円と軸
「……良き目を持ってくれて本当に感謝する」
剛山はそう言うと、二度目の頭を下げた。
ーーそこにあるのは武人としての感謝。
「お前が抱いたその疑問こそ、まさに侍道の核心を突く深い問いだ。結論から言えば、本来の侍道において、どれか一つの徳目だけに偏ることは、本質から外れた『危うき道』であるとされておる」
剛山は頭を上げると、自らの大きな掌を畳の上で開いて見せた。
「これらは独立した七つの徳目ではなく、すべてが互いを補い合い、支え合う『一つの巨大な円』のようなものなのだ。なぜ、どれか一つだけを高めてはならぬのか。その理由を語ろう。――どれか一つの徳目だけを極限まで高めようとすると、それは美徳ではなく、時に『狂気』や『害悪』へと変貌してしまうのだ」
道場を照らす灯火が、剛山の顔に深い陰影を落とす。その声は、かつてその狂気に触れたことがあるかのように、酷く静かだった。
「例えば『忠義』だけを高めた時の危うさだ。主君への忠誠、忠義だけに生きると、主君が間違った道、不義の道に突き進んだ時、それを盲目的に助ける『盲従』になってしまう。そこに正しい義の道や、慈しみの仁の心がなければ、ただの残虐な手先になり下がるのだ」
大和は、明日行く大国の姿をそこに重ね合わせていた。力を競い、力のみを肯定するあの大陸の在り方は、まさに何かの徳目に偏った「残虐な手先」を生み出す土壌なのではないか、と。
「『勇』だけを高めた場合の危うさも同じだ。恐れを知らぬ勇気だけに特化すると、それは単なる蛮勇……無謀な暴走になる。礼の理性を保つ型や、仁がなければ、ただ暴力を振るうだけの危険な存在になってしまう。さらには『仁』特化の危うさ……優しさの仁だけに特化すると、今度は盲愛や弱さになり、正すべき悪を正せない、義を欠く結果を生むのだ」
剛山は開いていた掌を、今度は滑らかに結び、包み込むような形にした。その一連の動作には角が一切なく、それはまるで大和の心を撫でているかのようだった。
「全ては『調和』の精神である」
剛山の声から、厳しさが消えた。代わりに、道場全体を包み込むような、穏やかで、しかし地平線のように揺るぎない力強さが満ちた声。
「我が国に伝わる新渡戸流派の『侍道』において、これらの徳目は常に同時に教えられている。例えば、『義』は厳格な骨組み、骨格であり、それだけでは冷酷で硬すぎる。だからこそ、『仁』という肉、すなわち優しさで包み込まなければならない、とされているのだ。つまり、すべての徳目を持ち続けること、調和を取り続けることこそが、侍道の目指す究極の在り方なのだ」
声色が戻る。剛山の言葉が、大和の胸の奥にたまっていた「力の大きさへの焦り」を、川のせせらぎのように洗い流していくようだった。剛山はそこで言葉を止めない、さらに深く大和の魂に触れるかのように言葉を続けた。
「しかし、大和。お前の『軸』となる徳はあっても良い」
その言葉に、大和は小さく息を呑んだ。
「すべての調和を整えることは大前提だが、人間の性質上、自分の生き方の核、原動力となる徳が存在することは自然なことだ。自分は『仁』を起点にして、すべての調和を取る侍になる――というように、お前の魂の『色』として現れるのは間違いではない。大事なのは、特化して他を捨てることではなく、他の徳が疎かになっていないか、を常に己に問い続けることだ」
剛山は大和の胸のあたりを優しく指差した。
「お前自身の徳は軸として中心に置き、それを原動力にするのだ。その軸さえブレねば、お前の円は決して歪まぬ」




