29『おじさんの慟哭』
バァン! と、鼓膜を震わせる破裂音が道場に響き渡った。
目の前にあるのは、繊維が引きちぎられ、鋭いささくれを無数に尖らせて不格好に二つに裂けた板。
「いってぇ!」
全力で突き出した俺の拳は、手首のところで綺麗に『くの字』に折れ曲がっていた。
激痛が遅れて脳を突き刺す。
骨がズレるような不快な感触に思わず顔をしかめていると、すぐ横から「パン!」と小気味いい音が弾けた。
ニードルの放った正拳突きが、板を木目に沿って一瞬で真っ二つに叩き割ったのだ。彼女は俺の無様な手首を見て苦笑いする。
「大丈夫か? アタシも昔、同じふうにやらかしたことがあるんだ」
「大丈夫かい? フォーム自体はうまくできているんだけどね」
父さんが俺の手首に手際よく湿布を貼ってくれる。
「ありがとうございます、師範……」
痛みと熱気のせいで、額からどっと汗が流れ落ちる。
何百回と正拳突きを交互に繰り返す猛特訓。
シルバはとうの昔にギブアップして隅で体育座りをしていた。
「よしっ。時間も時間だし、今日の稽古はこれで終わろう。……本当はもっと色々教えたいんだが、今日は体験みたいなものだからね」
父さんの言葉に救われ、呼吸を整える整理体操と黙想を終える。
最後にみんなで雑巾がけを済ませる頃には、俺もシルバもニードルも、文字通り汗だくだった。一刻も早くシャワーを浴びたい。
「よしっ! 二人とも、シャワー浴びに行こうぜ!」
「えっ、ちょ……待っ――」
俺たちが抗議するより早く、ニードルに両腕をガシッと掴まれた。
そのまま強引に引きずられる。
連れて行かれた先は――当然のごとく、女子更衣室だった。
「シャワーがない道場も多くてさ。ここは最高だよな!」
更衣室に入るやいなや、ニードルは迷いなく道着を脱ぎ捨てていく。
ピチピチのアンダーウェアやスポーツTシャツも躊躇なく脱がれ、健康的な小麦色の肌があらわになっていく。
コーンロウに編み込まれた後ろ髪が、汗で彼女の背中に張り付いていた。
((見たらダメだ……っ!!))
中身が男子高校生の俺と、おっさんのシルバだ。
俺たちは音速の勢いで壁側を向き、互いに背中を向け合って道着を脱いだ。
最近は魔法少女の姿で外に出ることも増え、着替える機会自体は多かった。……多かったが、やっぱりこの状況には全く慣れない!
壁のシミを必死に見つめながら、おどおどした手つきで裸になり、逃げ込むようにシャワーブースへと飛び込んだ。
激しいシャワーの音に混じって、隣のブースからニードルの声が響く。
「やっぱ汗だくで家まで帰るのは恥ずかしいし、すぐ流せるのはいいよな」
「……そうだな。本当に、助かる」
「だろ?」
やがて、ニードル側のシャワーの音が止まった。
「二人ともシャワー長いな。あんま水使いすぎるなよ?」
「あ、ああ、ごめん」
「……す、すみません」
俺とシルバが口々に謝る。
申し訳ないとは思う。思うが――ニードルの着替えが完全に終わるまで、俺たちは絶対にこのシャワーブースから出るわけにはいかないのだ。
「ところでさ、二人はいつまでこの道場にいるんだ?」
衣擦れの音を響かせながら、ニードルが尋ねてきた。
「三日か四日くらいかな? それくらいたてば、学校も再開するだろうし」
「そっか。短いな。……また寂しくなっちまうな」
ぽつりと、寂しそうに呟く声。
どうやら服を着終えた気配がしたので、俺たちも意を決してシャワーブースから出た。
ロッカーから着替えを取り出そうと、こそこそ動く俺とシルバ。
そんな俺たちの姿を見て、ニードルが感心したように目を丸くした。
「お前たち、アタシと違って育ちがいいんだな」
「……なんで?」
「ほら、バスタオルを全身にきっちり巻いてるだろ? アタシそんな面倒なことしないぜ?」
「ああ、まぁ、うん……」
違うんだ、ニードル。育ちが良いんじゃない。
俺たち自身が、自分たちの身体を直視できなくて、必死に隠しているだけなんだ……。
「そ、そういえばさ。師範って普段、どんな人なんだ?」
気まずい沈黙をごまかすため、俺はバスタオルの端を握りしめながらニードルに話を振った。
実の父親が、いまどんな風に暮らしているのか――知りたくないと言えば、嘘になる。
「師範? いい人だよ。人格も実力もあってさ、マジでかっこいい。……あっ、別に惚れてるわけじゃないぜ? さすがに歳が離れすぎてるし」
ニードルはペットボトルの水を喉に流し込み、ぷはぁ、と息を吐いて言葉を続ける。
「たださ。そんな完璧に見える師範だけど、一つだけ思うところがあるんだよな。……息子さんのことなんだけど」
「息子……?」
ドクン、と心臓が嫌な跳ね方をした。思わず身体が硬直する。
横で同じようにバスタオルを巻いていたシルバが、おそるおそる俺に視線を投げかけてくるのが分かった。
「うん。なんか息子さんと大喧嘩しちゃってさ、ずっと謝れてないみたいなんだ。本当は今すぐにでも謝りたいんだけど、合わせる顔がないっていうか、会いに行く勇気が出ないんだってさ。この前、寂しそうに零してた」
「……ふーん、そうなんだ」
なるべく平坦な声を意識したが、喉がひきつって上手く声が出ない。
シルバからの視線が、チクチクと痛いほどに突き刺さる。
『自立したいと駄々をこねて一人暮らしを勝ち取った』
俺がシルバについていた嘘が、完全にメッキを剥がされた瞬間だった。
「詳しい原因までは聞いてないんだけどさ」
ニードルはスポーツバッグを肩にかけ、更衣室のドアに手をかけた。
「師範は『自分が百パーセント悪い』の一点張りなんだよね。そこまで反省してんなら、さっさと勇気出せよって思っちゃうんだけどさ。……じゃ、アタシ先に行くわ。また明日な!」
カラカラと扉が閉まり、更衣室に静寂が戻る。
……自分が悪いの一点張り、か。
母さんが亡くなって、酒に溺れ、正気を失って――俺を一度だけ殴ってしまった。
父さんは本気で悔いて、悪いと思っている。それは事実なのだろう。分かってはいた。
でなければ、いくら「魔法少女の姿」という変装の盾があるとはいえ、わざわざ自分から会いに来たりはしない。
◇ ◇ ◇
道場からホテルへの帰り道。
街灯がぽつぽつと照らす夜道は静かで、俺たちの足音だけが響いていた。
「エレナさん。……どういうことですか?」
背後から、低く、妙に重みのある声が降ってきた。
振り返ると、シルバが真剣な――どこか怒りを含んだような表情で俺を見つめていた。
「……ごめん。父さんとは、ちょっとね。あの一人暮らしの理由、嘘なんだ。大喧嘩して、それ以来ずっと口を利いてなくて」
さすがに「殴られた」とまで言うのは躊躇われ、言葉を濁した。
シルバはふぅ、と深く、重いため息を吐き出す。てっきり嘘をつかれたことを責められるか、あるいは家庭の事情に首を突っ込んだことを謝られるかと思った。
だが、彼の口から飛び出したのは、まったく予想外の言葉だった。
「私は……結婚できないまま、おじさんになりました」
「……は?」
あまりの斜め上の告白に、俺の足がピタリと止まる。
「新しく家族を作るということが、どれだけ奇跡的で、どれだけ大変なことか……エレナさんには分かりますか? だから――だから今ある家族は、死ぬ気で大切にしなきゃいけないんです!」
それは、アラフォーになっても独身を貫くことになってしまった男の、血を吐くような悲哀の慟哭だった。
街灯に照らされたシルバの顔は、夜の暗闇よりも深い絶望を湛えている。
「同僚や友人は皆、当たり前のように結婚していき、一人取り残されていくこの焦燥感! 大学時代の友人にはもう子供が二人もいるんですよ!? お盆に集まるたびに『お前はまだなのか』と言われる私の気持ちが分かりますか! なのに私は、未だに一人っ……!」
「お、おう……なんか、ごめん……」
あまりの熱量と個人的な怨念の深さに、俺は一歩引いた。
「ですからともかく!」
シルバは自分の涙を拭うように顔をあおぐと、ビシッと俺を指差した。
「今ある家族は大切にしてください。……あなたが魔法少女の姿になってまで康介さんに会いに来たということは、心のどこかで、仲直りしてもいいと思っているからなのでしょう?」
真っ直ぐな言葉が、俺の胸の奥につかえていた塊を、静かに突き動かした。




