10.絶望の上で
「……このために、結界を破壊したのですか」
表情は見えないが、貧民街の支配者から絞り出されたその声は微かに震えていた。
ゼノの反撃から数秒、どうするべきかと様子を窺うジャレッドに、動きを止めたままのヴィンセント。
わざわざ商会の外側に、音と悪臭を隔絶する結界を施していたのは、香を内側に留めるためだったというわけだ。
「そこに結界があったから剥がしておいた。挨拶みたいなものだな」
その結果、ヴィンセントは商会から溢れ出るほど香を焚き、濃密にしすぎたせいでゼノの魔力干渉に気付けなかったのだ。単なる偶然だった。しかし使えるものはありがたく使わせてもらう。
「……まんまとしてやられたと言われる方が、幾らかマシですよ、性悪め」
「ハッ、そんなに喜んで貰えるとは思わなかった」
「今さら薄っぺらな挑発は無意味です……商談を続けましょう」
「お前は賢いな、ヴィンセント。賢明な判断だ」
ゼノは愉悦を隠さず、ソファの背もたれに腕を回す。
取り囲む魔力の剣を霧散させると、ヴィンセントは糸が切れたように大きく息を吐き、ゼノの対面のソファにドカッと荒々しく腰を下ろした。
先ほどまでの理知的な仮面は脱ぎ捨てたようだ。
「……ジャレッド、手出しは無用です……というより──この男は我々の手に負えない」
今にもゼノに斬りかかりそうな忠犬は、主の忠告を受けて腰の剣にかけていた手を下ろした。商会側のわかりやすい屈服。その意図は──、
「商談は続けます……ただ、一つ確認させていただきたい」
貧民街で築いた権力を人質に取られ、教会への敵対を強要され、拒否することも出来ない中で、少しでもマシな落とし所を探りたいのだろう。
それでいい。希望を見出そうとするほどに、きっと絶望の味はより濃厚になるのだから。
ゼノは無言で肯定し、ヴィンセントの続きを促す。
「……魔法封じを取っ払う──実際に見せてもらえますか?」
先ほどバカバカしいと切り捨てた、ゼノの切り札に対する事実確認。ヴィンセントは卓の横に立つジャレッドに視線を移した。
一見すると側近のような立ち位置でありながら、魔法封じがかけられたままのジャレッドは、ゼノの目から見ても歪な主従関係だった。何か確執がありそうだが。
「いいのか? こいつで」
「ええ、お願いします」
主客二人の間で話がまとまり、ゼノが静かに術式を編みかけたところで、
「──待て」
それまで沈黙を守っていたジャレッドが低い声で制止をかけた。鞘から覗く殺気が室内の温度を一段引き下げる。
「俺は許可していないだろう? ……小僧、それにヴィンセント。お前もだ」
ジャレッドの威圧は両者に向けられる。
主従というよりは協力関係といった具合なのだろうか。ゼノの知ったことではないが。
「人には人の、事情があるというものだろう」
「あー……なんだ、そういうのは後で二人でやってくれ。悪いな──《奇跡よ、沈黙せよ》」
ジャレッドの言葉など意に介さず、ゼノは対象の術式へと指先を向ける。
刹那、ジャレッドを縛る幾重にも重なった不可視の鎖が解かれ、魔法封じという名の“沈黙”を“沈黙”させる。
ジャレッドの全身を縛り付けていた透明な圧迫感が、霧が晴れるように霧散していく。
ゼノが見せたその光景に、二人はただ絶句していた。
「そんな……あり得ない……」
ヴィンセントの呟きに、ゼノは嘲笑を浴びせる。
「ハッタリだと思ったよな。 魔法封じの解除なんて大口を叩いた時点で、お前の中で俺は派手な登場の割に底の浅い、無知なガキに成り下がった。……脅威が消えたなら、あとはジャレッドに始末させればいい。そう判断したわけだ──違うか?」
図星だと言わんばかりに、ヴィンセントの表情が僅かに引き攣り始める。
一方、ジャレッドは己の手のひらを何度も握り締め、いつぶりかの身体の奥底から湧き上がる魔力に、驚愕と戸惑いを隠せずにいるようだった。
「ずっと貧民街にいた俺に、今の今まで魔法封じがかけられなかったのは、お前がその術を持っていないか、この魔法自体が一般的ではないかのどちらかだと思ってたよ」
「……魔法封じは一般的ではない。その通りです……」
ヴィンセントは震える手でモノクルを直し、再びゼノを正面から見据えた。
「では……もう一つ、よろしいでしょうか」
「あぁ、いくらでも」
「私がこの魔導具を受け取ったとして、実際に王都の教会へと届ける保証はないでしょう。道中で捨てるなり、他の者に売り払うなり……その辺りはどう考えておられるのか」
ヴィンセントの顔が、今一度、冷静な商人のそれに戻る。魔法封じの件がただのハッタリではないと分かった以上、別の可能性に縋りたいのだろう。
「好きな場所を選べばいいさ。念のために教えておいてやるが──これ一つで、貧民街の半分は軽々消し飛ぶ威力だぞ」
「……っ、なんだ、それは……無茶苦茶過ぎる、でしょう……!」
ヴィンセントの額に汗が滲む。
どこへ運んでも、ヴィンセント商会から流通した魔導具が爆発すれば、その責任はすべて彼に降りかかる。王都でなくとも、国家規模の追及が来ることは避けられない。
そして彼にとって何より厄介なのは、起爆のタイミングがまるで読めないという事実。
ヴィンセントの顔が、今度こそ底知れぬ絶望に歪み始める。
「やっと分かってきたみたいだな? 最初からお前に逃げ場はないんだよ」
「ふざ、けるな……! そんな話に乗るわけがないだろう!!」
激昂したヴィンセントは立ち上がると、床に転がっていた花瓶の破片へと飛びついた。鋭利な陶器の欠片を、自らの喉元に力任せに充てがう。
「どうせ死ぬなら、さっさと自分で死んでやりますよ! 貴方の思惑になど──」
「ヴィンセント、貴様──!」
魔法を奪還したジャレッドが飛び込むよりも、ヴィンセントが首を掻っ切るよりも、最速でゼノは室内に漂う香の魔力を編み上げる。
煙に含まれる水分が瞬間的に凝縮し、氷結の盾となってジャレッドの抜き放った剣撃を弾き飛ばす。同時に、ヴィンセントが自ら首に突き刺したはずの破片は、その役目を果たすことなく砕け散った。
「は──何が……」
本来ならヴィンセントの首から鮮血が噴出し、死という逃亡に成功するはずだった──そんな呆けた顔を見せられて、ゼノは嗤いが堪えられなかった。
「ク、クク……なんで死ねると思った?」
商会内の魔力に干渉出来た時点で、この空間はゼノの領域だ。
さらに言えば、香という魔導具によって作り出された魔力を媒介としていたことで、その魔力を辿れば容易に術式の核まで辿り着くことが出来た。
「一体、何をした……?」
魔法が視える──それすらもモノクルという魔導具による力であって、知識自体はそれほどでもないのだろう。ヴィンセントのその反応を見れば明らかだ。
拡散された魔力の煙は、室内の調度品──魔導具同士を繋げることで術式を構築していた。そしてそれらは、ヴィンセントが身に着けている幾つもの魔導具へと収束するように繋がっている。
おそらく、ヴィンセントへ降りかかる害を、繋がった調度品に肩代わりさせる術式。
「この部屋の魔導具、ちゃんと全部に細工しておいた。お前は簡単には死なせない……俺の魔法で、死ぬまで守ってやるよ」
それはすなわち、生殺与奪がゼノの掌の上にあるということだ。ヴィンセントの顔はみるみる青ざめていく。
花瓶を粉砕して術式が綻んだ瞬間、その隙間にゼノは魔力を割り込ませた。
既に完成された術式なら、上手く組み換えて複雑な魔法を出力させることも出来る。身代わりの魔法から、純粋な防御魔法へと書き換えておいた。
「……死に場所くらい、自分で──っ!!」
ヴィンセントは意を決したように襟元から手を突っ込み、首に提げていた十字架を取り出した。
その勢いのまま反対の手首に嵌めた腕輪に突き立てる。
次の瞬間、十字架は砕け散った。
「あぁ──やっと全部出してくれたな」
ゼノは口の端を吊り上げ、酷薄な笑みを浮かべて見せた。
ヴィンセントの十字架──魔法封じを外す鍵、なんて大層なものではない。
対象の魔法をほんの一瞬乱すだけの魔導具のようだが、そこへ別の魔導具を割り込ませることで、魔法封じを擬似的に解除していたのだろう。
魔法の穴を突いた裏技のような手法だ。
追い込まれれば必ず頼ると確信していた。。
だからゼノは直接破壊するのではなく、書き換えた防御魔法に、わざわざ別の魔導具の干渉を強く反発するよう術式を仕込んだのだ。
希望を一つ一つ打ち砕いて、逃げ場のない破滅へと染め上げるために。
──詰み。
ヴィンセントは正しく理解したはずだ。
その底なしの恐怖を噛み締めるように、茫然と立ち尽くしている。
「今までお前が描いた絵の上で、散々踊らされてきたんだ。今度はお前が──俺の用意した絶望の上で、死ぬまで踊り続けるんだよ」
目を見開いて口をわなわなと震わせることしか出来なくなったヴィンセントが、ついに膝から崩れ落ちる。
ゼノは満足げに頷き、卓の上に不気味な光を放つ魔力結晶を置いた。
「爆発まで一週間くらいか? 期待してるぞ……商会長」
跪くヴィンセントを見下ろし、そう吐き捨ててゼノは部屋を出る。
重い音を立てて閉まった扉の向こうでは、タチの悪い訪問者が立ち去った後、ヴィンセントが罵声を撒き散らして硬い床を叩くことしか出来なかったことを、ゼノが知ることはない。




