14.望まれざる足音
オルマと別れてから、二日が経った。
ゼノとしては、あのまま腰を据えてゆっくりと話し込みたいところだった。
しかし物事には順序というものがある。
それは魔法の構築にも通ずる真理だ。正しく工程を積み上げ、因果の糸を違えず手繰るからこそ、魔法は望み通りの事象を現実にする。
魔法を編み上げるための素材──内側にある魔力と外側に漂う魔力は、根源的には同じでありながら、その本質は似て非なるものだ。
魔力は遍く世界に存在している。大気中に漂うそれは、純粋で無垢な素材そのもの。色も味もない、いわば真水のような状態だ。
魔法とはその真水に味をつける作業に等しい。
たとえば、ただの水を“茶”に変えたいとする。
まずは水を沸騰させ、その湯の中に茶葉を投じるか、あるいは茶葉を敷いた器に湯を注ぐか──。求める結果は同じ“茶”であっても、その過程が違えば、もたらされる風味も渋みも、喉越しさえも微妙に異なってくる。
しかし魔法においてはこの工程以上に厄介な不確定要素が混じり込む。
それが、術者の内側に蓄えられた『体内の魔力』だ。
食事を摂り、呼吸をし、微量ながら皮膚からも外部の魔力を取り込む。それらが血管を巡って臓器を浸し、その人間の肉体と精神に馴染んでいく過程で、無垢だったはずの魔力は僅かに変質する。
平たく言えば、魔力もまた『その人間の形』になるのだ。
魔力は万物に宿る際に自らを変質させ、その変質した力は逆に万物に影響を及ぼす。その性質を逆手に取り、意図した変質を増幅させて結果へと繋げるのが魔法という技術の本質である。
話を戻すと、体内に入った時点で魔力はすでに独自の雑味を帯び、もはや真水とは呼べなくなっている。同じ手順で茶を淹れようとしても、淹れる人間が違えば、出来上がるものの色は濁り、味も変わってしまう。
すなわちその差異こそが、魔法使いが個々に抱える『適性系統』と呼ばれるもので、火、水、風、土、陽、陰──。
ライラの適性が『陰』であるのに対し、ゼノの根源は『水』にある。
その、本来人ごとに異なるはずの不確定要素を演算に組み込み、針の穴を通すような精密さで結果の再現性を担保してみせたからこそ、数百年前の世界はゼノを賢者と崇めたのだが──それはまた別の話だ。
とにかく、正しく手順を踏めば、雑味を帯びた水を真水に戻して、美味しい茶を淹れられるということだ。
恩を返すという同じ結果を望むにしても、順序を守ることは何より大事なのだ。
オルマの元を訪れた当初、彼女が望むのであれば、即座に魔法封じを解いてやるつもりだった。それが、かつて命を繋いでもらったことへの恩返しになると思っていた。
しかし、彼女は魔法を拒んだ。
昔話に花を咲かせ、彼女の魔術師時代の話を聞くのは、その後でなければならない。
ゆえにゼノは、持てる食料のすべてを半ば強引に押し付け、逃げるようにグラトニアの街へと戻ってきたのだが。
どうすれば魔法を使わない恩返しができるのか、悩み抜いているうちに二日が経過してしまったというわけだ。
「……なんで魔法以外の勉強をしてこなかったんだよ、俺は」
グラトニアの通りを歩きながら、ゼノは己の無知さに毒づいた。
魔法を使っていいのなら、火をおこすのも、刃物の斬れ味を良くするのも簡単だ。だが、魔法を拒む相手にそれを押し付けるのは、恩返しではなくただの傲慢でしかない。
魔法を介さない親愛の示し方が、これほどまでに難しいとは思いもしなかった。
さらに、ゼノの目覚めたこの数百年後の世界には、あまりにも魔法が溢れすぎていた。
軒を連ねる商店に並ぶのは、生活を便利にするための魔導具、装飾を目的とした魔導具、護身のための魔導具──。
右を向いても左を向いても、魔法の代替品ばかり。
魔法封じが施されたオルマがこれらを身につけたところで、魔導具としての機能は発揮されない。それ以前に、『魔法はいらない』と断言した相手への贈り物として、魔法の結晶体である魔導具を選ぶのは人としてあり得ないだろう。
改めてオルマの姿を思い返す。
何か糸口があるかもしれない。といっても、記憶の中にあるのは、あのボロ屋に住み、質素を通り越した布切れのような服を纏った老婆という、あまりに乏しい情報だけだ。
飢え、貧困、汚れ。それらすべてを受け入れて、案外楽しいと笑い飛ばした彼女に、一体何を贈れば傲慢にならないのか。
「あ、そういや──」
思案の末、オルマについて一つだけ気になっていた点を、ゼノは思い出した。
彼女が体重を預けていた、あのひび割れた一本の木の棒だ。
◇◇◇
ゴリゴリと硬いものを削る音が、宿屋の裏庭から絶え間なく響く。
額から噴き出した汗がだらだらと頬を伝い、地面に染みを作っていく。柄にもない力仕事に男は呼吸を荒げていた。
ようやく先端が半分ほど丸みを帯びてきたところで、体力と気力を使い果たし、げっそりとやつれた男──ゼノはその場に倒れ伏せた。
「これはまずい……完成する気がしないな……?」
空を見上げながら、ゼノはつい先刻の己の判断を深く、深く悔やんだ。
目の前で不遜な存在感を放つ一本の木材。安物では意味がないと、グラトニアの市場で最も丈夫で密度の高い高級木材を選んだのだが、それが仇となった。
素材の強度は、ゼノの貧弱な腕力を余裕で上回っている。それも片方しか腕がないのだからなおさらだ。
しかしそんなことも言ってられない。
彼女が杖代わりにしていた木の棒は、いつその役目を終えて砕けてもおかしくない代物だった。
もし突然折れでもすれば、あの細い老躯は大怪我を免れない。魔法を持たない彼女にとって、それは致命的だ。
だからこそ手作りで、魔法を介さない純粋な道具としての杖を贈ろうと思った。
そう、思ったのだが──、
「硬すぎるんだよ……なんだこの木……」
文句を垂れながらも作業を進め、翌日にまで持ち越してどうにか形になった杖は──図らずもゼノに染み付いた習性が色濃く反映されていた。
魔導具のように術式が刻まれているわけではない。しかし、その形は無意識のうちに『魔法の出力を最大化する』ための黄金比になってしまった。
誰がどう見ても、それは体を支えるただの杖ではなく、いかにも魔法使いが持っていそうな形状──長杖と呼ぶに相応しい風格。
「……まぁ、丈夫なことには変わりないか」
完成した頃には、街を包む空気が夕闇に染まり始めていた。
◇◇◇
渡すのはさらに翌日に持ち越そうかと考えたゼノだったが、既にオルマと別れて三日が経っている。あまり日を置くのもいらぬ心配をかけそうだと思い直し、重くなった足取りで貧民街へと向かった。
ひび割れた石畳を歩き、やがて舗装の途切れた土の路地へと入る。
澱んだ空気と貧民たちの汗の臭いが鼻を突く。さらに進むにつれて、湿った鉄のような生臭さが混じり始める。
靴裏から伝わるざらついた土の感触に、粘着質な液体がへばりついてくる。
日が落ち、薄暗くなった周囲を見渡せば──見知った顔の住人たちが、恐怖に顔を歪ませて転がっている──皆一様に腕を斬り落とされて。
掘っ立て小屋が並ぶその一角は、赤黒い絨毯を敷き詰めてゼノの帰還を歓迎していた。
そして、崩れかけの一軒の家の前で、彼女はゼノを出迎えた。
三日ぶりの挨拶はない。皺だらけの笑顔も、温かい眼差しも、何も。
地面に転がったまま、動くこともない。
傍らには、彼女の一部だった左腕と、愛用していた木の棒が、濁った血溜まりの中に沈んでいた。
「────」
彼女に贈るはずだった杖に、力を込めた金属の右手が食い込む。
そこへ、ぐちょりと湿った土を踏む音が、ゼノの耳に別の存在がいることを知らせた。
「隻眼隻腕……だね。はは、もう見つけちゃった」
背後から響いたのは、この地獄のような惨状に似つかわしくない、軽やかで爽やかな声。
あたり一面を戦慄へと染め上げた血の海は、皮肉なことに、魔王を自称する少年と、騎士剣を携えた死神の舞台を整えていた。




