素
暗い地下道をどれだけさまよっただろう。
ある朝、遠くに光が差しているのが見えた。その抜け道は、切り立った崖の中腹につながっていた。
空は群青色に染まり始めている。
牢番は肩で息をしながら周囲を見回した。
「ここから先は隣国の領土だ。」
私はようやく地面へ降ろされる。
長い間背負われていた足はまだ震えていた。
「少し歩けるか。」
「……ええ。」
そのときだった。
「止まれ!」
鋭い声が山道に響く。
槍を構えた兵士が四人。
隣国の国境警備兵だった。
「こんな時間に国境を越えるとは、怪しい連中だな。」
牢番が静かに前へ出る。
「事情がある。」
「事情?」
隊長格の兵士が鼻で笑った。
「どんな事情だ。」
「密入国か?」
「身分証を出せ。」
牢番は押し黙る。その一瞬の沈黙が仇になった。
兵士は私を見た。
ぼろぼろの服。
やつれた身体。
首や手首に残る枷の痕。
「……なるほど。」
兵士がいやらしく笑う。
「逃亡奴隷か。」
「兄ちゃん、お前、人攫いか?」
周囲の兵士まで笑い始める。
「女はこっちで預かってやる。」
「どうせ売るつもりだったんだろ。」
そう言って、兵士の一人が私の顎へ手を伸ばした。
あざけるようなその表情を見た途端、目の前が白くなるほどの強い怒りがこみあげた。
パァンと乾いた音が響く。
兵士の手を思い切り払い落とし、私は彼を睨みつけた。
「……あ?」
兵士が目を丸くする。
私は一歩前へ出た。
「誰の許しを得て触ってんだ、この腐れ野郎。」
空気が凍る。
兵士は顔を真っ赤にした。
「な、何だと!」
「耳ァ腐ってんのか?」
私は容赦なく続ける。
「触るなっつったんだよ。」
「てめぇ……!」
「何が『預かってやる』だ。」
私は鼻で笑う。
「女一人見りゃ鼻の下伸ばす発情犬が、兵士気取りとは笑わせんじゃねぇ。」
「貴様ァ!」
兵士が剣を抜く。
「殺すぞ!」
「やってみろ。」
私は一歩も引かない。
「その鈍らでか?」
「刃こぼれする前に、お前の腕が先に折れるわ。」
牢番が思わず口を挟む。
「やめろ!」
「黙ってろ。」
私は彼を制した。
「こんなチンピラ相手に下手に出る必要なんざねぇ。」
兵士たちは完全に頭へ血が上っていた。
「女ァ!」
「調子に乗るな!」
四人が一斉に近づいてくる。
私は腰を落とした。
牢の中で身体は弱っている。
戦えない。
だが。
気迫だけは負けるつもりはなかった。
「来いよ。」
私は挑発するように指を曲げる。
「まとめて相手してやる。」
「ぶっ殺せ!」
兵士が飛び出した。
その瞬間。
牢番が前へ出る。
一歩。
たった一歩だった。
兵士の剣が弾かれる。
二人目が倒れる。
三人目の腹へ拳。
四人目の喉元へ剣。
わずか数秒。
兵士全員が地面へ転がっていた。
静寂。
兵士たちは震えながら後ずさる。
「ば……化け物……。」
「退け。」
牢番が静かに告げる。
兵士たちは逃げるように去っていった。
山道に沈黙が戻る。
私はふう、と息を吐く。
「ったく。」
「朝っぱらから胸くそ悪ぃ。」
そして、振り返る。
牢番が、信じられないものを見る目で私を見ていた。
「……何ですか。」
沈黙。
二人のあいだを風が静かに吹き抜ける。
やがて彼は、ゆっくり口を開いた。
「お前。」
「はい。」
「まさか、それが素なのか?」
…………。
「あ。」
私は両手で顔を覆った。終わった。
「……ばれた。」
「ばれた、じゃない。」
牢番は額に手を当てる。
「牢では、あんなに控えめだっただろう。」
「違うんです。」
「何が違う。」
「王宮仕様なんです。」
「王宮仕様?」
「淑女を演じてただけで……。」
よもや観念するしかないだろう。
「これが本当の姿です。」
牢番はしばらく黙っていた。
そして。
「……信じられん。」
「師匠も同じこと言ってました。」
「よく今まで隠せたな。」
私は苦笑する。
「牢じゃ喧嘩売ってくる相手なんて、看守くらいでしたから。」
「だから我慢できたんです。」
牢番は深く息を吐いた。
「なるほど。」
「妙に納得した。」
「え?」
「最初から違和感があった。王宮育ちにしては妙に度胸がある。看守にも臆さない。死ぬ覚悟があるにしても、肝が据わりすぎていると思っていた」
私は頬をかく。
「育ちが悪いもので。」
「どんな育ちなんだ」
「それはまあ、おいおい」
「肖像画家らしくないな。」
「よく言われます。」
「じゃあ。」
彼は意地悪そうに笑った。
「さっきの口調が本物か。」
「ええ、まあ」
牢番は肩を震わせている。
私は頬を膨らませた。
「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか。」




