7、接近
その時の廉の顔を、わたしは今でもはっきりと思い浮かべることができます。
屋根裏部屋の床から頭一つ出して、見開いた瞳は濃いめのヘイゼル。
それはまるで洋画のワンシーンのように印象的な情景でした。
女の思考を読むのに長けた廉の事ですから、この状況だけで何が起こったのかわかってしまうかも知れません。 わたしの頭の中では、泣き顔の言い訳を探して、思考が千里を駆け巡っていました。
「……サンドイッチだね」
こういう時、廉は決して詰問しません。
押さば引き、引かば押すのが彼の流儀なのです。
「3時間目、地学だった?」
そんなことを聞くのと同じような、事務的で抑えた声でした。
その声を聞いた途端、わたしはカッとして、弁解なんかする気がなくなってしまいました。
何も言われなければ、この男は平気でこの状況をスルーしてしまう気だと思ったからです。
「お楽しみだったみたいね」
我ながら意地の悪い、白雪姫の継母みたいな声が出せました。
「あなたの相手は麻衣だけになったはずよね。
今夜はずいぶん老けた麻衣ちゃんと一緒だったじゃないの」
言うなり、廉に向かって手のひらを突き出しました。
「鍵を返して。 約束を破る人に協力はできないわ」
一瞬の躊躇の後、廉がポケットに手を入れたので、わたしは驚きあきれました。
「ちょっと。 黙って返してそれで終わろうっていうつもり?
なんで嘘ついたか説明ぐらいしなさいよ。
バイト先に泊まったなんて嘘で、夕べはあの女のところに泊まったんでしょ」
「嘘じゃない、あれはミサオさんだ。 バイト先の店長だよ」
「店長……が、ミサオさん?」
バイト先がパトロンの店という話は初耳でした。
でもそれがなんだと言うのでしょう?
「結局、全員と手を切ると言ったのは嘘だったわけでしょッ」
「全員の中にミサオさんを入れると、僕は高校を辞めることになる。
きみはそこまで要求したつもりだったか?」
「学校をやめる?」
「ミサオさんと別れたらそうなる」
「その人が、学費を?」
もちろん、そんなことは考えてもみませんでした。
パトロンの名前は麻衣から聞いていましたが、関係の代償にお小遣いを貰っている、という程度の印象しか抱いていなかったのです。
やはり、わたしは世間知らずの甘ちゃんだったわけですね。
「何でそう言ってくれなかったのよ」
「普通、他人に言えることじゃないだろう」
「高校やめる以外に方法はないの?
ご両親と仲直りして家に帰る努力はしてみた……」
瞬間、廉の手が私の腕をつかみ、乱暴に引き寄せました。
思わす悲鳴が漏れました。
「きみに、僕の家の、なにが判る!!」
耳元で荒々しい語気が弾けました。
廉は元来、とても穏やかな性格で、人に向かって声を荒げることなんてめったにないのです。
その後の付き合いで何度も喧嘩はしましたが、大声で怒鳴られたことなど1度もありませんでした。 つまり、わたしが指摘した家族の事こそが、廉のウィークポイント。
まさに竜の逆鱗だったのです。
でもその時の私にそんなことが判る筈もありません。
自分が家に引き入れたこの同級生が、とんでもなく暴力的な男だったのだと恐怖したわたしは、思わず廉の手を振り払いました。
「出てって!」
廉はポケットから出した鍵を、わたしの足元に放り出しました。
それから荷物をつかむと、後も見ずに階段を降りて行きました。
ドアの閉まる音が、すでに後悔の始まりです。
わたしはもともと廉がどんな男かを知っていて、自分の意志で泊めたのです。
それなのに一瞬のいさかいで追い出してしまうとは、なんて馬鹿なことをしたんでしょう。
激しい自己嫌悪の中で、わたしは自分が何を望んでいたかを知りました。
その部屋で廉と、麻衣以上の関係になること。
たとえ実現しなくても、廉がそれを望んでいるのだという証拠を、わたしは内心で欲しがっていたのです。
結局、廉にとって初恋なんて、もう退色した絵本のような物なのでしょうか。
次の日学校に行って、わたしは我ながらみっともないことをしました。
授業の合間に廉のクラスの前まで行って、用事があるふりをして廊下から中をうかがったのです。
しかも2回も3回も。
廉はいませんでした。
次の日も教室を覗いてみて、廉を発見できなかったので、とうとう知り合いの男子を捕まえて聞いてみました。
「広瀬? 昨日から休んでるよ」
またアイツのシンパか、という顔をしながら、その元クラスメートは教えてくれました。
「どうして?」
「知らね。 誰か理由聞いてないか、ってセンセが言ってたから、連絡ねーんじゃねーの」
「彼、ちょくちょく休む?」
「いやあ、かなり真面目にガッコ来るよ。
こないだ熱あるのに来て、しっかり体育までやってたもん。
だからって勉強熱心かっちゃ、そうでもないけどな」
もっともな話です。
廉は学校以外に自分の居場所がないし、親でない愛人に金を出させて、その愛人がもう他人になっている、という、言わば薄氷を踏みながら学生をやっているのです。
呑気にサボってムダ金にするわけにいかないのです。
とすると、廉の欠席の理由はなんでしょう?
いやな予感がしました。 動けないほど具合が悪いのではないでしょうか。
まさか、まさかと思いながらも、決心がついたのは夜になってからの事でした。
懐中電灯と痴漢除けの防犯ブザーを持って、あの公園に行ってみました。
周囲に人がいないのを確かめてから、倉庫の扉を懐中電灯で照らすと、やはり鍵が外れているではありませんか。
「広瀬くんっ」
真っ暗な倉庫の中に声をかけると、かなりの間があってから、内部で人の気配が動きました。
扉にかませた突っかい棒を外してから、渋い音を立てて扉が開きます。
真っ暗で表情は見えませんでしたが、そのシルエットが廉であることは間違いありません。
なんだ、動けるじゃないか、と思うとのこのこ来たのが恥ずかしくなったのですが、今更目の前でUターンというわけにもいかず、わたしはせいぜい平気ぶって鼻で笑いました。
「なんだ、ただのサボりだったの。
寝るとこ無くなったから風邪ひいたかと思った」
廉は黙って、入れと合図をくれました。
中に入ってしまってから、わたしは内心で慌てました。 この先の会話の展開なんてなんにも考え付きません。 こんな寒いとこでよく寝るわね、などと生意気な台詞をひとつふたつ継ぎ足したら、ますますあとが続かなくなってしまいました。
廉は扉を注意深く締め、かんぬき代わりに棒をかませました。
(密室になった!)
心臓が、いきなり喉のあたりまでせり上がって来ました。
廉に他意はないかもしれません。
扉を開け放しておくと、誰かに見とがめられた時に困るのです。
となると、踏み込んだわたしが状況のネックになるわけです。
(わたし、密室を許してしまった)
それは自分の部屋で廉といるときのような甘い期待ではなく、もう少し恐怖寄りの気分でした。
ムードも設備も温かさもないこんなところで、ふたりきりになることを認める。
それはつまり、何をされてもいいと言っているようなものではないのでしょうか。
その途端、あの懐かしい感覚を思い出しました。
小学生の時、夏休みに麻衣の庭のテントで抱いたのと同じ感覚。
こんなこと、だめ。 いけないわ。
お母さんに申し訳ない。
わたしは息を飲んで廉の顔を見ました。
彼も黙って私を見ていました。
もうしゃべる言葉なんか思いつきません。
だって、あの時からわたしは廉に恋をしているのです。
気が付くと、彼の腕の中で小さく震えているわたしがいました。




