第三章(1)
ルカ・リルアルドにとって風呂の時間は特別だ。王の妹としての立場は窮屈なもので、ルカの心身を過剰に痛めつけてくる。勉学はもちろん、時にはその立場で来客の相手をしなければならない。しかも、あと一年もすれば成人して社交界にデビューしなければならない。王の妹としての立場はますます重くのしかかる。心労は増える一方だ。
風呂に入って、足を伸ばしてバシャバシャと水面を叩く。これがルカの疲れた体を癒やす手段だった。
騎士学校の女子寮に負けずとも劣らないほど大きな王族だけが入ることを許された浴場。そこで今日もまたルカは疲れをお湯の中に溶け込ませていく。
そんなルカの風呂だが、最近はその楽しみ方が少し変わった。ルカの目の前で首を逸らして、お湯の温かさを堪能している少女――イヴの存在がその原因だ。
「ふふっ」
「ん? どうしたの? 何か楽しそうだけど」
自然と笑い声がルカの口から漏れて、イヴは首を傾げた。ルカは微笑んで答える。
「こうして誰かと一緒に入るって今までなかったから新鮮で。ボクのお付きの人たち頼むのもねー……」
ルカは王族だし、メイドたちにも仕事以上にかわいがられている。頼めば、喜々として体を洗ってくれることだろう。ただし、それだけだ。ここは王族専用の風呂だし、ルカはれっきとした王族だ。この風呂に一緒に入ってくれることなんてあり得ない。
「ユーゼスとは一緒に入らないの?」
そのイヴの発言を受けて、ルカは顔面をお湯に叩き付けた。
「そんなことあり得るわけないじゃん!」
顔を引き上げてルカは絶叫して否定した。兄と風呂に入るなんて絶対に無理だ。
ルカはイヴに指を突き付けて忠告する。
「いい、お姉ちゃん。男の人に軽々しく肌とか見せたらダメなんだからね! 男はみんな狼なんだから!」
育ってきた環境のせいか、イヴには立場や階級の概念がほとんど存在しない。なので、基本的にどんな人物だろうと呼び捨てである。ユーゼスとしてはそれが気に入らないようだが、ルカとしては偏見なしに自分を見つめられている気がして好ましい。
だからなのだろう。ルカは親しみも込めて、イヴを『お姉ちゃん』と呼称していた。兄が聞いたら泣きそうな気もするが、姉が欲しかったという願望の表れなのかもしれない。もっとも、こうして女としてごく当たり前のことを注意している時点で、その威厳は皆無なのだが。
「特にお姉ちゃんは、その、色々と、魅力的、なんだから……!」
多少の恥じらいを込めて、ルカは目を逸らす。その突き付けた指はイヴの鼻先から少し下の方に向けられた。そこには浮力で浮かぶ双丘。
「クラスメートにも羨ましいって言われたけど、こんなのあっても邪魔なだけだよ。胸当てしないと弓も打てないし、その胸当ても圧迫されてるみたいで凄く窮屈だし……」
その巨大な双丘を鷲掴みにするイヴ。まだまだ発展途上のルカとしては羨ましい限りだ。
「それにしても、今日はみんなピリピリしてたね。あのアインも。怒ってるのとは違ってたみたいだけど、でも怯えに近い緊張も見え隠れしてた」
一級の彫り師であるイヴ。彼女は感情を見据えることができるらしいが、その能力は本物のようだ。彼女は今の状況を見事に指摘した。
ルカは「そうだね」と答えて、顎の辺りまでお湯に身を沈めた。
「クロムガルドとファブニールが戦争を起こしたって話になったら、やっぱりみんな不安になっちゃうよ。三大大国の内の二つなんだから」
以前からきな臭くなっているのはルカも聞いていたが、ついに戦争が始まったと報告が入ってきたのは今日の夕方――つまり数時間前のことだった。あくまでも異国の話だが、三大大国の二つが激突したとなれば、その余波は決して軽んじられるものではない。
ルカのその言葉を受けて、イヴは訊ねた。
「そもそも三大大国って何なの?」
ルカは脱力して、お湯の中に頭ごと突っ込んだ。イヴの事情はある程度ルカも知っている。そのせいで世間に疎いということもわかっている。だが、三大大国すらも知らないというのは予想外だった。仮にも騎士学校の生徒。これでは座学の方は絶望的だと思われる。
ルカは顔を右手で拭いながら、左手の指を三本立てた。
「えっとね、このリルアルドの東、アイロシオン大陸にはたくさんの国があるの。その中でも特に大きな国が三つ。クロムガルド、セレスティア、そしてファブニール。この三つを三大大国って呼んでるんだよ」
立てた三本の指の人差し指を右手で摘まむルカ。
「その中の筆頭は間違いなくクロムガルドだね。人口、領土共に三つの中でも一番大きいし。でも、特筆すべきは何と言ってもその武力。騎士の数も圧倒的に多いし、他国にまで勇名を轟かせる英雄も少なくない」
「アインみたいな?」
「そうだね。けど、有名なのはアインさんだけじゃないよ。十二に分けられた騎士団のトップは例外なく、英雄と言われる人たちだね。でも、輝かしいものばかりがある国じゃない。黒い噂もクロムガルドにはたくさんある」
例えば、『銀』。クロムガルドの闇そのもののような組織の総称だ。そんな組織がある以上、公にはできないことを抱えており、それを内々に処理し続けているということ。
その一つが何年もイヴを監禁していたことだろう。それ以外にも後ろ暗い事実はあると容易に想像できる国だ。あれだけ巨大な国だ。長い間維持するには綺麗ごとだけでは済まないのはルカにだってわかる。
その嫌な気分をため息一つで吹き飛ばして、ルカは中指を摘まんだ。
「二つ目はセレスティアだね」
位置としてはクロムガルドの南側になる。海にも一部が面しており、リルアルドとは船での行き来がある国だ。
「この国の正式名称はセレスティア神聖国。所謂、宗教国家だね。今は紋章術なんて当たり前だし、うちみたいに彫り師を迎え入れるために補助金を出す国も少なくないけど、この国は逆だね。あんまり推奨してないの。その宗教上の理由で。まあ、推奨してないだけで禁止してるわけじゃないから、こっそり入れてる人もいるんだろうけど」
「でも、紋章術がないと国防に影響が出たりするんじゃないの?」
イヴの疑問にルカは頷いた。
「そうだね。でも、この国も一筋縄じゃいかないよ。この国にはエルフっていう、ちょっと特殊な種族がいるの。彼らは長命で病気なんかじゃ死なないって言われてる。その分、数も少なくて子孫を残すのも凄く大変だって話だよ。そして、それ以上に特徴的なのは彼らは紋章を持たなくても、紋章術を使えるということ」
それを『紋章術』と呼べるのかは微妙だが、コアを変化させていることには変わりない。
「しかも、操れるのは私たちみたいに一つの特性だけじゃない。四大元素全てを自分の意思で扱えるの」
「凄いね、それって。だけど、どうしてそんなことができるわけ?」
「そこまではわからないよ。エルフたちの生まれ持った特権みたいなものなんじゃないの? それで、セレスティアに住んでるんだから、国が脅かされるような事態になれば、国防のために彼らが出てくる。四大元素を自在に操れるんだからね。厄介な相手なのは間違いない」
ちなみにセレスティアはリルアルドと同じような王政の国だ。ただし、そのトップに君臨する人間は国王ではなく、教皇と呼ばれている。
最後に残った薬指を示すルカ。
「それから、ファブニール。ここは鉱山が有名な国だね。良質な鉄が取れるから、鍛冶屋がとても多いらしいよ。その鉄やそれを加工した剣なんかが主な輸出品だね。あ、それに土もいいものが取れるらしくて、陶芸なんかも盛んだね。ここの陶器とかは高値で取り引きされてるんだよ」
「つまり、その良質な鉄を求めてクロムガルドは侵攻したってこと?」
イヴの質問にルカは難しい顔をした。どうにも腑に落ちない。
「いい金になるのは間違いないけど、戦争を起こしてまで求めるものかって言われると微妙かな。クロムガルドにだって鉱山はあるし、きな臭くはなってたけど、流通だって滞ってたわけじゃないからね。それだけが目的だとは考えにくい。それにファブニールに攻め込むにはリスクも大きいからね」
「リスクって?」
再び首を傾げるイヴ。
「騎士団の数や質はクロムガルドが群を抜いてるけど、ファブニールだって立派な大国と呼べる国だからね。攻め落とすのは簡単じゃない。その主な理由は二つ」
ルカは薬指を畳んで、立てた指を二つにする。
「まずは魔剣という存在。お姉ちゃん、魔剣って知ってる?」
「アインが昔持ってたって話は聞いてるけど……」
その話はルカも耳にしたことがある。クロムガルドは特定の騎士団長に魔剣を預ける伝統がある。アインから直接聞いたわけではないが、『赤』の騎士団長にも魔剣が与えられるようで、クロムガルドもそれを公表していたので、間違いないだろう。
「魔剣っていうのはね、コアを変換してその特性を発現できる紋章術と同じことができるの」
仕組みはわかっていないが、強力なのは言うまでもない。その昔、魔剣一つで一国が滅んだという伝説もあるぐらいだ。
「ただそういう剣だからね。言うまでもなく、凄く貴重なの。さっきのエルフの話とは比べ物にならないぐらいにね。一番の大国のクロムガルドが所持してるのは、確か五本だったはず」
クロムガルドのことだ。裏で隠し持っている可能性も否めないが。
「で、ファブニールはそれよりも魔剣の所持数が多いの」
もちろん、魔剣の数で戦争の勝敗が決まるわけではない。だが、これだけでもクロムガルドのリスクは非常に高いと言わざるを得ない。
ルカは人差し指を動かす。
「そして、そんな魔剣と同じぐらい危険なものがファブニールには存在してる。それが竜。国旗にも描かれてるファブニールを象徴する生物だね」
現存する中で最強と言われる獣だ。大空を高速で飛び回り、その口からは火を吐く。さらに剣や槍を通さない硬い鱗を持つ生物。それを唯一所持しているのが、ファブニールなのである。
「でも、どうしてその国にしかいないの?」
「んー。ファブニールには国が管理してて、一般人が足を踏み入れちゃいけない地域があるの。『風の谷』。そこはそう呼ばれてて、一年中朝から晩まで風が吹き続けるっていう変わった気候の地域なの。で、竜はそこでしか生まれないし、育たない。風が吹き続けるって環境が必要なのか、それとももっと別の要因が必要なのか、専門家じゃないボクじゃわからないけどね」
専門家であっても、その理由が解明されているのか怪しいところではあるが。
ルカは汗が噴き出してきた顔を両手ですくい上げたお湯で流した。
「とにかく、そんな強力な竜がいて、ファブニールはそれを戦いに利用してる。でも、その数は極めて少ない。確か十匹もいなかったはずだよ。だけど、それを馬のように操るエリート騎士たちがいるの。彼らは『竜騎士』って呼ばれてる。間違いなくファブニールの最高戦力と言える存在だね」
例え竜がいなくても彼らならば、クロムガルドの騎士団長相手でも引けを取らないだろう。
そこまで話を聞いたイヴは顎に手をやり、唇に指を当てた。相変わらず眠たさを引きずったような緊張感のない目つきだが、真剣に考えていることは雰囲気で悟った。
「ってことは今回の戦争はその二つがぶつかり合うから、大変なことになる?」
「うん。その二つがぶつかり合うんだからね……」
クロムガルドとファブニールは国境が接しているので、これまで小競り合い程度の衝突ならば何度もあった。しかし、今度は違う。何人ものクロムガルドの騎士団長が今回の遠征に参加しているとの情報もある。そうなれば、当然竜騎士が出てくる。いつもの小競り合いではなく、死者も相当な数が出るだろう。騎士だけではなく、一般人にも。
それを怖いと感じてしまうのは仕方がなかった。異国の地の出来事ではあっても、この地に飛び火する可能性も決してゼロではない。その一抹の不安がルカを怯えさせてしまう。
そんなルカの不安を感情を見抜ける一級の彫り師であるイヴは見逃さなかった。
「ルカ、怖がらないで。ルカが不安そうな顔してたら、みんなが不安になっちゃう」
その通りだ。ルカはこのリルアルドの国王の妹。そういう立場の人間なのだから、国家間のことでの不安を国民に見せるわけにはいかない。
「だけど、不安になったら私に言って。何にもできないけど、これぐらいのことならできるから」
そう言って、イヴはルカを抱き締めた。顔に当たるこの世のものとは思えない柔らかな二つの感触。それと同時にイヴの心臓の鼓動がルカの耳朶を打つ。心地いいリズム。もうほとんど記憶にない母を思い出し、段々と落ち着いてきた。
それから今までとは違う不安に似た疑問が頭の中に湧き上がってきた。
「……お姉ちゃん。こういうことを男の人に――キールって人にやってたりしないよね?」
「ないけど……」
そこで言葉は途切れたが、その後に『どうして?』と続くのは明白だった。こういう行動が男にどういう影響を与えるのか本気でわかっていない様子だ。
そういう危うさも含めてイヴの魅力だと理解しているが、妹分のルカとしては心配だ。先日のキスの件も含めて、キールという男性を見極めておく必要がある。ルカはイヴの柔らかさを堪能しながら、そんな決意を新たにした。




