36『父親失格の男へ』
「お父さんに電話をかけたらどうですか?」
「……藪から棒だな」
街を徘徊するゾンビの群れを狩っている、まさにその最中のことだ。
シルバがワイヤーでゾンビを鮮やかに細切れにしながら、唐突にそんなことを提案してきた。
「ニードルさんとは別行動ですし、いい機会では?」
「だから、なんで今、父さんに電話しなきゃならないんだよ」
父さんと別居してからの三年間。
俺から電話をかけたことは一度もないし、向こうからの着信に出たことすら稀だった。
「お父さんと仲直りしたいんでしょう?」
「……わからない。ただ、今の中途半端な関係が嫌なのは確かだ」
『自分が悪いんです』というオーラばかり出して、決して決定的な謝罪は口にしない父親。
そりゃあ、父さんだって辛かっただろう。最愛の人を亡くしたんだから。その現実から逃げるように酒に溺れたのも、頭では理解できる。
けど、俺の気持ちはどうなるんだ。
大好きだった母さんが死んで絶望していた時に、一番信じていた父親に殴られた、俺の気持ちは。
「いいですか、エレナさん」
シルバがゾンビを解体する手を止め、真剣な瞳で俺を見つめてきた。
「結局のところ、自分の要望は言葉にしないと相手には伝わりません。『察してほしい』という感情を否定するつもりはありませんが、ひどく手間がかかりますよ」
「……俺は殴られたんだぞ。あっちから謝ってくるのが当たり前だろ」
つい、口調が荒くなる。
だって俺は何も悪くない。完全に被害者だ。なんでシルバに説教されなきゃいけないんだ。
苛立つ俺を見て、シルバは困ったように笑った。
「……すみません。エレナさんを否定するつもりは毛頭なかったのですが」
背後から迫ってきたゾンビを、シルバが振り返りざまにワイヤーで切り裂く。
「ただ、年長者として一つだけ言えるのは、『時間が解決してくれる』というのは嘘だということです」
「……というと?」
「私にはトラウマなんて大層なものはありませんが、後悔なら山ほどあります。……例えば、前の会社にいた田中さんに告白しなかったこととか」
「……ふっ」
突然飛び出したおっさん臭い自虐に、強張っていた体の力が抜ける。
「やらなかった後悔というのは、ずっと残り続けます。多分、行動に移さない限りは永遠に」
「でもシルバ、婚活してないじゃん」
「うぐっ……だって、私はおじさんですし……」
シルバがわかりやすく目を泳がせる。
魔法少女に変身している今は見目麗しい美少女だが、その中身はくたびれた不健康なおっさんなのだ。
「と、ともかく! もしも今、胸に手を当てて『このままでは後悔する』と感じたのなら、電話をかけてみてはどうです?」
「…………」
言われた通り、自分の胸に手を当ててみる。
……ふと思い出したのは、子供の頃の記憶だ。
一緒に釣りに行って、釣った魚を父さんが料理してくれたこと。
濃い味が好きな父さんの味付けのせいで、俺と母さんは水を何杯も飲む羽目になったっけ。
殴られた記憶は、今でも深い傷になっている。
それでも、俺に残った唯一の家族なのだ。
完全に許せるかどうかはわからない。でも、せめて、もう少しまともに会話ができるようにはなりたかった。
電話越しの父さんは、いつも言葉につっかえて、焦って、しどろもどろになってばかりいるから。
俺は黙って路地裏に入り、変身を解いて元の姿に戻った。
ポケットからスマホを取り出す手が、微かに震えている。心臓の音がやけにうるさくて、視界が狭まっていく。
「エレナさん」
シルバがそっと、俺の空いている左手を両手で包み込むように掴んだ。
女の子の姿をしたおっさんの手は、妙に温かい。その体温を感じていると、速くなっていた呼吸が少しだけ落ち着いた。
俺は電話帳を開き――三年ぶりに、自分から父さんに電話をかけた。
『彼方……? その……ど、どうしたんだ?』
スピーカー越しに、困惑と緊張が入り混じった父さんの声が聞こえる。
背景の喧騒が酷いのは、父さんが地下の避難所にいるからだろう。
「……無事?」
俺は低い声で、できるだけ短く告げた。
『え? 無事って?』
「……千葉に、怪物がでたんだろ」
『……あ、ああ』
気まずい沈黙が流れる。
『彼方。……その、心配してくれているのか?』
「そうだよ。……一応、家族、だし」
『っ! ……そうか……ありがとな、彼方』
父さんは、震える声で感謝の言葉を繰り返した。
『本当にありがとう、彼方』
また、気まずい沈黙が降りる。
俺は乾いた唇を舐め、思わず切ろうとしてしまった通話を、なんとか繋ぎ止めた。
「父さん。……俺は父さんのことを許してないし、多分、これからも許せない」
『…………』
「昨日まで愛情を注いでくれた人に裏切られて、殴られたんだ」
気づいた時には、目尻が熱くなっていた。
もう、言葉が止まらない。
「母さんが亡くなって、俺だってショックだったんだ。自分だけが悲しいと思うなよ!」
路地裏に、俺の叫び声が轟く。
みっともなく、何度も嗚咽が漏れてしまう。
『……ごめんな、彼方』
静かに、父さんが謝罪した。
『ごめんな、彼方。本当にごめん。俺は父親失格だ。本当に……ごめん』
……なんだよ。
言えるじゃないか。ちゃんと、謝れるじゃないか。
じゃあ、なんで今まで謝らなかったんだよ。
「……意気地なし」
俺は子供じみた罵倒をぶつける。
「意気地なし。バカ、ヘタレ、腰抜け、憶病者」
ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「父さんなんて嫌いだ! 大嫌いだ! 大嫌いだけど……っ、それでも、それでも……嫌いになりきれない!」
『彼方……』
テストで二十点を取った俺を叱ることなく、夜遅くまで勉強に付き合ってくれた。
マラソン大会で優勝したいと言った俺のために、一緒になって息を切らして海沿いを走ってくれた。
俺が風邪を引いた時は、馬鹿みたいに焦って騒いで、不味いお粥を作って母さんに呆れられていた。
「……だから。許しはしないけど、絶縁もしない」
俺は袖で乱暴に涙を拭った。
「……アンタは一生、俺と顔を合わせるたびに罪悪感を抱えてろ! わかったな?」
『……ああ、わかった』
涙で視界がぐちゃぐちゃだ。
『……本当にごめんな、彼方。それから……ありがとう』
「…………」
俺は狭い路地裏から空を見上げて、大きく息を吐き――それから、電話を切った。




