31『偏食家な吸血鬼』
「……あれだ」
先頭をいくニードルが、声を潜めて告げた。
天井に張り付いたまま、俺は真下を覗き込む。
「黒い霧……?」
「そこからゾンビが生まれていますね」
シルバの言う通り、薄く広がった黒い霧の底から、不気味なシルエットが次々と這い出してきていた。
俺たちの言葉に、ニードルが静かに頷く。
「怪物が現れる前には、必ずあの黒い霧が発生するんだ。霧の濃さを見れば、怪物の危険度がわかる」
「あの霧、魔力だよな? 魔法少女の魔力と違って、やたらと禍々しいけど……」
自分の体内に意識を向けてみる。
巡っているのは、白く透き通った穢れのない純粋な魔力。それだけに、眼下の異様さが際立って感じられた。
「アタシがカミィから聞いた話だと、怪物ってのは穢れた魔力の塊らしいからな」
「なぁ、あの霧はどうやったら消えるんだ?」
「浄化能力持ちの魔法少女がいないなら、魔力が底を突くまで待つしかない。……って、ん?」
ニードルが短く息を呑んだ。
突如、黒い霧が猛烈な勢いで渦巻き、一箇所へと収束を始めたのだ。霧は凝縮され、人一人が収まるほどの禍々しい黒の繭へと姿を変える。
「……まずいな。おい、ヤバいのが来るぞ!」
ニードルの声に焦りが混じる。
「ヤバいのって?」
「二人とも、戦闘準備だ!」
――ピキ、ピキピキッ。
不吉な音を立てて、繭に亀裂が入る。俺はすかさず電磁石化を解除し、天井から地面へと着地した。
割れた繭の奥から現れたのは、一人の男だった。
貴族のような格式高い衣服を纏い、オールバックの銀髪に、妖しく輝く真紅の瞳。薄い唇には、こちらを見下すような傲慢な笑みが浮かんでいる。
「……吸血鬼」
ニードルが苦々しく呟く。
「吸血鬼って、ノーラのモデルになった?」
「そうだ。吸血鬼は強いぞ……!」
そんな俺たちの警戒を余所に、吸血鬼は尊大な視線を向けて、高圧的に問いかけてきた。
「娘よ。また二つの世界が接触したのか?」
「……は?」
予想外の言葉に、俺とシルバは思わずぽかんと口を開けてしまう。
その反応が気に入らなかったのか、吸血鬼は露骨に不快そうな表情を浮かべた。
「ふん、なんと無知な。……まぁよい。貴様らを、目覚めの最初の食事としよう」
放たれたのは、鮮血の残光――血の斬撃だ。
「ハッ!」
先頭のニードルが鋭い踏み込みから正拳を突き出す。
放たれた衝撃波が、迫る凶刃を正面から叩き潰した。激突の爆風が俺の頬を打つ。
吸血鬼は、面白そうに片眉を跳ね上げた。
「ほう……。ならば、出力を上げるまでだ」
一瞬で、五条の赤い線が虚空に走る。
速い。視認することすら困難な速度。
呆然と立ち尽くす俺たちの前に、すぐさまニードルが割り込んだ。
「おおおおおっ!」
咆哮とともに、猛烈な密度の魔力を込めた五連撃の衝撃波が放たれる。
ニードルが文字通り、身を削って俺たちを庇っているのがその背中から伝わってきた。
「二人とも! 目に魔力を流して動体視力を強化しろ! 足手まといを護りながら勝てる相手じゃない!」
「すぐやる!」
目に魔力を流す? そんな技術、初耳だ。だが、迷っている暇はない。体内の魔力を強引に視神経へと流し込む。
「ぐっ……あ、ガッ……!」
視界が真っ赤に染まり、眼球が裏返るような激痛が脳を突き刺した。
出力の加減がわからない。それでも、痛みを根性でねじ伏せて目を見開く。
世界が、変わった。
吸血鬼が追加で放った十条の斬撃。それが、まるで泥の中を進むかのように、極限までスローモーションに引き延ばされて見えた。
「見える……!」
俺は左前方へと地を蹴り、迫り来る死線を紙一重で跳び越える。
「シルバ! とにかく硬さに特化したワイヤーを俺の手に巻け! 分厚くだ!」
視界の端で、シルバがワイヤーを駆使して立体的に斬撃を回避しているのが見える。
彼女は俺の意図を瞬時に汲み取り、空中を舞いながら極細の鋼線を射出した。
ガガガガガッ! と硬質な音を立てて、俺の両拳に何重もの鋼鉄の層が形成されていく。
これならいける!
俺は全力の身体強化を全細胞に施し、一気に吸血鬼との距離を詰めた。間合いは残り一メートル。
肉薄したその瞬間、吸血鬼の指先が再び静かに跳ね上がる。追撃の斬撃。
この至近距離では、いくら世界が遅く見えても回避は不可能。
なら、避けるのをやめるだけだ。
「うおおおおおっ!!!」
バチバチと火花を散らす電磁の力をワイヤーの拳へと乗せ、全力の正拳突きを突き出す。
――ガキィィィィン!!
斬撃と拳が正面衝突し、肉体が軋むような重い衝撃が腕を伝う。
鋼鉄のワイヤーが削れ、火花が視界を埋め尽くすが、構わず力で押し切る!
俺の拳は無傷、このままその傲慢な顔面を叩き割る――!
拳が吸血鬼の肌に触れる、その寸前。
「――何っ!?」
目の前の質量が、唐突に消失した。
殴り抜けた拳が空を切り、前のめりになった視界を、一匹の黒い蝙蝠が不敵に横切っていく。
さっきまで、そんなものはどこにもいなかったはずだ。
蝙蝠は流れるような軌跡を描き、俺の後頭部へと回り込む。
「しまっ――」
慌てて振り向いた瞬間には、すでに蝙蝠は妖艶な銀髪の男へと姿を戻していた。
見下ろす真紅の瞳。俺の首筋を目がけて、容赦のない手刀が振り下ろされる。
「やめろぉッ!」
ニードルが猛然と突っ込んでくる。吸血鬼がそれを牽制するために、赤い斬撃を飛ばす。
コンマ数秒の、隙。
俺はその刹那にすべてを賭け、全力で地面に這いつくばった。
シュンッ!
頭上を、空気を切り裂く鋭い風切り音が通り過ぎていく。手刀は、俺の髪の毛を数本散らすのみで空を切った。
「っ……あっぶねぇ……!」
心臓がうるさいほどに跳ね回り、全身の血の気が一気に引いていく。
吸血鬼は仕留め損ねた手を止め、酷く退屈そうに深いため息を吐いた。
「……中途半端なものは嫌いだ。弱ければ嬲り甲斐があり、強ければ戦い甲斐がある。だが、貴様らにはそのどちらもない」
「……随分と偏食家だな。そのまま油断しててくれよ」
膝の震えを必死に抑え、軽口を叩き返した俺を、吸血鬼はゴミを見るような目で一瞥し、静かに片手を掲げた。
「ならば慢心せずに戦おう。……腐肉どもよ。傍観はもうよい。貴様らも働け」
その言葉が引き金だった。
今まで背景のように静まり返っていたゾンビの群れが、一斉に、濁った咆哮を上げて俺たちへと牙を剥いた。




