4.治癒魔法
「や、止め、ろ……来るな……ッ!」
ブレイドは、無様に地を這いながら後退った。
折れた足が地面に引っかかり、砕けた骨が肉を突き破るたびに、喉からヒュッという情けない悲鳴が漏れる。
その激痛すら霞ませるほどにゼノが恐ろしいらしい。先ほどまでの傲慢な態度は見る影もない。
「安心しろ、これで死にはしない。今、そこの治癒師がやってたような魔法じゃなく、本物の治癒を──その身を以て勉強させてやる」
もちろん彼らが期待するような、傷を塞ぐだけの温かな光などは溢れないが。
ゼノから放たれるのは、純粋な慈愛の下に生み出された、原初の治癒魔法だ。
「──《あるべき場所へ》」
詠唱とともに右手を彼らへかざした刹那、四人の肉体が再生を始める。
「──あ、え……あ、ああああアァァァッ!!?」
迷宮の静寂を、三人の重なり合った絶叫が切り裂く。
現在進行系で行使されている治癒師の治癒魔法を、ゼノの魔法で上書きした。
たったそれだけで無理やり繋がっていた筋肉の繊維が、一本、また一本と、目に見える速度で弾け飛んでいく。
「な、なん、だこれ……ッ! 傷が、戻って……いや、裂けて……あづぁぁッ!!」
一度塞がった腹部の穴が、内側から爆ぜるように再び開通する。
吹き出した血が、重力を無視して宙を舞い、再び傷口へと吸い込まれては塞がる。
破壊、再生、破壊、再生、破壊、再生──。
この戦闘で傷を負う度に魔法で繋いだ肉体の記憶。
細胞一つ一つが辿った道を、元の居場所へと逆行するよう還らせる治癒魔法だ。
そのプロセスが繰り返されるたび、彼らは死の淵まで連れて行かれ、強引に現実へと引き戻されることだろう。
「ひぐっ、あ……げ、……も、もう、勘弁してくれ……ッ! 俺たちは、もう十分ベヒモスに……酷い目に遭わされただろ……ッ! お前も見てただろうがッ!?」
一瞬の停滞。
治癒の合間に傷一つない姿で蹲ったブレイドが、血と涙に塗れた顔を上げて震える声で訴えた。
自分たちは報いを受けた。囮として捨てた代償として地獄を見た。だからもうこれで終わりにしてくれ、という卑俗な命乞い。
それがおかしくてたまらず、ゼノはクツクツと冷たく笑い飛ばした。
「酷い目に遭わされた? ハッ、当たり前だろうが。お前らがエサだと与えたモノに、逆に痛い目に遭わされたんだ。そんな毒物を持って来た奴に、あいつが怒るのは当然のことだろうよ」
「そんな、理屈……っ!」
「だからこれは俺の分だ。──右腕、痛かったからなぁ?」
きっぱりと吐き捨てたゼノの言葉にブレイドは顔を引き攣らせた。
「腕を落とされた人間の悲鳴を聞いて笑えるような奴らだ。……当然、痛みなんて知らないんだろ?」
ゼノは視線をフィオリアと呼ばれていた治癒師へと向ける。
彼女が使っていた治癒魔法。痛みを消し、過程を飛ばし、結果だけを接木するように繋ぐ術。
忌々しい、人を人で無くした破滅の魔法。
「そんな便利な魔法があるから、このバカ共は相打ち前提の無謀な戦い方しかしなくなる! その便利さが人間を腐らせたって、教わらなかったか!?」
歪んだ魔法の在り方への嫌悪を上乗せして、ゼノは治癒を再開する。
今度は、先ほどよりもさらに緩やかに、しかし執拗な密度で逆再生が始まった。
「ぐ、ごおおおおッ! う、くッ、うで、がぁぁぁッ!!」
バルカスが苦鳴を上げる。
腕と肋骨とが、ベヒモスの尾が食い込んだ瞬間の形に拉げ、剥離していく。
「ぎぃゃあああああっ!! 私、こん、な怪我してない、わよ……っ!」
ミラが絶叫する。
全身に薄く斬られたような細かな裂傷が走り、血が噴出する。衝撃波を受けた時の負傷だろう。
「あ、っづあ゛あ、ああアア! なん、だよこれえええッ!?」
ブレイドが悶絶する。
皮膚が沸々と煮えるようにドロドロになって爛れていく。ミラの炎へ飛び込んだときの火傷だろう。
治癒の過程を遡るということは、その瞬間の痛みを、神経が数百倍もの鮮度で拾い直すということだ。
それも、彼ら自身が気付いてもいなかった負傷。
フィオリアは瞬時に治癒していたということになる。
それに今も──、
「んん……! くっ……」
全身の骨を粉々に砕かれたはずのフィオリアは、呻きながらも抗っている。
ゼノの治癒による再生を自身の治癒で強引に捻じ伏せているのだ。転生直後かつ、魔法に触れてこなかった少年の肉体で、魔力操作が安定していないとはいえ、魔法の始祖相手に目を見張るものはあるが──、
「痛みは、ない方がいいと思うか?」
「そん、なの……当たり前、でしょ」
「それは残念、魔法の腕はいいのに勿体ない。時代のせいもあるが──勉強不足だな」
ゼノが指先を微かに動かす。それだけで、彼女が必死に維持していた治癒の術式が引き剥がされる。
「なっ……あ、ああああああッ!?」
その絶叫は、他の三人とはまるで別物だった。
フィオリアは自らの治癒魔法で無理やり均衡を保とうとした。その行為こそが地獄への片道切符だったのだ。
ゼノの治癒は、細胞が辿った歴史を巻き戻す。
一方でフィオリアの治癒は、強引に細胞を繋ぎ合わせる。
この二つが衝突し、上書きされた瞬間──彼女の肉体の中で数千回、あるいは数万回に及ぶ“破壊”と“再生”が、刹那の間に凝縮されて発散される。
骨が砕け、瞬時に接合し、再び粉砕される。
内臓が泥のように溶け、再生し、また破裂する。
それはもはや、魂を少しずつ削り取るような、痛みの域を超えた蹂躙。
「あ、ァア゛……あ、あ、あ゛あああああああああアアアアアアアアアアアアッ!!」
声が枯れ、喉が裂け、それすらもゼノの魔法はあるべき姿へと回帰させる。そこにどれだけの激痛が伴おうと彼女を死なせることはない。
魔法の格が違う。
理論の深さが違う。
彼女が慈悲だと信じていたものは、ゼノにとっては兵士を死なせず戦わせるために、現実を誤魔化す不純な蓋でしかない。
やがてゼノが手を下ろすと、フィオリアは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
外傷はない。だが一生かけても味わいきれないほどの“死”を短時間で強制体験させられ、燃え尽きたようだった。
たかが数分。しかし彼らにとっては数時間にも感じられたはずだ。
彼らがベヒモスとの戦闘で受けたダメージを、ゼノは何百回分もの苦痛として、その魂に刻み付けた。
やがて迷宮に響く絶叫が枯れ、乾いた嗚咽だけが残る。四人の肉体は完璧に修復されたが、その瞳からは生気が完全に消え失せていた。
「さ、斬られた苦痛の分はこんなもんだろう」
殺すだけならいつでも殺せるのだ。ひとまず今じゃなくていいだろう。
ありがたいことに、先ほど糧となってくれたベヒモスのおかげで、当面は魔力枯渇の心配もなさそうだ。
ゼノは一旦彼らを放置し、ベヒモスが鎮座していた最奥の祭壇へと足を向ける。
そこには拍動する心臓のような、青白く光る結晶が浮遊している。
おそらくこの迷宮の維持をしているであろう動力源──魔力核だ。
実に懐かしい。ゼノにとってはこれこそが真の聖遺物と呼ぶにふさわしい膨大な魔力の塊。
「ライラ、預かっててくれ」
ゼノが手をかざすと、不可視の闇が魔力核を優しく包み込み、巨大な結晶はみるみる圧縮されて静かに消え去った。ライラが持つ魔力の内側に収納されたようだ。
質量すら無視する術式。なんて優秀な愛弟子なのだろうか。
そんな感慨も束の間、核を失った迷宮が悲鳴を上げ、天井から土砂が降り注ぎ始める。
「おい、いつまで寝てるんだ。立て」
ゼノの言葉に、ブレイドたちは跳ね起きた。
「こんな場所まで強引に連れてきたんだ、帰りの面倒も見てもらうぞ」
彼らは震える足で立ち上がり、自分たちが捨てようとした少年の後ろを、血に汚れた荷物を抱えて、時には道中の魔物を蹴散らし、這いずるように追った。
地下迷宮の出口から差し込む光が、少年のまだ幼さの残る顔を照らす。
迷宮の外には、これからやるべきことが山ほどある。
転生は叶った。
飼いならされた魔獣に、完成された魔法体系──。
背後にいる彼らが放った魔法は、少なくともゼノが知っているものよりも洗練されていた。
この世界がこれほどまでに腐り果てるのに、一体どれほどの月日が流れたのか。
少なくとも、百年や二百年という単位ではないはずだ。
「聖遺物……ライラだけじゃない、だろうな」
あの日、死ぬ間際に告げられた絶望の報せ。
“ゼノの無実を訴えた者は、異端者として魔導具の素体となる”
何百年経とうと燻ることのない厭悪の炎。
かつてゼノを貶め、教え子たちを弄んだ連中はどんな手を使ってでも必ず殺して、魔法に毒され歪んだこの世界を蹂躙する。
その決意は決して揺らがない。
だが、目覚めるまでの空白を見極める必要はある。
ゼノが知っている限り、人間は百年以上も到底生きられない。つまりもう──。
何もわからないまま、何もわかっていない人間を皆殺しにするよりも、現時点でわかっていることを優先する。
ゼノが再び目覚めることができたのは彼らのおかげでもある。しかしそれは、少年の全てを奪った悪意ある人間共ということだ。
魔法という歪みの果てに跋扈する紛れもない粛清対象──。
無知なまま散々踏み躙られてきた人生も、今のゼノなら全て取り返せる。




