脱獄
静かすぎる夜は、不吉だ。
私はいつものように冷たい壁にもたれ、浅い眠りと目覚めを繰り返していた。
ぽたり。
水滴が落ちる音。
その音だけが、牢の中では世界のすべてだった。
やがて、遠くから足音が聞こえてくる。
規則正しく、ゆっくりと。
夜番の牢番だ。
私は薄く目を開けた。
「起きているか」
「ええ」
彼はいつものように鉄格子の前で立ち止まった。
だが、今夜は何かが違った。
帽子の影から覗く表情は険しく、いつもの落ち着きがなかった。
「……時間がない」
低い声だった。
「どうしたんですか」
彼は答えず、周囲を見回す。
誰もいないことを確認すると、小さな鍵束を取り出した。
金属の擦れる音。
次の瞬間――。
カチリ。
牢の鍵が開いた。
私は目を見開く。
「な……」
「立て」
「何を……」
「今夜、お前はここを出る」
頭が真っ白になった。
何を言われたのかわからない。
「冗談はやめてください」
「冗談を言う時間はない」
彼は真剣だった。
「脱獄だ」
私は思わず笑ってしまった。
乾いた笑いだった。
「無理です」
「無理ではない」
「捕まります」
「捕まる前に城を出る」
「そんなこと――」
「聞け」
彼の一声で、私の言葉は止まった。
「明日の朝、お前は処刑される」
私は凍り付いた。
「……え?」
「終身刑は取り消された」
「そんな話……」
「三日前に決まった」
足元から力が抜けていく。
終身刑。
だから私は、生きている限り牢にいるだけだと思っていた。
それが唯一の未来だった。
なのに。
「なぜ……」
「証拠を消すためだ」
彼は短く言った。
「証拠?」
「お前は国家反逆者ではない」
「……!」
「最初から冤罪だ」
私は息を呑む。
「知って……いたんですか」
「知っていた」
「どうして」
「今は話している時間がない」
彼は私の腕を掴んだ。
「歩け」
私は動けなかった。
何年も閉じ込められていた足は震え、うまく立てない。
牢の扉は開いたままだった。
錆びた蝶番が、かすかに軋んでいる。
その向こうには、何年も許されなかった自由があった。
「行くぞ」
牢番が手を差し伸べる。
けれど私は、その手を見つめることしかできなかった。
自由。
その言葉は、もはや遠くなりすぎていた。
牢の扉は開いたままだった。
錆びた蝶番が、かすかに軋んでいる。
その向こうには、誰にも許されなかった自由があった。
「行くぞ」
牢番が手を差し伸べる。
けれど私は、その手を見つめることしかできなかった。
自由。
その言葉は、あまりにも遠くなりすぎていた。
「……行きません」
牢番の動きが止まる。
「何だと」
「私はここにいます」
「処刑されるぞ」
「知っています」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
「怖くないのか」
「怖いです」
私は小さく笑った。
「でも、それ以上に……外が怖いんです」
何年も。
何年も、この石の箱の中だけで生きてきた。
季節は鉄格子から見える空でしか知らない。
耳にするのは、看守の罵声と、この男の声だけだ。
歩くことも忘れかけている。
そんな私が、いまさら外へ出てどう生きればいいのだろう。
「私には帰る家もありません」
両親はとうに亡くなったと聞かされた。
友人も、師匠も、おそらく私を死んだ人間だと思っている。
「誰も待っていません」
牢番は何も言わない。
「だったら……ここで終わるほうが自然です」
自分でも、不思議なくらい素直な言葉だった。
「ここが私の世界です」
牢の壁。
湿った藁。
黒パン。
冷たい石。
それが私の日常になっていた。
いつしか私は、この場所で死ぬことを受け入れていたのだ。
牢番は静かに息を吐く。
「お前は」
低い声だった。
「生きることを諦めたのか」
「諦めたというより……」
私は首を振る。
「慣れたんです」
それが一番近い。
絶望は長く続くと、痛みではなくなる。
ただの日常になる。
「だから、もう——」
その瞬間だった。
遠くで鐘が鳴った。
ゴォォォォン――。
牢番の表情が変わる。
「まずい」
続けて足音。
何人も。
地下牢へ向かってくる。
「時間切れか」
彼は舌打ちした。
「来るぞ!」
私は首を振る。
「私は残ります。」
「黙れ」
「お願いです。」
「聞け」
「あなたまで巻き込みたくありません」
「もう巻き込まれている」
足音が近づく。
怒号が聞こえる。
「地下牢を確認しろ!」
「夜番はどこだ!」
牢番は一瞬だけ目を閉じた。
何かを決めた顔だった。
「悪い」
「え?」
彼は懐から小さな布を取り出した。
甘い香りがした。
薬草。
「……!」
気づいた時には遅かった。
口元を覆われる。
「眠れ」
「や……」
必死にもがく。
けれど衰えた身体では敵わない。
甘い香りが肺へ入り込む。
視界が揺れる。
「離し……」
手に力が入らない。
「ごめんなさい……」
私は何を謝ったのかわからなかった。
彼なのか。
自分なのか。
「謝るな」
その声だけが耳元で聞こえた。
「今度は俺がお前を守る」
ーー今度は?
意識が沈んでいく。
最後に感じたのは、誰かに抱き上げられる温もりだった。




