2.死闘
「フハッ、 あのガキの悲鳴、聞いたかよ? 貧民街に行って正解だったな」
リーダーの男──ブレイドは自身の判断に酔いしれるように下卑た笑いを浮かべた。
仲間たちもブレイドに同調し、出口へと急ぐ。
狙い通り、ベヒモスは追ってきていない。あの愚かな少年が囮としてちっぽけな命を散らしてくれたのだ。
「……あ? なんだ?」
出口の石扉へ辿り着こうとしていたブレイドは、背後の異変に足を止め、仲間を制止する。
笑い声、というより狂気に満ち満ちた嗤いが聴こえた気がしたが──、
「────ッ!!!!」
鼓膜を震わせる絶叫に、振り返ったブレイドの目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
右腕を斬り落としたはずの少年が立ち尽くし、災厄級の巨躯は弾かれるように悶え苦しんでいる。
だが、その驚愕はすぐに戦慄へと変わった。
痛みに狂ったベヒモスの双眸は目の前の少年を無視し、逃げるブレイドたちを明確に次の獲物として捉えている。
「なっ!? なんで俺たちに……! ミラ、バルカス! こっちに来る、迎え撃つぞッ!」
ブレイドたちは即座に向き直った。ここで背を向ければ、あの巨躯の突進で背中から粉砕される。数多の死地を越えてきた実力者として、交戦という唯一の生存戦略を選ぶのは当然のことだった。
──現在に至るまで、多くの日雇い荷物持ちを犠牲にしてきたことを、今は棚に上げて。
「分かってるわよ、指図しないで! ──《灼熱の螺旋》!」
魔術師のミラの杖から、迷宮を焼き尽くすほどの火柱が噴き出した。直撃だ。轟音と共にベヒモスが炎に包まれる。
その隙に《身体強化》を纏ったブレイドは大剣を振り抜き、ベヒモスの前足に渾身の一撃を叩き込む。
だが、手応えはない。固すぎる。
竜鱗の一枚すら剥がせやしない。
それどころか、炎の中から現れたベヒモスは無傷だった。
「嘘でしょ……最大火力なのよ!? ブレイドの剣も効いてないし!!」
ミラの悲鳴が響く。
ベヒモスの巨躯が揺れ、その尾が鞭のようにしなった。
即座に戦士のバルカスが前線に上がり、横薙ぎに迫りくる丸太のような尾を受け止める──が、防ぎ切れない。衝撃波だけでパーティーの陣形が崩れる。
バルカスの鎧は拉げ、潰れた果実のように赤黒い体液が噴き出していた。
「カ、ハッ……! フィオ、バルカスの治癒だ! さっさとやれ!」
「《治癒》! ──っ、ダメ、傷が深すぎるっ!! 簡単に言わないで!」
ブレイドの指示に治癒師のフィオリアが必死に詠唱を繰り返すが、ベヒモスの暴威は治癒の速度を易々と上回っていた。
「く……そッ! 俺が前に出るッ! お前ら立て直せよ!」
言ったものの、ブレイドはどう動けばいいのか分からなかった。ただ前に出ただけ。死へ一歩近付いただけ。
仲間の時間を稼ぐために、そのまま大剣を担いで捨て身の特攻──その覚悟を決める時間すらベヒモスは待ってくれない。
掬い上げるように迫る角に反応すらできず、腹部を貫かれ、高く打ち上げられる。臓物を撒き散らし、受け身も取れぬまま地面へと叩きつけられた。
「ぶ……っへぁ……」
致命の一撃。だが、意識が断絶するより早く、後方から放たれたフィオリアの治癒魔法が、散りかけた命を繋ぎ止める。
だが、安堵する暇など微塵もない。
「動かないで、あんたの筋肉ごと焼き切っちゃうわよ!」
ミラの叫びと共に、ピンポイントに調整された熱線がバルカスの拉げた鎧の継ぎ目を溶断する。赤く焼けた鉄塊をかなぐり捨て、剥き出しの身を晒しながらもバルカスは再び立ち上がった。
「おおおおお──ッ!」
再起した戦士の咆哮。しかし、その執念を嘲笑うかのように、ベヒモスの巨爪がバルカスの胸板を無造作に撫でた。
金属音すらしない。ただ肉が裂け、肋骨が砕ける鈍い音が響く。バルカスは声も上げずに吹き飛び、再び動かぬ肉塊と化した。
「ちょっと、無駄死にしてんじゃないわよバルカス! ──な、あぁっ!」
援護の爆炎を放とうとしたミラの足元が、ベヒモスの踏み込みによる地響きで爆ぜた。無様に転んだ彼女に、圧倒的な質量が飛びかかる。
逃げる間もなかった。岩塊のような足が、ミラの腰から下を無慈悲に粉砕する。石畳ごと肉と骨を平らに踏み均す轟音に、湿った嫌な音が混じる。
「ぎ、ぃ嫌ぁぁぁァァ! 足が、わたしの足があぁぁッ!!」
迷宮に響き渡るミラの絶叫。
ブレイドとフィオリアはバルカスとミラを抱え、後方へと引きずる。引きずられた跡には、赤黒い線が長く伸びていた。
フィオリアは震える手で、もはや原型を留めていないミラの足に縋り付く。
「《治癒》! 《治癒》!! ……魔力は無限じゃないの、いい加減にしてよもう、戻って、繋がって……っ!」
全員の命を繋ぎ止め、肩で息をするフィオリア。その顔は蒼白を通り越し、魔力枯渇で指先が激しく痙攣している。
重傷以外にも戦闘中のあらゆる負傷を、常に治癒し続けている彼女の疲弊は計り知れない
ベヒモスの濁った眼球が、ゆっくりと動いた。
この場にいる全員を生かしている元凶──もっとも疲弊し、もっとも厄介な治癒師を、ついにその捕食者の目が捉えた。
「おいフィオリア、逃げ──」
ブレイドの叫びは、突風にかき消された。
ベヒモスの巨大な影が、震えるフィオリアを完全に飲み込む。
そこからは一方的な蹂躙だった。否、最初からそうだったかもしれない。彼女の治癒魔法が唯一の生命線だった。
ブレイドの四肢はあらぬ方向に折れ、バルカスの屈強な肉体は引き裂かれ、ミラの半端に治りかけた下半身は噛みちぎられ、フィオリアは全身の骨を粉々に砕かれた。
──死。
まだかろうじて死んでいないのは、瀕死になりながらも治癒魔法をかけ続けているフィオリアのおかげだろう。
実際、今も緩やかではあるが傷が癒えてきている。
何がダメだったのか。聞いた通りにやったはずだった。弱い囮がいればベヒモスは攻略可能。そのために隻眼隻腕の少年を拾った。
……そうだ。自分たちにはまだ逃げるための道具がある。
「あのクソガキを……っ! ぶっ壊せばまだ──」
ブレイドが卑俗に嗤った、その時だった。
血を流し、立ち尽くしていたはずの少年が、いつの間にかブレイドたちのすぐ傍まで辿り着いていた。
片方しかない瞳には恐怖も焦燥もない。冷たい色を宿したまま、ただただ不快そうに眉を寄せただけだった。
それから少年の視線は、ミラが戦闘中に地面に落としていた布包み──聖遺物《暴食のライラ》へと向けられた。




