第二章(1)
リルアルドの騎士学校一年生、エリス・ティトーの朝は早い。いつもまだ日も昇っていない時間から目を覚ます。
寝ぼけ眼で辺りを見回し、エリスはここが自分の部屋であることを思い出した。カーテンの向こう側はまだ真っ暗だったが、暗闇に目が慣れているのでどこに何があるのか視認できる。
隣には同室のフィーネが規則正しく寝息を立てて、エリスの方に顔を向けて眠っていた。
リルアルドの『輸出品』は基本的に四人、あるいは五人の小隊として送り出される。実戦経験の少ない一年生に二年生、三年生を組ませ、騎士、上位騎士がその小隊長を務める。正規の騎士が加えられるのは、任務が失敗するという事態を防ぐためである。
一年生のエリスが組み込まれたのはキールとフィーネ、そしてアインが小隊長を務めるチームだ。実戦経験が豊富な三年生こそいないものの、キールとフィーネは騎士学校の二年生の中でも指折りの実力者だし、アインは上位騎士の中でも最強と目される人物。戦闘訓練の成績があまり高くないエリスが一緒だとしても、大きな問題は出てこない。
その同じチームを組むフィーネは寮での同居人でもあった。この騎士学校の寮では学年の違う先輩と後輩が同じ部屋になるのは珍しいことではないが、アインが手を回してエリスの事情を知っているフィーネと同室にしたものと思われる。
エリスの視線に気付いたのか、「ん……んぅ……」とどこか悩ましげな声を上げて寝返りを打つフィーネ。フィーネの顔立ちは整っているし、美人の部類に入るのだろうが、凛とした佇まいや、女でありながら槍を振り回して男たちをなぎ倒す姿から同性にモテる。実際、エリスは同じ学年の女の子から恋文を預かったこともあった。
「エリス、本当にかわいいねぇ……。こういう服も絶対に似合うと思ったんだよねぇ……」
いつもの雰囲気からは想像できないほど緩み切った表情で、フィーネは布団を抱き締める。
凛々しいと評判のフィーネだが、彼女の趣味を同室のエリスはよく知っている。この部屋に入れば一目瞭然だ。この部屋は二人で使っているのだから、当然ベッドと机は二つずつある。フィーネが使っている机やベッドの上にはぬいぐるみの数々が鎮座しているし、タンスの中にもかわいらしい服がたくさん眠っている。真のフィーネ・スクラウドはかわいいものが大好きなのである。
彼女が普段見せるものとは違い過ぎる姿。それは自分には似合わないと思っているようで、フィーネはエリスに口止めをしている。万が一、部屋を見られたらエリスのものだと言うことになっていた。そのかいあって、フィーネの趣味を知る人間はほとんどいない。さすがに付き合いの長いキールにはバレているようだが。
そんなフィーネを起こさないようにしてエリスは、昨日のうちに用意していた着替えを持って部屋から出て行った。
騎士を目指す女子生徒はどうしても男子よりも少なくなる。女子生徒は男子生徒の半分しかいないため、女子寮は男子寮よりも幾分小さく作られている。具体的には男子寮は四階建て三つの棟から成り立つのに対して、女子寮は三階建て二つの棟から成り立つ。その片方の寮、三階の一部屋がエリスたちの部屋だ。
騎士学校の生徒は必ずしも寮に入らなければならないという決まりはない。どこに住もうが自由だ。リルアルドの王都に実家がある生徒はそこから通っているし、キールのように部屋を借りている人間もいる。買い物もしやすいので王都の方が利便性が高いのだが、エリスはこの寮を選んだ。
その一つの理由が風呂だ。この寮の各階には風呂が一つずつある。一般家庭にあるようなものではない。それよりもずっと広い、泳げるぐらいに大きな風呂だ。エリスはその浴場がお気に入りで、今もそこに向かっている。
ちょうど階の中央辺りにその大浴場はある。エリスはそこの脱衣所でいそいそとパジャマを脱ぎ、下着姿になる。その際に鏡が視界に入って、エリスは何となくその前に立った。
そこに映る下着姿の小柄な自分。誰もいないので左目よりも先に自分の体を確認する。女の子として気になるのはやはり胸だ。あまり大きいとは言えない胸。最近同い年の比較対象ができてしまったので、どうしてもそれと比べてしまう。手を当てると手のひらに柔らかさは伝わってくるが、頭に浮かぶあの胸とは差があり過ぎる。
「……やっぱりキールさんも大きい方が好きなのかな?」
無意識のうちに呟き、誰に聞かれているわけでもないのに、その失言を封じ込めるようにエリスは口を手で塞いだ。ここでキールの名前が出た理由を消すように頭をぶんぶんと振って、エリスは下着を脱いだ。
こんな時間帯に風呂に入っている人などいない。エリスはそのことを熟知していた。だからこそ、エリスはわざわざこの時間帯を選んで風呂に入りに来ていた。
自分のコンプレックスを誰にも見られないようにするために。
湯煙ではっきりとはわからないが、エリスの目論見通り誰もいないようだ。
体を手早く洗ってからエリスは湯船に身を沈めようと足を付ける。適当な場所を見つけて腰を屈めようとした瞬間、正面のお湯が盛り上がった。
「――ぷはっ!」
と溜め込んでいた空気を吐き出す声と共に姿を現したのは、見覚えのある美しい金色の髪だった。前髪も後ろに流し、凹凸のはっきりとした体を惜しげもなく晒す少女。まるで以前にエリスが読んだおとぎ話に出てくる人魚のようだ。
「わわわっ!? きゃっ‼」
美しいとは思ったが、警戒も何もしてない突然現れたのでエリスはバランスを崩してしりもちをついた。浮力が助けてくれたので、それほど強く打ち付けたわけではないが、盛大に水しぶきが上がり、エリスの栗色の髪を濡らす。
「やった、記録更新……!」
その人魚――イヴ・ハーデルラントは手で顔に付いたお湯を拭うと、碧眼でエリスを見つめて眉を持ち上げた。
「あれ? エリス? 何してるの?」
「……こっちのセリフですよ。何してるんですか?」
しりもちをついたままエリスが言うと、イヴはブルブルと犬のように顔を振って水滴を落とし答えた。
「誰もいないから潜ってみようと思って。四分ぐらいは潜ってられるようになったんだ」
得意気な顔をするイヴ。何か言いたくなったが、考えてみればエリスもこの誰もいない時間帯に同じことをしているので、他人のことは言えない。
イヴがお湯の中に身を沈める。エリスも体勢を立て直して膝を抱え、お湯の温かさを堪能する。肺の中に溜まった温められた息をそっと吐き出した。
「でも、どうしてこんな時間に入りに来たの?」
その吐息でできた波紋を眺めていると、イヴがそう訊いた。
「それもこっちのセリフですよ。どうしてイヴさんがこんな時間にいるんですか?」
「今日って騎士祭っていうお祭りなんでしょ? 学校の訓練も今日はないし、朝から色んなお店が見て回れるって思ったら、わくわくして眠れなかったの」
眩しい笑顔でイヴは子供のような理由を口にした。
イヴと知り合って今日で五日目。騎士学校のクラスは一学年に七つあり、どういう因果かエリスとイヴは同じクラスだった。そういうわけで彼女がどういう人物なのか、この五日間で少しずつわかり始めていた。
イヴのクラス内の評判は上々だ。まるで人形のように整った容姿だし、浮世離れしているところはあるが、素直な性格であっという間にクラスに溶け込んだ。
戦闘技術に関しては騎士学校の編入試験に受かるだけあり高い。近接戦闘は経験がないのか素人同然なのだが、それを補って余りあるほどの弓の命中精度。素早く動く物体であっても、確実に仕留める。キール曰く、山育ちで魔獣との遭遇や戦闘は日常茶飯事で、その環境下で弓の技術は磨かれていったらしい。
反面、座学は得意ではないようで、授業中よくこっくりこっくりと船を漕いでいる。
そんなイヴが唐突に言った。
「どうしたの? 少し怒ってるみたいだけど」
内心、心臓が跳ね上がった。
エリスの生い立ちは決して恵まれたものではない。自分の身を守るためになるべく目立たないように過ごしてきた。人前で怒ることはもちろん、泣いたりもしないようにしてきた。そんな生活を生まれてからずっとしてきたのだ。だから、感情を隠すことは病的にうまいと自負していたし、実際、観察眼の鋭いフィーネであってもエリスの本音は中々バレない。
そのエリスの感情が見抜かれた。それもまだ付き合いの浅い人間に。
イヴの指摘は正しい。確かにエリスの感情は微かにささくれ立っていた。大した理由ではない。誰もいないはずのお気に入りの空間。それが害されたので、少し残念に思っただけだ。
イヴが悪いわけではないし、それがただのわがままだとも自覚している。なので、余計な波風を立てないようにより慎重にその感情をしまい込んだのだが、それを言い当てられた。
「いえ、何でもないですよ」
今のは確信に満ちた声だったが、その感情をぶつけるわけにもいかないので、そう答えるしかなかった。答える気がないと悟ったのか、イヴは「そう」と頷くと温かなお湯を味わう。
ある程度温まったところで、湯船を出て髪を洗うエリス。再びお湯に身を沈めると、イヴがうつらうつらと頭を上下させていた。ほとんど眠れていない上に、このお湯の温かさで緊張感が弛緩してしまったのだろう。
「それにしても凄い……」
エリスは呟かざるを得なかった。素晴らしい体だ。特に発育の遅いエリスと同年代とは思えないほど大きな胸。浮力で浮かんでいる。スレンダーな体型のフィーネが気に食わないのも無理はない。しかも、あれで腰がくびれているのは反則だ。
どんなものなのか触ってみたいという欲求が生まれ、知らず知らずのうちに手を伸ばすと同時に、イヴの頭が一際大きく揺れ、その顔面を水面に叩き付けた。邪なことを考えていたエリスの顔にも水しぶきがかかる。イヴは慌てた様子で顔を上げた。
二人は顔に付いた水を拭う。それからイヴはその緑の目でエリスを見た。
「あれ? エリスの目って左右で色が違うの?」
心情を言い当てられた先ほどとは違う、心臓が止まりそうになるほどの衝撃が貫いた。
顔を拭いた際に前髪が上がってしまった。いつもは隠している左目が晒されている。右目の黒とは違う金色の左目が。
慌てて左目を手で隠すが、その行動は遅過ぎた。イヴに見られてしまった。エリスの肩は自然と震え出しそうになる。それらをどうにか隠そうとするが、再びイヴに言い当てられる。
「どうしてそんなに怯えてるの?」
決定的だった。イヴは超人的な観察眼を持っている。その前にエリスの誤魔化しなど無意味だ。
エリスは確かにこの時怯えていた。この左目はトラウマの象徴である。それを誰かに見られると、あの陰鬱な日々が戻ってきてしまうような気がする。キールのおかげであの日々から抜け出せたはずなのに。
「ご、ごめんなさいっ‼ 先に上がりますっ‼」
エリスはそれだけ告げて、風呂から逃げ出した。脱衣所で中途半端に体を拭き、急いで新しい下着と部屋着を着て廊下に出る。半ば走るように廊下を歩き、自室に向かう。
誰かに嫌われることをエリスは極端に嫌う。こんな行動を取れば、反感を買ってしまうかもしれないと思ったが、その危険を冒してでもエリスはあの場から離れなければならなかった。
自室に戻り、ドアを閉める。反射的に鍵までかけた。外はまだ薄暗いが、部屋にはランプが灯されており、結構明るい。同居人のフィーネが起きて点けたようだ。
「どうしたの? そんなに血相変えて」
慌てた様子で戻ってきたエリスをベッドに腰かけていたフィーネは驚きに満ちた目で見る。しかし、どう説明しようもないので「何でもないです」と答えて、前髪に触れた。当然、まだ濡れているが、左目はしっかりと隠れてくれている。
何度か深呼吸をすると落ち着きを取り戻せてきたので、エリスは最後に大きく息を吐き出して、動揺して乱れた気持ちに区切りを付けた。
「エリス、こっちにおいで。髪、乾かしてあげるから」
フィーネがベッドの奥に移動し、先ほどまで自分が座っていた場所をポンポンと叩く。エリスはどこか遠慮がちにではあるが、フィーネに背を向けてそこに腰を下ろした。
フィーネは櫛を手に取り、エリスの髪に当てる。ゆっくりとフィーネは髪を梳かし始め、それと同じぐらい優しい風がエリスの髪を揺らした。
窓も開けていないこの部屋に風が吹くのは不自然だ。その答えはフィーネにあった。
騎士学校に入った人間の半数以上が、体のどこかに紋章を入れている。もちろん、そのほとんどは安価で手に入れやすい三級の紋章。フィーネの持つ紋章も例外ではなく、王都の彫り師に入れてもらったものだ。
それによって付与された紋章術は『風』。三級の紋章は四大元素に縛られるので、特性は珍しくも何ともないが、汎用性は高い。突風を生み出して相手を吹き飛ばすこともできるし、同じ方向に風を放って走る速度を上げることもできる。攻撃だけでなく、このようにそよ風を作り出して髪を乾かすことも可能だ。
エリスにとってこの光景は慣れ親しんだものだった。風呂から戻ってくると、フィーネにいつもこうして髪を乾かしてもらう。
同性に人気のあるフィーネだが、エリスにしてみれば彼女は優しい姉のような存在である。だから、エリスはフィーネを慕っていた。育ってきた環境のせいもあり、まだまだ恐縮してしまうところは多いのだけれども、この学校で一番心を許している人物だと言っても過言ではない。キールよりも、アインよりも。
そんな彼女であっても、触れさせないものがエリスの中にはある。
「――やっ‼」
エリスは唐突に声を上げて、顔を背けた。前髪が風で乱れそうになったからである。
「あっ。ごめん……」
フィーネはエリスの過去を知っているので、すぐに謝った。しかし、謝るべきなのはエリスの方だ。
ここはあの村ではない。リルアルドにやってきて一年も経っているのだ。この目に劣等感を感じる必要もない。
頭の中ではわかっているのだが、中々うまくいかない。その結果、イヴから逃げ出してしまったし、フィーネには謝らせてしまった。
それではダメだと思い、エリスは謝ろうとするが、それよりも先にフィーネが話題を変えてきた。どこかエリスを気遣うように。
「今日は騎士祭だけど、エリスは何か予定でもあるの?」
「いえ、特には……。訓練もありませんし、図書館で借りてきた本を読もうと思ってます」
エリスがそう答えると、フィーネは呆れたように額に手を当てた。
「あんたねぇ、せっかくのお祭りなんだから外に出なさいよ。年頃の女の子らしく、楽しんでくればいいじゃない。甘いお菓子とか劇とかもあるんだからさ」
「そう言われても、お祭りの楽しみ方なんて知りませんよ。本で得た知識ぐらいしか……」
騎士祭は去年も行われており、その時期にはエリスはリルアルドにやってきていたのだが、あの頃はそんなものを楽しむ時間的余裕なんかなかった。喧嘩すらもまともにしたことのない村娘が、騎士学校に入学しようとしていたのだ。脇目も振らずアインから戦闘技術を叩き込まれている最中だったので、騎士祭なんてほとんど見ていない。
「そんなことだろうとは思ってたけどね。いつもの休日と同じように引きこもるんだろうなって。キールにエスコートを頼んでて正解だったわ。色々と連れ回してもらいなさい」
エリスは絶句した。祭り自体が初めてなのに、それを男の人と一緒に回る。それは想像しただけで気絶してしまいそうなほど難易度が高いものだ。
そんなエリスの様子を見て、フィーネは首を傾げる。
「あれ? ひょっとしてキールじゃダメだった?」
「そ、そんなことは……っ‼」
むしろ適役だと言える。初対面の、しかも男の人と回るなんて事態になれば、エリスのノミの心臓は麻痺しかねない。だが、一番の適任者と言えるのは、今ここにいる女性だ。
「フィーネさんは行かないんですか?」
「巡回の任務が入ってるのよ。騎士祭だからいつもよりも多めの人数が必要なんですって」
リルアルドの騎士は他国に貸し与えられるだけが仕事ではない。本来の仕事は他国と同じように国内の治安維持だ。騎士学校の生徒は王都の見回りや島内の町や村に派遣されて、国民が依頼した仕事をこなしたりもする。エリスだって一昨日は王都の見回りをしていた。
「ま、そんなわけだから楽しんできなさい!」
困惑するエリスの背中を叩くフィーネ。
太陽が顔を出し始めたようで、カーテンの隙間から光が射し込んでくる。この光に照らされながら、騎士祭の準備をしている人たちもたくさんいるはずだ。エリスのクラスメートたちが行う劇のような催し物もあるはずだし、屋台も何軒も並ぶ。
キールと一緒に回ることに緊張感を覚えつつも、エリスは心のどこかでそれを楽しみにもしていた。




