第二章(3)
リルアルドの騎士学校には『早期卒業』という特例措置が存在している。騎士学校に在籍しているが、その実力はすでに普通の騎士以上の実力があると証明された場合に、騎士学校を卒業し騎士として任命されるシステムだ。
ただし、その実力が証明されることは容易なことではない。騎士との正式な試合なんて滅多に組まれるものではないし、他の方法で実力を示すことも多いわけではない。従って、そのシステムは有名無実化しているらしい。
それを上位騎士であるハイドから説明されたキールは自室のベッドに横になって、ぼんやりと天井を眺めていた。ランプを点けたままなので、部屋は明るく、見慣れた天井の染みがよく見える。
「ま、考えてみれば当たり前の話ではあるよな……」
キールはため息交じりに呟いた。
普通、騎士学校の小隊システムは信頼のおける正騎士を筆頭に、三人から四人の騎士学校の生徒を組ませる。その中の一人は実戦経験の多い三年生を入れるというのが通例だ。万が一、隊長の騎士が指揮を取れない事態に陥った時のための措置である。
キールが所属するアインの小隊には、その三年生がいない。去年はいたのだが、今年は配属されなかった。アインが指揮を取れない事態に陥ることはあり得ないという全幅の信頼が置かれているのも、そのアインが『いらん』の一言で済ませてしまったのも、もちろん理由に挙げられる。しかし、その『いらん』の一言が通ってしまったのはキールがいるからとのことだった。
自画自賛しているわけではないが、キールの実力は卒業間近の三年生たちと比べても、頭一つ分ぐらいは飛び抜けていると自負している。そういう環境下で生きてきたのだから、実戦経験は比べ物にならないほど豊富。夕方、アインにあしらわれたとは言っても、訓練を子供の頃から積んできたのだから、剣も体術も並ではない。
それでも、『早期卒業』というシステムがキールに当てはめられなかったのは、単純に前例がほとんどないからだろう。どの程度の実力で『早期卒業』できるのか、その基準がまったくなかったので、運用が難しかったのが理由だと言える。
だが、先日の『銀』との一件で、事情が変わった。
キールが一級の紋章師だと判明したのだ。イヴだけではなく、キールもまた騎士学校に在籍させておくのが適切ではないと判断されても、何の不思議もなかった。むしろ、当然の話だと言えた。
そんなことをぼんやりと考えているキールの耳に、ドアの方からコンコンという音が届いた。どこか控え目な印象を抱かせるノックの音だ。
キールはベッドから起き上がり、騎士学校の入学祝にアインにもらった懐中時計を手に取った。時刻は七時半。夜更けというには少々早い時間である。
キールは「はいはい」と返事をしながらドアを開けた。そこにいたのはフィーネだった。制服姿ではなく私服姿。かわいらしさよりも動きやすさを重視した彼女らしい服だ。長めの髪は一つに結んであった。風呂に入ってきたようで、微かに石鹸の匂いが漂っている。
キールにとっては同じ小隊のメンバーなので見慣れた顔だが、こんな時間帯に彼女がやってくるのは珍しい。目を軽く見開きながら、キールは訊ねる。
「どうしたんだ? こんな時間に」
「別に。ちょっとジョギングしてて近くまで来たから」
「……嘘つけ。石鹸の匂いをさせて、ジョギングする奴がどこにいるんだよ」
あからさまな嘘を指摘すると、顔を赤くして、唇を尖らせる。それから、そっぽを向いて小さく「うるさい」と呟いた。
気を取り直すように咳払いをして、フィーネは話を切り出した。
「ねえ、もうご飯食べちゃった?」
「いや。今から準備するところだけど?」
「なら、ちょっと付き合ってよ。私もまだだから」
外を促され、キールの悪癖が顔を覗かせた。その悪癖から来る躊躇いに気付いたのか、フィーネは続けた。
「ヴェルさんの店なら大丈夫でしょ?」
「……ん。まあ、あそこなら……」
フィーネの言う店は大通りにある酒場のことだ。ヴェルという女性がやっている店で、酒場なのだが、酒だけではなく料理も出す。酒の種類も豊富だし、料理も味もいい。何よりも女性店主ということで人気のある店だ。キールが信用を置いている数少ない店であり、アインを受け入れている数少ない酒場である。
昼食は警戒もキールの悪癖から来る警戒もあり、サンドイッチだけだったので腹は減っている。だが、今から作り始めるのは面倒だ。キールはフィーネの提案に頷いた。
リルアルドの気候には四季がある。この時期はまだ暖かい方だし、これから暖かくなっていくが、まだ夜は冷える時がある。今日はそれほど寒くないが、念のため上着を持ったキールはフィーネと並んでリルアルドの王都を歩く。
大通りの左右に一定の間隔で並ぶ街灯には火が灯されており、夜の帳が落ちても明るい。その辺りの事情もあり、夜でもリルアルドの王都は治安がいい。色んな場所から人々が笑い合う声が聞こえてきた。
キールとフィーネの会話もそんな声の一つになる。
「そう言えば、もう聞いた? イヴがうちの小隊に入るって話」
「いや、初耳だな」
その言葉に偽りはなかったが、そうなるだろうなと予測していたので驚きはしなかった。彼女の事情を鑑みれば、アインの小隊以外に適役は考えられない。
「でも、戦力としては申し分ないと思うぞ。あいつの弓の腕は凄いし、ちょっとぼーっとしてるところもあるけど、状況判断も悪くない。機転も利く」
山で魔獣を相手にすることもあったという経験が活きているのだろう。この騎士学校で問題なく訓練を積めているところからも、それはわかる。
その話と連動して、キールはあることを思い出して口にする。
「そう言えば、イヴの奴、どの部活に入るかで悩んでたぞ」
「ああ、その話なら聞いてる。本人から直接ね」
「おまえのところはどうなんだ?」
水泳部に所属するフィーネ。彼女の運動神経は素晴らしく、専攻武器である槍も体術を織り交ぜた特異な戦い方をする。その身体能力は部活でもいかんなく発揮され、泳ぐ速度はすでに三年生よりも速いらしい。キールも泳げるが、相手にもならないだろう。
「もう誘ったわよ。けど、断られた。あんまり速く泳いだりするのは得意じゃなんだって」
「ふーん。まあ、そうかもな」
山育ちなので運動神経は悪くないだろうが、のんびりとした性格上、速度を競ったりするのは得意じゃないというのは説得力がある。そう納得するキール。
その胸倉がいきなり掴まれた。しっかりと首が絞められ、酸素が肺に行かない。
そのあまりにも予測不能な行動にキールは目を白黒させる。
「ちょ、え? おま……!」
「今、あんたが思ったことを当ててやろうか? 『イヴが水泳苦手なのは仕方ないだろ。あいつ、フィーネと違って胸でかいから、その分、抵抗も大きいだろうからな。そういう意味じゃ、貧乳ってのも才能だよな、あははは』とかそういうこと考えてたでしょ?」
「ちが……! 首……! 完全に絞ま……!」
言いがかりもいいところなのだが、首が絞まっているので声も出ず、反論もままならない。
怒りの馬鹿力で宙に持ち上げられ、地面から足が離れて数十秒。意識が朦朧としかけたところで、こつんと何かが当たる音が聞こえた。それを合図にフィーネはようやく手を放した。解放されたキールは尻から地面に倒れ込んだ。
「店の前で物騒な騒ぎを起こすな」
ゴホゴホという自分の咳に交じってそんな言葉が聞こえ、キールは顔を上げた。霞みかけた視界に映るのは、フィーネの頭に玉じゃくしを乗せた長身の女性の姿だった。ヴェル・ミシリアである。いつの間にか、目的地の店の前までやってきていたようだ。
「あんたね、店の前で人死にが出たなんて話になったら、客足が遠のくでしょうが。よそでやりなさい。殺るんなら」
「ちょっとは俺の心配をしてください……」
絞殺されかけた反動なのか、辛辣な言葉をぶつけられた心の痛みのせいか、涙に濡れた目元を拭いながらキールは立ち上がった。
殺人未遂事件を止めたヴェルは店の中に入り、キールとフィーネもそれに続く。
いつものことだが、店内は賑わっていた。店主が若い女性ということもあり、ここに集まる客の割合は男性の方が多い。本日もまた仕事帰りの労働者や騎士の連中が集まっていた。
「あ……」
フィーネはその中の一角を見て、ぽかんと口を開けた。キールもすぐそれに気付き、視線が固定された。
出入り口に近いカウンター席でグラスを傾けている赤い髪の女性。言うまでもない。アイン・フォルセティである。
「……教官、どうしてここにいるんですか?」
「他にどこに行けって言うのよ。ほぼ全店から締め出し食らってるのに」
キールの質問にアインはつまみを食べながら、そう答えた。すでに顔が赤いので酔っ払いつつあるのだろう。酔っ払いに絡まれるのは勘弁してもらいたいので、アインから少し離れた場所に陣取る二人。
昼食が質素なものだったので、なるべくがっつりしたものをキールは注文し、水を飲んだ。絞められた喉に水が染みるのを感じていると、注文を終えたフィーネが話しかけてきた。
「で、話を元に戻すけど、イヴが私たちの小隊に入る代わりに、あんたに騎士任命の話が来たんだって?」
それを聞きたくて、わざわざキールの家までやってきたのは最初からわかっていた。あの場にいた同室のエリスから聞いたのだろう。隠しておく気もなかったので、「まあな」とキールは返した。
フィーネは深呼吸をしてから微笑んだ。
「おめでとう。一足先に騎士になれるなんてよかったじゃない」
そう言われて、眉間のしわが濃くなるのをキールは鏡を見ずとも感じた。そんなキールの表情を見たフィーネは首を傾げる。
「よかったって顔じゃないわね。どうしたわけ? 喜ばしいことじゃない」
「……正直、迷ってる」
キールは本音をフィーネにさらけ出した。
そう。騎士任命の話を受けるか否か、キールは迷っている。
キールの本音にフィーネは意外そうに眉を持ち上げた。
「どうして? 私たちは騎士を目指してるわけでしょ? 確かにしがらみも増えるだろうけど、その分、給料だって今よりもずっと増える。それに優遇されることも多いわよ。断る理由なんてないと思うけど」
「それはそうなんだけどな……」
フィーネの言うことは正論だ。
ハイドが言うには、ごく少数ではあるが、キール以外にも『早期卒業』というシステムが適用されたことが、騎士学校の長い歴史にはあるらしい。また、それには一応辞退する自由も認められているとのことだ。
もっとも、そのごく少数の例の中でも、ハイドが知る限り、その自由を行使した生徒はいないとのことだが。当然だ。騎士学校の生徒が騎士になる。それはごく自然なことだ。キールだってそれを目指しているのだから、その話を断る理由なんてあるわけがない。
それでも、キールは迷っていた。断る理由なんてあるわけないのに、それになりたくないと思っている自分がいる。
そして、フィーネの質問に答えることもできなかった。自分の気持ちなのに、その迷っている理由がわからないのだから。まるで霧の中にでもいるような気分になる。
それを誤魔化すように再び水の入ったグラスを手に取り、キールは水を一口飲む。
「はい。お待ちどうさま」
ヴェルが料理を持ってきて、二人の前にそれぞれの料理を並べる。これを幸いにキールは話を打ち切って、食事を始める。フィーネもそれ以上は追求しようとせずに、ナイフとフォークを持った。
お互いに他愛のない話を、食事と共に続ける。普段は喧嘩のような小競り合い――というか、フィーネの一方的な暴力に晒されているが、決して二人は仲が悪いわけではない。楽しい時間だって過ごせる。というよりも、このような時間を過ごす方が多い。
だが、その楽しい時間は唐突に終わりを告げた。ヴェルの店のドアが壊れんばかりの勢いで開けられたのである。
その音で賑やかだった店内は一瞬の静寂に包まれ、視線が出入り口に集まった。キールとフィーネも話を中断し、そちらを見る。
そこには剣を腰に差した騎士が立っていた。まだ騎士学校を出たばかりだと思われる青年騎士だ。よほど急いでここに来たのか、息を弾ませていた。
その青年騎士は店内を見回し、空のグラスを握り締め、カウンター席に突っ伏したアインのところで目を止めた。
「こちらにおられましたか、アインさん」
大股で近付き、右手で作った拳を左胸に当て、生真面目に敬礼をする青年騎士。そこでようやくアインは顔を上げた。完全に酔っているようで、目はほぼ白目をむいている。息も酒臭くなっているのが容易に想像できた。
騎士どころか、女性としても失格としか思えない上位騎士の姿に青年騎士は一瞬怯んだような顔をしたが、すぐに表情を引き締め直した。それから、もう一度騎士の敬礼をして言った。
「緊急の連絡です。本日、夕刻よりクロムガルドとファブニールが交戦状態に入ったとのことです。今からそれに伴って緊急の会議が開かれ、アインさんも参加するようにと……」
「わかった。すぐに向かうわ」
さすがのアインもこの報告を聞いて酔っ払いの顔を引っ込めた。酒の影響など微塵も見せずにヴェルの店を後にする。
それを見送る店の客たち。すぐにまた騒がしさを取り戻してきたが、先ほどよりも幾分雰囲気が暗くなったように思える。他国でのことではあるが、戦争と聞けばやはり気が滅入るものなのだろう。
誰に遠慮をする必要もないのに、フィーネは小声でキールに話しかけてきた。
「戦争だって。どう思う?」
「すぐに影響が出るってことはないだろ。ただまあ、大国同士のぶつかり合いだからな。どこかでその余波を受けるとは思うけど……」
「そうじゃなくて……」
もちろん、彼女の言いたいことはすぐにわかった。リルアルドの生業は傭兵業だ。つまり、彼女が訊きたいのは自分たちの派遣があるのかということである。
「俺たちの派遣ってのは、ほとんど考えられないだろ。騎士見習いに戦争に行かせるってことはあり得ない」
騎士見習いに任せられるのは、魔獣退治や野党の殲滅。せいぜいその辺りのことぐらいだ。もし、戦争に派遣されるとすれば、正騎士だけで構成された正規軍だろう。もっとも、それも本当に派遣されるのか疑わしい。
戦争屋なんて言われてはいるが、リルアルドはここ十年、他国の戦争に介入したことはない。派遣を要請される戦争がなかったからである。最後に戦争に派遣されたのは、ロンダルシアという王国が戦争に巻き込まれた時だ。
今回の戦争は両国ともそれよりもはるかに大きな大国。他国の騎士を雇うというのは、それだけで弱みを見せることにつながりかねないので、リルアルドの騎士を雇うとは考えにくかった。
「気に留めておくぐらいでちょうどいいだろ」
キールはそう締めくくって、少し冷めた料理を食べ進める。
可能性は限りなくゼロに近い。しかし、戦争というのは不測の事態がよく起こる。この戦争も何が起きるかわからない。そこにリルアルドが何らかの形で巻き込まれる可能性は、決してゼロではなかった。




