第3話 己の骸を踏み越えて
第3話 己の骸を踏み越えて
死の闇から引きずり出される感覚は、すでに三度目だった。
佐藤悠真の意識が白い広間に戻った瞬間、膝から崩れ落ち、激しい咳き込みと共に血を吐いた。体には傷がないのに、喉の奥に生暖かい鉄の味が広がる。
ナラは玉座のような椅子に深く腰掛け、赤黒いワインをゆっくりと回していた。彼女の瞳には、初めて見るような好奇の光が宿っていた。
「三度目の死、お疲れ様。死の記憶蓄積率はもう72%。随分と早く進行してるわね。普通の転移者はここまで来るのに十回はかかるのに」
悠真は這うようにして顔を上げた。頭の中で、リアの絶叫、村人たちの腐った手、己の血に塗れた掌の感触が渦巻いている。
「俺は……本当に、俺なのか? あの記憶……全部、俺がやったことなのか?」
ナラは笑った。低く、愉しげに。
「そうよ。無限物語はあなたの『可能性』をすべて抉り出す。善人も、怪物も、被害者も加害者も——全部あなた。神々はそれを見ているのが好きなの。凡人が徐々に壊れ、己を疑い、結局は『物語を続けるため』に他人を踏み台にする姿が、最高の娯楽だって」
彼女は指を鳴らした。悠真の視界に新しいウィンドウが浮かぶ。
【死の記憶蓄積率:72%】
【精神汚染:中度。幻覚・自己否定・他者への不信感が恒常化】
【警告:次回の死で完全崩壊の可能性大】
「次の舞台は、あなたが一番嫌いな場所にしたわ。……楽しんで」
光が爆発し、悠真の全身を焼き尽くす痛みが再び襲った。まるで魂ごと引き裂かれるような、逃れようのない苦痛。
目覚めたのは、薄暗い地下牢の中だった。
鎖の音が響き、湿った石の匂いと、腐った肉の臭気が混じり合う。
手足には重い枷が嵌められ、壁には無数の名前が爪で刻まれていた。その中に、自分の名前が何度も繰り返し、血で塗りつぶされている。
「佐藤悠真……殺せ」
「終わらせろ」
「俺はもう、俺じゃない」
悠真は鎖を鳴らしながら立ち上がろうとした。体は衰弱し、レベルは依然として1。だが今度は、微弱な幸運すら機能していないようだった。
牢の外から足音が近づいてくる。
現れたのは、銀髪の少女——リアだった。だがその姿は前回よりさらに惨めで、右腕が欠け、顔の半分に火傷の痕が広がっている。
「また会ったわね、悠真。……今度は私があなたを裏切る番よ」
彼女の声は枯れていた。目は虚ろで、まるで長年狂気に苛まれた者のよう。
「待て、リア。俺は——」
「黙って。あなたは毎回、同じことを言う。村を守るとか、仲間になるとか、愛するとか……全部嘘。結局、私を、村を、仲間を犠牲にして自分だけ生き延びる。無限物語がそうさせるんでしょう?」
リアは鍵を開け、悠真を引きずり出した。通路の先には、蝋燭の灯りに照らされた広間があった。
そこにいたのは、歪んだ姿の「仲間」たち。
前回の村人たち、ドラゴンの影、そして——自分に酷似した男。
その男は、悠真と同じ顔をしていた。だが目は完全に狂気で染まり、口元には血の跡がこびりついている。
「よう、俺。ようこそ、またこの地獄へ。俺は……17万1人目の『失敗作』だ。お前もすぐにそうなる」
クローン——あるいは前ループの残滓——は笑った。
「無限物語は主人公を一つに決められない。複数の『悠真』を同時に走らせて、どれが一番面白い絶望を生むか競わせてるんだ。俺はもう、限界だ。お前を食って、次の展開に進みたい」
戦いが始まった。
鎖を振り回し、クローンが襲いかかる。リアは悠真の背後からナイフを突き刺した。痛みが脊髄を駆け上がり、視界が白く閃く。
「なぜ……俺は、こんなことに」
血を吐きながら悠真は呟いた。クローンの拳が顔面を砕き、歯が折れる。リアのナイフが何度も腹を抉る。
痛みは肉体だけではない。記憶の洪水が押し寄せる。
無数の死。無数の裏切り。自分が殺した者、殺された者、自分自身を殺した者。
「はは……ははははっ!」
乾いた笑いが喉から漏れた。
クローンが悠真の首を絞めながら囁く。
「ようこそ、本当の自分へ。俺たちはみんな、物語の餌だ。神々は笑ってる。ナラは楽しんでる。お前も、すぐに仲間入りする」
意識が薄れる直前、悠真は見た。
自分の影が、ゆっくりと別の形に変わっていくのを。
人間の形を失い、何かもっと暗く、もっと醜いものへと。
死。
白い広間。
今度は血の海の中に、悠真は倒れていた。
ナラは彼のすぐ傍にしゃがみ込み、冷たい指で頰を撫でた。
「蓄積率91%。素晴らしいわ、佐藤悠真。次はもう、あなたの自我がどれだけ保てるか……本当に楽しみ。神々も大興奮よ。『17万1人目は特別に長持ちしそう』って」
悠真は震える唇で、かろうじて言葉を絞り出した。
「……終わらせてくれ。もう、いい……」
ナラの笑顔は、慈悲など微塵もなかった。
「ダメよ。物語はまだ続く。あなたが壊れるまで、死に続けるまで。次はもっと深い闇を用意してあげる。……さあ、起きなさい。次のページをめくる時間よ」
光が、再び悠真を飲み込んだ。
死の記憶は今や、彼の魂の大部分を侵食していた。
自分が誰なのか、何のために生きているのか——その境界が、静かに溶け始めていた。
無限物語は、容赦なく次の絶望を紡ぎ出す。
(第3話 終わり)




