下げない限り、持ち出すことができないのです。
そのため高額の医療費を請求されるのを恐れて、病院に行けないでいるのでした。
幸いなことに、翌日は土曜日でした。
学校が休みなだけではなく、うちの両親は書き入れ時です。 昼も店から戻って来ません。
わたしは朝から家にいて、廉の看病をしました。
温かい部屋と布団で気が緩んだのか、廉は軽く発熱して、震えながらもとろとろと眠っていました。
その様子を見ると、今にもそのまま死んでしまうように感じて怖くて仕方ありません。
昼のおかゆを食べさせた後、また眠ってしまった廉を置いて、わたしはそっと家を出ました。
廉の実家は、商店街に面した、あまり大きくない電気店でした。
店の裏側が自宅になっていて、そちらに玄関があるのは確認したのですが、そこからは入れませんでした。 原井 麻衣の家のはす向かいと聞いていたので、すぐに見つかったのはいいのですが、行ってみると庭の半分くらいがしっかりと隣接している敷地だったからです。
これでは麻衣や原井家の人に見られないように訪問することができません。
やむなく客を装って、店の方から声をかけました。
「いらっしゃいませ」
店の奥から出て来たのは、いかにも「おばちゃん」と呼びたくなるような、あか抜けない小太りの中年女性でした。
廉に少しも似ていないこの女性を、わたしはパートの従業員と思い込んで、
「広瀬 廉くんのおうちの方とお話ししたいんですけど」
と切り出しました。
「わたし、広瀬ですけど」
女性が不機嫌な声で言いました。
「え。 廉くんのお母さんですか」
「それがなにか」
はい母です、とは答えませんでした。
「廉くん、いまうちにいるんですけど、けがをしてるんです。
わたしを痴漢から守ってくれて、それで殴られたんです。
頭から出血が止まらなくて……保険証がなくて、病院に行けないんです」
ここで言葉を切ったのは、わたしの甘えでした。
普通の親なら、ここまで言えば自分で保険証をつかんで、
「あなたの家はどこ?」
と叫ぶものだと思っていたからです。
でも、彼女の返答は予想外の物でした。
「それで?」
「え……? はい?」
「わたしに何をして欲しいの」
愕然としました。 それはつまり、自分からは何もする気がない、と言ったのと同じです。
「何って、廉くんを病院に」
「見ての通り、仕事中なのよ」
「じゃあっ……じゃあ、保険証を貸してください」
廉の母親は、眼窩の落ち窪んだ顔に不快感をみなぎらせて、わざわざ眼鏡を掛けなおしてから私の顔を睨みました。
「あなたが廉の代理だって証拠もないのに、そんな大事なものを渡すことはできないわね」
「そんな! じゃあ、これから廉くんも連れてきます!」
「使った後返してくれるって保証もないわ」
「……何を言ってるんですか……自分の子供でしょ」
「そうね。 でも、わたしはあの子にあまり興味がないの」
興味。
そんな言葉を思いつくこと自体が、もう尋常な親ではないという気がしました。
その時点でようやく、わたしは自分の甘さを認識したのです。
それまでわたしにとって、家出というものは子供の甘えがゼロでは成立しないと思っていました。
親への不満は誰でもあるもの、それをみんな我慢してうまくやっているのだから、廉だって頑張れば家族とやっていけるんだと、どこかで廉を責めていたのです。
それがこの母親を見ていて、まったく現実を把握していないわたしの間違いだったということがわかってしまいました。
わたしはそれ以上何を言うこともできず、挨拶もせずに電気屋を飛び出しました。
その足で例の公園まで戻り、一番近くの交番に走りこんで、今度は本物の警察官に訴えました。
廉を殴った暴漢と、それを保護しない親の事を通報したのです。




