第二章(3)
フィーネが槍を覚え始めたのは今から三年ほど前。リルアルドにやってきてからだ。エリスのように師匠と呼べる人間はいない。最初に手ほどきは受けたが、そこから先は全て我流だ。その結果、山ほどあった喧嘩の経験と結び付き、槍術と体術を織り交ぜた一風変わった戦い方が完成した。
伝統を重んじる国の騎士ならば、その戦い方に眉をひそめるだろうが、幸いここは実力重視の国。特に問題視されることもなく、フィーネは騎士見習いとして働いていた。
祭りの日であっても、フィーネは任務をこなす。騎士学校の訓練も休みなのに、任務が与えられるのはついてないと思うが、さらに運がない生徒は他国に貸し出されたりしている。王都にいられる分、まだマシだ。
そんなフィーネはたった今、自分に課せられた責務を果たしたところだった。
「まったく……。祭りの日だからって羽目を外し過ぎなのよ。昼間から酒を飲むぐらいなら構わないけどね、ちょっと肩がぶつかったぐらいで女性を殴るってどういう神経してるわけ? 牢屋で反省しなさい」
フィーネは大の字に倒れた男の鼻先に槍を突き付けた。
その犯罪者を正規の騎士に引き渡し、フィーネは一息吐く。特注品の槍。それを折り畳んでから、スカートの下――太ももの部分に括り付けてある入れ物の中にしまう。
懐から懐中時計を取り出し、時間を確認する。フィーネの交代の時間までもう少しある。朝からずっと見回りをさせられているのだ。少しぐらい休んでも構わないだろうと思い、フィーネは近くの壁に背を預けて水筒に口を付けた。
てっぺんまで昇り、わずかに傾いた太陽。建物に囲まれたこの場所にはその光も届きそうにない。大通りのような賑やかな場所ではなく、どこか埃っぽい路地。それなりに大きな町ならば、どこにでもある掃き溜め。犯罪者や薬中のような表舞台では生きていけない連中が住む場所だ。こんなに人が多い祭りの時期でも、ここに近付こうとする人はいない。
さすがに制服を着た騎士学校の生徒まで襲うとは思えないが、騎士見習いであってもこんな薄暗い場所に進んでやってこようとはしないだろう。
水を飲み、口元を拭うフィーネはこんな場所でも怯えた様子は一切見せない。例え物陰から暴漢が襲ってきたとしても撃退できる自信はあったし、こういう場所の空気は慣れている。どんな町であっても、こういう掃き溜めの雰囲気は変わらないのだから。
一番賑わっている大通りから距離があるので、幾分小さくなった祭りの音を聞きながら、フィーネは太ももに手を伸ばした。人の気配がこちらに近付いてくる。
「あっれー? どこに行ったのよー。にゃあー」
その声を聞いて、フィーネは強張らせていた神経を緩めた。
声がした路地を覗き込むと、空箱などが積み上げられた物陰をごそごそと漁る女性が一人。一見すると浮浪者が金目の物を漁っているようにも、酔っ払いが吐いているようにも見える。
フィーネはその人物に声をかけた。
「……教官、何してるんですか?」
騎士学校の教官であるアイン・フォルセティは顔を上げた。当然のようにフィーネがいることは気配で察していたのか、特に驚いた様子は見せない。どこか気だるさを引きずった表情で答えた。
「猫、探してるの」
「猫ですか? なんでまた……」
「ヴェルから頼まれたのよ。正式な依頼としてね」
「あんた、仮にも上位騎士でしょうに……」
リルアルドの騎士はこうした頼まれごとをすることも珍しくない。通常任務に比べれば微々たるものだが、謝礼も出るので小遣い稼ぎに利用されたりする。とは言え、大した内容ではないことがほとんどなので、騎士見習いならばともかく、忙しいはずの上位騎士が引き受けることは滅多にない。
ちなみにヴェルというのは、先日出入り禁止を食らった酒場の女性店主の名前である。
「餌をやってる猫が最近姿を見せないらしくてね。常連の客が最近、この辺りで見たって聞いたから探してきてくれって。見つけたら店の出入りを解禁してくれるらしいから」
「あー、教官にとっては死活問題ですね」
アインは色々な店から出入り禁止を食らっている。そのため、その条件は魅力的なものだろうが、彼女の素性を知っている人間としては情けなくて涙が出てくる。
「まさか、あの『血風』が飲む場所を求めて猫を探してるなんて……」
「あれ? あんたにあたしの素性、教えたっけ?」
「私はキールから聞いたんですけど、気付いてる人間は多いと思いますよ」
その名は伝説に近い上に、偽名を使わずに過ごしているのだから当然だった。
アイン・フォルセティ。現在はリルアルドの上位騎士の一人として数えられる名前だが、数年前までは『血風』と呼ばれ、他国にまでその武勇を轟かせた英雄の名だ。所属していた国は大陸最大の帝国、『クロムガルド』。
クロムガルドはその莫大な兵力を十二の騎士団に分けている。その騎士団はそれぞれ色で呼ばれており、アインはその中の一つである『赤』の騎士団を率いた人物だ。
図書館の資料によると、初陣は成人したばかりの十五歳。現在はクロムガルドに統一されてしまった隣国との戦争の際に、一人で敵将を三人討ち取って敵軍を壊滅に追いやったという信じがたい戦果を挙げているらしい。
それを皮切りに凄まじい功績を挙げ続け、フィーネと同じ年齢の時には『赤』の騎士団長に任命される。その席に就いたのは約三年間。指揮官にも関わらず、常に最前線で剣を振るい続けてきた猛将。その率いる騎士団の色と敵を倒す姿、そして彼女の赤い髪から『血風』という二つ名が与えられた人物だ。
しかし、その『赤』の騎士団長にまで上り詰めた女性は、どういうわけか二十歳ぐらいで突如、その立場を降りてこのリルアルドにやってきた。そこで再び騎士となり、現在は騎士学校で教鞭と剣を振るいつつ、フィーネたちの小隊長という立場に収まっている。
「そっか、キールか……。あの馬鹿、乙女の過去をよくもまあベラベラと……」
この場にキールがいれば噛み殺してしまいそうなほど獰猛な笑みを浮かべるアイン。別にキールは自ら進んでその話をしたわけではない。アインのそういう話は前々から噂になっていたようだし、その噂をフィーネも知っていると思い込んだキールが口を滑らしただけだ。他人の過去をあれこれと噂したりしないキールにしては珍しい失敗だった。
「とにかく、そういうわけだから暇なら手伝ってよ」
「別に暇ってわけじゃないんですけど……」
と言いつつもフィーネは断る気はなかった。猫探しなんて時間のかかる仕事ではない。
「この辺りにいるんですよね。特徴とかは?」
「白いオス猫。一度見たことがあるから、見ればわかるわよ」
「ちょっと待ってて下さい」
フィーネは薄暗い裏町の奥に移動する。大体どこであってもこういう裏町で猫が陣取る場所は決まっている。フィーネは物陰を覗き込んで、そこにいた猫を引っ張り出した。思ったよりも人に慣れており、抱き上げられても暴れる様子もない白猫。性別を確認するとオスだ。
「これですか?」
抱えた猫を見せると、アインは「ああ、それそれ!」と首を縦に振った。その猫を渡す。
「あっという間に見つけたわね。これってちょっとした特技にならないの?」
「なりませんよ。猫が好みそうな場所を少し探せばすぐに見つかります。一発で見つかったのは運がよかったですけどね」
「ふーん。でも、そういう場所を知り尽くしてるのは特技と言えると思うわよ。さすが、スラムに慣れてるだけのことはあるわね」
アインの言葉にフィーネは苦虫を噛み潰したような表情をする。
「あんまり昔の話はして欲しくないんですけど……」
「さっきのお返し」
ふふんと鼻を鳴らすアイン。
アインとフィーネの過去はあまりに違い過ぎる。アインの過去は数々の武功を挙げた輝かしいものなのだろうが、フィーネにはそんなものはない。
「ま、とにかく助かったわ。今度、ヴェルの店で一杯おごってあげる。それじゃ!」
アインは猫を抱えて軽い足取りで去る。昔のことに触れられたフィーネは、それとは反対に重い足取りで見回りを再開した。もうすぐ交代なので大通りに戻ろうとする。
日の当たらないスラムを抜けて、フィーネは表通りに戻る。急に明るい場所に出たので、一瞬目が眩んだ。太陽を手で遮りつつ、大通りを歩く。
フィーネの過去はとても人に話せるような内容ではない。触れられたくないという点ではエリスに似たものを感じていたりする。
フィーネは両親の顔を知らない。物心ついた頃にはある格差の激しい国のスラム街で生きていた。
誰にも頼らないし、頼れない。もしも弱みを見せれば、そこに付け込まれ、裏切られるのが日常の世界。そこでフィーネは生きるために何でもやった。さすがに殺人は犯していないが、窃盗や恐喝はほぼ毎日だ。憲兵に追いかけ回されたことも一度や二度ではない。
フィーネにはそれが普通だったし、周りの同年代の子供たちも同じような荒み切った生活を送っていた。その子供たちも月日が経つにつれ、徐々に数を減らしていく。憲兵に捕まるならばまだいい。危ない連中相手に盗みを働き、死体となって転がった子供も少なくなかった。そんなことさえも、フィーネにとっては日常だった。
そんな場所でフィーネは十年近く生きてきて――キールと出会った。
スラム街とは煌びやかな町の影の部分だ。フィーネもそこに相応しいみすぼらしい格好をしていたし、他の連中も同じようなものだった。ごろつきも多く、旅行者はもちろん、町の人間も滅多に近付こうとはしない。
にもかかわらず、ごく稀に身なりの綺麗な――一目で貴族だとわかる人間が時折姿を見せることがあった。最初はそれが何なのか訝しんでいたが、成長するとその目的を悟った。
彼らは漁りに来ていたのだ。奴隷のように弄べる人間を。下種な行為だとは思うが、文句を言うような人間はいない。囲ってしまっても、殺してしまっても問題などないのだ。
買われる側も安易にその道を選ぶ人間もいた。少女だけではない。中には少年すらもいた。金が得られるという理由ももちろんあるが、それ以上に単純な理由がある。
みんな、この生活に疲れていたのだ。
フィーネは栄養が足りていないためか、身体つきは貧相だったし、身長も今のエリスよりもずっと低かった。だから、フィーネを求める貴族はいなかったのだが、その日やってきた爬虫類のような目の貴族は違った。そういうのが趣味だったようでフィーネに目を付けると、早速金を提示し始めた。
自分の身を売るということに抵抗はあったが、その金があればしばらくは生きていける。それにこの薄暗い場所からは抜けられそうにない。その事実がフィーネを自暴自棄にさせていた。
「やめとけって」
その金に伸ばされていたフィーネの腕が不意に銀髪の少年の手によって止められた。
それに対して怒りを露わにしたのはフィーネではなく、爬虫類のような目をした貴族だった。しかし、いきり立ついかつい男たちを少年が華麗に叩きのめすと、その貴族は無様に逃げ出した。
ほっとした気持ちはもちろんあったが、口から出たのは怒りに任せた言葉。「余計なことするな!」とか、「せっかく金が入るところだったのに!」などの感情的な言葉の奔流。最後に「どうして助けたのよ!」と問い質した。
「変態野郎にいたいけな少女が身を売りそうになってる。そんな場面に出くわしたら普通は助けるだろ」
少年の言葉にフィーネは絶句した。単純すぎる理由もそうだが、それ以上に『助けられる』という行為に驚き、二の句が継げなくなってしまう。善意なんて今まで受けたことがない。
言葉を失ったフィーネに銀髪の少年はさらに続ける。
「それにあんたの目が魅力的だったし。その目はここから抜け出したいって思ってるものだ」
その指摘は当たっていた。ここは薄暗く腐臭のする場所だ。自分の人生をこんな場所で終わらせたくなんかないと思っていた。もっと日の当たる場所に行きたいというのが、薄暗い場所で生きてきたフィーネの願いだった。
今になって振り返ってみると、あの日は色々と初めての経験が多い日だった。自分の貧相な体に欲情する変態と出会ったのも初めてだし、助けてもらうという経験も初めてだ。
手を差し伸べてもらうこともそうだった。
「リルアルドは常に人材を求めてるから、有望そうな人間を見たら声をかけろって上司になる予定の人から言われててね。度胸は間違いなくあるだろうし、運動神経も悪くないだろ。それに何より将来は美人になりそうだ。そういうのって普通の男としては放っておけないんだろ?」
「わ、私とそんなに変わらないのに、マセたこと言わないでよ!」
自分の容姿を褒められることも初めてだったので、フィーネは戸惑いつつも差し出された少年の手を取った。先ほどの貴族よりも小さな手のひら。だが、あれとは違い、嫌なものは一切感じられなかった。
それがキールとの出会いだ。
あの出会いがなければ、フィーネはここにいない。だから、日の当たる場所に引っ張り出してくれたキールには感謝していた。例え、あの場にキールがいたのが、手伝いのためにアインが騎士見習いにすらなっていない子供を、半ば不法に雇ったというあまり褒められた行為の産物ではないととしてもだ。
キールには返しても返せない恩がある。本来ならば、もっと優しく接したいと思うのだが、中々うまくいかない。すぐに手が出てしまうのは、生来の気質なのかもしれない。
特にこういう場面に遭遇すると、無性に腹が立つ。
半眼になったフィーネの視線の先、大通りのど真ん中で何やら言い争いが繰り広げられている。と言うよりも、一方がやたら大げさなリアクション付きで叫んでいた。
フィーネはその場にいる全員に見覚えがあった。
一人は同居人で妹分でもあるエリス。今朝は乗り気ではなかったようだが、祭りをしっかりと楽しんでいるようで、左手におもちゃらしきものを持っている。
その傍らに立つキール。エリスのエスコートを頼んだのだから、彼がいるのは当然だ。
問題なのはその隣にさらにもう一人、女の子がいるということ。それは最近よくキールと一緒にいる編入生のイヴである。彼女もエリスと同じように祭りを満喫しているようで、あまり見かけない異国の食べ物を持っている。
この国にやってきてから日が浅いのだから、彼女が旧友であるキールに王都を案内してもらっていたとしても何の不思議もない。不思議はないのだが、妙にイライラする。おそらく、エリスのエスコートをするという約束を微妙に破られたからだろうと、フィーネは結論付けた。
そして、その三人を前にして大勢の注目を集めているにも関わらず、頭を抱えて喚いている男がいる。あれにもフィーネは見覚えがあった。キールが贔屓にしている鍛冶屋の息子、ラッセル・レインだ。
あの男の父親、『レイン鍛冶工房』の店主はいい腕をしているが、フィーネがあの店を利用したことは一度しかない。理由は簡単で、あそこで喚いている息子がフィーネをしつこくデートに誘ったからである。その被害者はフィーネだけではないようで、今や騎士学校の女子生徒のほとんどにその悪名が知れ渡っており、あの店を利用する女の子はほとんどいない。
その鍛冶屋の息子、ラッセルはキールに人差し指を突き付けて怒鳴る。
「てめえ! こちとら朝からひたすら鉄を打ってて、ようやく外に出れたっていうのに、おまえは両手に花で祭りを堪能してやがったのか!? エリスちゃんだけでも羨ましいのに、そっちの子は今話題の一年生だろ!? なんでてめえの周りはそんなに女の子に恵まれてんだ‼」
絶叫するラッセルに、キールは半ば本気で引いている。イヴはいつもと変わらないぼんやりした目でその光景を眺めつつ、お菓子を食べていたが、エリスはこの事態に涙目になっていた。
さすがにあんな人通りの多い場所で騒ぎを起こされるのは困る。牢屋にぶち込むほどのことではないが、一発殴って大人しくさせようとフィーネが助走がてら走り出す。
「なんだよ、もう大人になっちまったのか!? 近いうちに娼館に行って、一緒に女性の神秘に触れようっていう男の約束を忘れちまったのか!?」
「ちょっ、おま、こんなところで何を暴露して――って、ひぃっ‼ フィーネっ‼」
ターゲット変更。あの頃よりも邪な欲望が表に出るほど成長したキールに向かって、フィーネは跳ぶ。フィーネの両足はターゲットの鳩尾に見事にめり込み、キールは体を折り曲げて壁に激突した。
「ったく、これだから男って奴は……っ‼」
地面に倒れ痙攣するキールにフィーネは吐き捨て、ラッセルを睨む。その迫力と怒気に気圧されたようで、ラッセルは一目散に逃げ出した。
自分が潔癖だとフィーネは自覚している。過去にあんな場所にいて、実際に身を売りそうになった経験があるからこそ、そういう行為に嫌悪感を抱いてしまう。あの場から助けてもらったキールが相手だと特に。男の子だから仕方ないとわかっていてもだ。
フィーネはイヴに目を移す。自然とその目つきが鋭くなる。正体のわからない苛立ちをぶつけるように。
そんなフィーネの視線をどのように誤解したのか、イヴは手に持っていた異国のお菓子――綿菓子と呼ばれるものを差し出した。
「フィーネも食べる?」
邪気の欠片もない笑顔。別に好きでもないのだが、その無邪気な笑みに押し負けた形でフィーネは綿菓子を少しだけかじる。口の中に甘い味が広がる。
「おいしい?」
「……う、うん」
イヴの笑顔に仏頂面で答えるフィーネ。イヴはフィーネに対して敵愾心のようなものは一切抱いていない。それに引き換え、フィーネはイヴに冷たい態度ばかり見せている。新天地に来て不安もいっぱいあるのだろうから、もっと気にかけてやるべきなのに。
自己嫌悪に陥るフィーネに、イヴは唐突に言った。
「私はフィーネを嫌ったりなんかしないよ。こうしてお話ができる友達だから」
その言葉にフィーネを目を見開いた。ほとんど話したこともなく、辛辣な態度ばかり取ってしまうフィーネのことをイヴが『友達』だと思っていることにももちろん驚いた。だが、それ以上にフィーネが感じた後ろめたさを言い当てられたかのような言葉に驚愕した。
表情から何か読み取った可能性も否定はできない。スラム街出身のフィーネも人の顔色を窺うことは多かったので、それから心情を見抜く技術には多少の自信がある。しかし、今のはそんな技術的なものではないと言い切れた。
得体の知れない少女――イヴ・ハーデルラント。フィーネは警戒心を強める。
それでも、もう少し歩み寄ろうと矛盾した思いが生まれたのも事実だ。せっかく友達と呼んでもらえたのだ。その事実を大事にしたいと思った。




