育ての親
あの子がふらりとこの家へ戻ってきてから、もう五日になる。
──いや。
正確には、「戻ってきた」という表現は少し違うのかもしれない。
あの子はただ帰ってきたのではない。
倒れる寸前の身体を、どこの馬の骨とも知れない男に背負われて帰ってきたのだ。
私は戸口を開けた瞬間、思わず息を呑んだ。
痩せ細った身体。
日に焼けた顔。
伸び放題の髪。
服はぼろ布同然で、腕には縄で擦れたような傷。
それでも私は一目で分かった。
「……アスラ。」
呼んだ途端、あの子は安心したように笑った。
「ただいま、母ちゃん。」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥で張り詰めていた何かが切れた。
怒鳴ってやろうと思っていた。
どこへ行っていた? 何をしていた。
どれだけ心配したと思っている。
そう言うつもりだった。
だが、できなかった。
抱き締める間もなく、アスラはその場で崩れ落ちたからだ。
糸が切れた操り人形のように。
男がすぐ身体を支えた。
「医者は。」
「呼ぶよ。」
それだけ言って私は走った。
村医者を叩き起こし、家へ連れて帰る。
診察の結果は意外なものだった。
「栄養失調と疲労、それから極度の緊張状態ですな。」
「命に別状は。」
「今はありません。」
医者はアスラの寝顔を見ながら苦笑した。
「むしろ安心したんでしょう。」
「安心?」
「ええ。」
「張っていた気が一気に抜けた。」
「だから身体が動かなくなった。」
「今まで無理をしていた証拠ですよ。」
私は思わず寝顔を見つめた。
ぐっすり眠っている。
本当に。
ぴくりとも動かない。
食事の時間になっても起きない。
無理やり起こして粥を少し食べさせれば、また眠る。
起きている時間は一日に一刻もない。
医者は笑って言った。
「寝かせておきなさい。」
「人間は限界まで疲れると、こうなります。」
私は安心すると同時に腹が立った。
どれだけ無茶をした。
どれだけ苦しかった。
何があった。
何も話さないまま眠ってしまう。
そして。
その間、ずっとあの男が付き添っていた。
最初は警戒した。
当然だ。
見たこともない男。
年は三十前後か。
口数は少ない。
愛想もない。
目付きだけは妙に鋭い。
正直、盗賊と言われた方が納得する。
そんな男が、アスラを背負って現れた。
信用できるはずがない。
私は何度も聞いた。
「お前、何者だ。」
男は決まって答える。
「ただの牢番だ。」
ーー牢番。
そんな仕事をしている人間が、なぜアスラと一緒にいる。
問い詰めても、それ以上は語らない。
秘密が多すぎる男だった。
だから私は決めた。
しばらく家へ置く。
その代わり、怪しい真似をしたら叩き出す。
……そう思っていた。
ところが。
見ているうちに調子が狂ってきた。
「水が切れた。」
私が井戸へ向かおうとすると、
「俺が行く。」
男は黙って桶を持っていく。
「薪を割らなきゃね。」
「終わらせてある。」
振り返ると、薪が山のように積まれている。
「屋根、雨漏りしてるよ。」
「塞いだ。」
いつの間に。
畑へ出れば畝まで直してある。
納屋の壊れた扉も修理済み。
家の周りの雑草まで刈ってある。
おまけに。
アスラの世話も手際がいい。
濡れ布で額を拭く。
水を飲ませる。
寝返りを打たせる。
布団を整える。
夜中でも咳をすれば飛び起きる。
文句一つ言わない。
私は台所からその様子を何度も見ていた。
「……。」
おかしい。
妙に慣れている。
家族でもなければ、ここまで世話はできない。
ある晩。
私は聞いてみた。
「お前。」
「何だ。」
「アスラとは長い付き合いなのか。」
「……」
男は質問に答えなかった。
男は火を見つめたまま言う。
「あいつは何度も死にかけた。」
「……。」
「だから放っておけなかった。」
それだけだった。
飾らない。
恩着せがましくもない。
本当に、それだけらしい。
私は黙る。
ふと寝室を見る。
アスラは静かに眠っている。
昔からそうだった。
あの子は強い。
いや。
強く見せるのがうまい。
泣かない。
弱音を吐かない。
怪我をしても笑う。
腹が減っても「平気」と言う。
子どもの頃からずっとそうだった。
だから私は知っている。
あの子が倒れるときは、本当に限界だ。
その限界まで支え続けたのが、この男なのだろう。
翌朝。
アスラが珍しく目を覚ました。
「……母ちゃん。」
「起きたか。」
「お腹すいた。」
「やっと言ったね。」
私は笑った。
粥を運ぶ。
すると男が椀を受け取った。
「熱い。」
「俺が持つ。」
自然すぎる動きだった。
私は思わず吹き出しそうになる。
「なんだい。」
「夫婦みたいじゃないか。」
二人が同時に固まる。
「違います。」
「違う。」
ぴったり声まで重なった。
私は肩を揺らして笑った。
「息だけは合うんだね。」
アスラが真っ赤になる。
「母ちゃん!」
「冗談だよ。」
男は咳払いを一つして椀を差し出した。
「食え。」
「……はい。」
その様子が妙にぎこちない。
恋人というには距離がある。
他人というには近すぎる。
不思議な空気だった。
夜。
アスラがまた眠ったあと。
私は縁側へ座る男の隣へ腰を下ろした。
星空が広がっている。
虫の声だけが響く。
「……。」
「……。」
沈黙。
男は空を見ていた。
私は横顔を見る。
戦場帰りの兵士のような目だった。
いろいろなものを見てきた人間の目だ。
ただの牢番には見えない。
間違いなく何かを隠している。
それでも。
悪人には見えなかった。
少なくとも。
アスラを見る目だけは。
どこまでも真っ直ぐだった。
それが余計に分からない。
あの子は昔から人を見る目がある。
信用しない相手には絶対に背中を預けない。
そのアスラが。
この男には眠った姿まで見せている。
どれだけ安心しているのだろう。
私は小さく息を吐いた。
それにしても……。
あの男は、いったい何者なのだろうか。
アスラのことは、よく知っている。
あの子は誰かに弱みを見せるくらいなら、一人で血を流すことを選ぶ人間だ。
誰かに寄りかかることを覚えないまま、大人になってしまった。
そんな子が、何も言わず眠り続けられるほど気を許している。
それだけで、この男が命を懸けてアスラを守ってきたことは分かる。
だが、それだけでは説明がつかない。
剣の腕。
立ち居振る舞い。
物音一つ立てない足運び。
村人とはまるで違う。
牢番などという肩書きでは到底片づけられない何かがある。
この男は、きっと近いうちに正体を明かすだろう。
そしてその時、アスラの運命もまた、大きく動き始めるのだろう。
そんな予感が胸をよぎった。




